第9話 ディオニュソス物語:前編

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 ディオニュソスは、貧しいながらもごく平凡な家庭に生まれた一人息子だった。

 母親は産婦人科で排卵が無いと言われていたのもあり、両親とも子供を諦めていたにも関わらず突然命を宿した事から、奇跡の子だと言われ大層可愛がられて育った。


 ディオニュソスの家庭は貧しかった。

 父親はとにかく運が無く、人にも利用されやすく損をするタイプの人だった。

 周りの人間に嫌な事や嫌な役割を押し付けられても、

 しょうがないよな。

 と頭の中で一言つぶやいては、実際に不平不満を口に出すこと無く背負い込んでしまう典型的なお人よしであった。


 ある時二つ返事で保証人を引き受けた親友の多額の借金について、その親友だと思っていた人間に裏切られそれを全て肩代わりさせられた時も、

 しょうがないよな。

 と頭の中で一言つぶやいては、受け入れてしまった人だった。

 だが彼の体は全ての苦労を受け入れきれず、ディオニュソスの父は若くして過労により没した。



   ×



 幼少期のディオニュソスはとても賢く思いやりがあり、感受性の高い子供だった。一人で親子二人の生活を担う母親をいつも気遣っていた。


 ある時、ディオニュソスは言った。


「おかあさん、僕これからたくさん勉強して、将来お医者さんになってお金持ちになって、お母さんに楽させてあげるね」


 それを聞いた母親は、苦しそうな笑顔を見せて、返事をした。

「ふふ、ありがとうね。——――でもね、お医者さんになるにはいっぱいお金が必要なんだよ。貧乏でごめんね。お医者さんにしてあげられなくて、ごめんね」


 母親の為を思って放った言葉が理由でそんな顔をさせてしまうなんてとディオニュソスはとても悲しい気持ちになった。


 その出来事から、幼少期のディオニュソスは金に対して嫌悪感を抱くようになった。

 お菓子やおもちゃが欲しいとねだる事などない、物欲の無い大人しい子供らしくない子供時代を過ごした。

 唯一本を読む事に物凄く熱中し、金銭的な都合もあり幼稚園に通っていなかったディオニュソスは近所の図書館に一人で行っては日々たくさんの本を読んだ。


 どうして空は青いんだろう。どうして太陽は落っこちて来ないんだろう。

 どうしてお金の有る無しが人の豊かさを左右してしまうんだろう。


 幼いながらに、とても知的好奇心旺盛な子供であった。



 ――しかし歳月が経ち、ある出来事からその知的好奇心は歪んだ形で成長を進める。

 高校生になりバイトが出来るようになった。未成年ながらお金を稼ぐ事が出来るようになったのだ。

 ディオニュソスはバイトをかけ持ちし、とにかくバイトを詰め込んだ。

 あれだけ嫌いだった金という価値観だが、それを自分で稼ぎだせるようになると話は変わった。

 同級生の三倍四倍も働き、母親に稼いだお金の八割は渡し、残りは本を買ったり甘いものを買う事に使った。

 甘いものを食べる事は、おいしい上に脳に栄養分を補給しているようで好きだった。

 そんなあまりにもバイトに明け暮れるディオニュソスの事は『金に執着のある貪欲な学生』なんて形ですぐに噂になり、アウトローな連中の興味をひいた。


 有る日の下校中、ディオニュソスはそんな柄の悪い連中に呼び止められた。

「ねぇねぇ、君めっちゃバイトしてるって噂のコだよね? ちょっと話したい事があるから少し時間貰えるかな?」

「えっ……すいません、今日もこの後帰ったらすぐバイトがあるので……用があるならすいませんがまたにしてもらえませんか?」

「そんなつれないこと言わないでよ。そんなバイトよりも全然お金渡せるお仕事の紹介なんだ。騙したりなんてしないから、お話だけでも聞いていってよ^^」


 この明らかに怪しい声がけにディオニュソスは不安になりつつ、内心ワクワクしている自分に興奮を覚えていた。

 持ち前の知的好奇心がうずく。

 ドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキ

「わ、わかりました。でも有益じゃないと感じたら、話の途中でも帰らせてもらいますからね」



   ×



 自分と歳こそ変わらなさそうだが、柄の悪い連中が話し始めたいい話、それは――


「僕らが用意した色々なモノを、欲しがっている人達へ君から『押して』欲しいんだ。

どれも品質が高いって評判の自信作だから買い手も常連ばかりでみんな信用できるし、君にもたくさん報酬を渡せると思う」


 来た。来たぞ。

 あぁもしかして、今日の日に辿り付く為の因果律が今までの俺の人生だったのか?

 まさか向こうから機会が巡ってくるなんて。

 顔がにやけてしまうのを、口の中で頬の裏側を噛みながら必死に堪える。

 しかし興奮のあまり、ディオニュソスは手と足の震えは止めることができなかった。


 ディオニュソスには、日々本を読みふける中で、物凄く渇望を覚える対象があった。

 それは意識の変容だ。


 世の中の不条理さ、無常さにほとほと嫌気がさしていた。


 そんな世の中でも、自分の感情や、価値観には嘘はつけぬものだ。

 それに反する行為は我慢という不本意であって、気分のいいものではない。その中で、そのような精神活動をコントロールするのではなく、逆に自分の精神に導かれるような感覚というものは存在するという根拠の無い確信と、そのような体験に対する強い憧れがあった。


 それが簡単に手に入るものが、目の前に飛び込んできたようだ。


 本で読んだ事がある。

 ブツを押す、というのは麻薬等のいわゆるドラッグを末端に捌く事だ。

 プッシャー。いわゆる売人ってやつ。


「おーい? 大丈夫? ちょっとびっくりしちゃった? 今ここで返事しなくてもいいよ、よく考えて判断してくれれば^^」


 うわ! 固まってしまっていた。


「……あ、あの、評判のブツってことなんですけど、あのなんていうか、自分でも実感しないと受けれないなっていうか、あっいい話だなって興味はあるんですけど、自信を持ってやりたいなっていうか……」


 連中はぽかんとした後に顔を見合わせて、大笑いした。


「はは! 何プッシャー経験者なの? なんだよ君も好きなんじゃん! だったら言ってよ~抵抗あったらどうしようってさっき話す時ドキドキしたじゃんか! ってかブツとか言わないでよ!」

「ちょうどいいや、このあと僕んちでみんなで遊ぶ予定だから、よかったら君もおいでよ」



 ついに!


 ……そこからその人の家まで歩いて5分くらいの距離だったが物凄く長く感じた。


 ワクワクが止まらない。

 でも体験した後って、今までと同じように暮らしていけるのかな?

 戻れなくなったらどうしよう?でも知らないままよりかはいいよな?

 待ち望んでいた機会がこんなにも早く向こうから訪れるなんて。


 ――なんて考えていたと思ったら、もうその人の家に着いていた。

 正座をする僕の前に、直径2センチ程の正方形の形をした電子基盤のようなものを差し出しその人は言った。



「心の準備が整ったらこれを口に含んで、ベロの下に入れて待っててご覧。

そうするとたちまち体内で反応を起こして、頭の中で電気信号を送る活動が増えて、色んな素晴らしい事が体験できるんだ、なんでベロの上じゃないかっていうとねっておい、まだ話の途中なのにもういっちゃったよキミも好きだな~!」


 ごめんなさい、我慢できませんでした。だって、我慢は不本意であって、気分のいいものではないのだからァァァァァァアア!


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