第3話 アトリエ
お茶を済ませて、わたくしは柿子さんのお招きのまま、大きな居間に入りました。
畳の上の広いテーブルに、お寿司が二人分乗っかっておりました。
「彼は、世間話が苦手なんです、一人で二階で食べてるんですよ。お招きしておいて、ほんとに失礼な事です。」
「いえいえ、お忙しいのでしょうから。」
お寿司に付いて来るお箸を見れば、これは町にある、この近辺では有名なお寿司屋さんのものです。
もっとも他にお寿司屋さんがあると言うお話は、聞いたことがありませんけれど。
「さあ、どうぞ。先日一回頼んでみたら、すごく美味しかったので。」
「ええ、ここは美味しいということで、有名なようです。じゃあ、いただきます。」
「ええ、私も、ご一緒します。ううん、おいしい。ふふふ。」
柿子さんは、本当に、もう嬉しくて仕方ないという感じで言いました。
「まだ、引っ越したばかりでしょう。最初は電気も間に合わなくて、というか、彼がもう早く行こうと言ってきかなくて。ご挨拶も行かないといけないのに、なんだかんだと言いつけをされるので、もう大変なんです。」
「へえ、ご主人、優しそうな方なのに。」
「ええ、優しいのは優しいんですが、子供みたいと言いますか、ほんとに絵以外の事は、まったく疎くって。役所の事とか、親戚の連絡とか、全部私なの。」
「ああ、まあ、お忙しかったのですね。」
「そうなの。あ、このたまご、美味しいですよ。」
「え、そうですか。ああ、本当に。ちょっとだけ甘いけど、いいですね。」
「ええ、絶妙な甘さ。」
「あの、お伺いしてよければですが、お子様はいらっしゃるのですか?」
「いいえ。おりませんの。あの人は、自分の絵が子供なんでしょ。」
「はあ、そうなんですか。」
「そうなの。」
柿子さんは、そんな話でも、終始上機嫌でした。
実際このお寿司は、実に美味しかったのです。
最近は、マグロなんて高級品は、わたくしのような、まだ新米社員がしょっちゅう口にできるものではないのですが、やはり良いものは美味しい。
「いいですね。このマグロさん。」
「え、ええ。本当にね。」
こうして、とにかく楽しい柿子さんのお話が「おかず」にもなって、とってもよい夕ご飯となりました。
やはりいつも一人で食べているものだから、こうしておしゃべりしながらいただくのは、よけい楽しかったのです。
またお茶を頂いた後、柿子さんがおっしゃいました。
「あの、もしよかったら、彼がアトリエを見て行かれませんか?と言ってまして。今日は機嫌がよくて。見てやってくださいますか?」
「え、お仕事場を見ていいんですか?」
「今日はOKです。機嫌が悪い日はもう、大変なの。実は・・・」
「ああ、まあ芸術家の方は、そういう感じのお話も聞きますよ。」
「はい。本当に。じゃあ、どうぞ。」
彼女は、私を連れて、二階に上がってゆきました。
そこは、実際とても広い感じの、アトリエになっていました。
片方の窓がびっくりするくらい、大きく、配置されています。
古風な感じの、たくさんの薄緑色の窓枠が、郷愁をそそる感じでした。
「いらっしゃい。ようこそ。」
ご主人が言いました。
「ここは、ぼくのお城ですよ。」
「いいお部屋ですねえ。」
わたしは、心からそう言いました。
「ありがとう。僕もそう思う。だから、ここに決めたんだ。少々不便でもね。さて、ここはひとつ、庭の方を見てください。」
彼は、壁にあった小さなスイッチを動かしました。
「はい? うわ!」
私の家との間の、あのお庭が少し斜めから見えているのですが、突然ライトが明るく灯り、そのお庭全体が、夜の闇の中に、ふわっと浮かびあがったのです。
「きれいですー。すごいですー。」
わたくしは感心いたしました。
「いいわねえ。いいわねえ。」
柿子さんも、感動しきりという感じでした。
「うん。思っていたよりも、ずっといいね。」
ご主人も、自らの発案に、まんざらでもない感じで、しばらく庭を見つめていらっしゃいました。
「そうだ。僕の絵を、見てくださいますか?」
「ええ、いいのですか?」
「ええ、あなたなら。どうぞ。」
「私も、いい?」
柿子さんが、なぜか心配そうに尋ねました。
「ああ、まあ、いいよ。今夜はね。」
「よかった。」
彼女は、随分ほっとしたという感じでした。
なんだか、少しだけ不思議な違和感を感じましたが・・・
でも、わたくしは、さりげなく、彼がかけていた布を取り払ってくれた絵の前に回りました。
「うわあ、これはまたすごい、星ばっかりですねえ。」
「そう。星です。すべて星です。」
大きなキャンバス全体が、色とりどりの、星で埋め尽くされてます。
ただここには、先ほどの応接間の絵のような人物は描かれておりません。
「これは、どこの空なのですか?」
わたくしは、何気なくお尋ねいたしました。
柿子さんが、ちょっと心配そうに、ご主人を見上げました。
「いやあ、これはですね、火星の北半球のある地点から見た、空です。」
「火星?ですか。」
「そう、ぼくの「火星シリーズ」の一点ですから。なに、あなたもご存知のように、今はパソコンでちょっと細工すれば、いつの、どこの空でも再現できますよ。」
「だからね、私が、その印刷でいいじゃないなんて言うと、ものすごく怒るんです。」
「印刷は、絵じゃない。しかもそれは、写真ですらない。でも、これは生きているんだから。当り前だ。」
「ほらね、怒ったでしょう。」
「こいつ、ははは。」
「よかった、今日は、最高にご機嫌だからね。」
「はあ、まあ、お仲の良い事です。当てられますわ。」
「まあ、ほほほ。」
柿子さんは楽しそうに笑い、ご主人も苦笑いしていました。
そこで、ふと、私は、筆に目を止めたのです。
まあ、見たことのない、筆だ。
筆先が、まるでLEDの電球の先っぽのような感じ。
パレットもあるのですが、そこにも沢山の色が並んではいるものの、油絵具でも、水彩絵の具でもない感じ。しいて言えば、色の見本が並んでいるだけのような、なんと言うか、乾いたプラスチックのような感じのものなのです。
電子的な、ものなのかな?
「変わった、パレットですね。」
すると、ご主人が少し鋭い調子で言ったのです。
「あなたは、絵をお描きになるのかな?」
「いえ、私自身は、あまりいたしませんが、仕事が野草とかコケとかの採集や分類なので、スケッチしたり、色を少し付けたりはします。まだ見習いですが・・。」
「ああ、そうか、あの研究施設に勤めていると言っていたのですよね・・・。家内が、」
「ええ、まあ、本来は事務職なんですが、やってみろとか言われて、フィールドワークのお手伝いもしています。」
「それはいい。楽しいですか?」
「ええ、やってみると、これが楽しいんです。夏はもう暑くて、虫がいっぱいで、大変でしたが。」
「ははは、そうだね。僕も本当は野に出て、描きたいんだがねえ。ちょと太陽の光に、体が弱いもんだから。」
「まあ、それはお気の毒な。ご病気とか?失礼でしたら、ごめんなさい。」
「いえ、まあ、そんなものです、生まれつきですから。」
「そうですか・・・。あの、あれは、人物画ですか?」
私は、少しお話をそらそうとしたのでした。
「あれ、ああ、少し見えてましたか。いいでしょう。ほら。」
彼は、その絵にかかっていた覆いを外してくれました。
それは、見覚えのある女性の姿でした。
そう、一階の応接間の絵に描かれていた、あの美しい方です。
こちらは、不思議な感じの、豪華な衣装をまとっている姿です。
「まあ、きれいな方ですね。どなたですか?」
「これはね、火星の女王様ですよ。」
「ええ! 火星の女王様ですか?」
「そう。僕の大好きな方です。ただし、大昔の神話の中に消えてしまいましたけれどね。」
「はあ、やはり『火星の神話』に出てくる方ですか。」
「そうそう、そうなんです。」
少し、神妙な雰囲気が流れました。
「まあ、あまり、お引止めしたらいけないでしょう。」
柿子さんが、何かに気を使ったように言った。
「ああ、そうだね。今日は、ありがとう。またおいでください、あなたのような方ならば、いつでも歓迎します。ああ、そうだ、一度、モデルになってくれませんか?」
「まあ、そんな突然な事を言っては、ご迷惑ですよ。」
柿子さんが、たしなめるように言った。
「いや、実にいい。最高のモデルだよ。そうだな、明日の晩、明日の晩よかったら来てください。いやいや、ご心配なく、そんな格好でいいんです。そのまま、十五分ほど、その椅子に座ってくれたら済みます。僕の描き方は、特殊なんです。対象を少し眺めているとね、頭の中にある種の形態が生まれるのです。それを後からいっぺんに描いて行くのです。ぜひ、よろしく。お礼は勿論致しますから。あ、ただ、これお願いします。」
ご主人は、向こう側のテーブルの上に置いてあった、星型の美しいペンダントを持ち上げた。
「これを、胸に付けて座ってほしいんです。あなたにずっと差し上げますから、明日来られる際には、これにあなたが合うと思う服で、おいでください。ぼくは決して文句言いませんから。」
「はあ、あの、少し考えていいですか? これも、その時にということで、あのでも、これですね・・・。」
「ああ、ええ、どうぞ。考えてください、でも、それは差し上げます。騒いでしまった、お詫びのしるしです。高価なものではないです。まあ、ご無理は言えません。でも、ぜひお願いします。」
「まあ、今日のところは、それでお考え下さるという事で、またにしましょうよ。」
柿子さんが、ペンダントをわたくしに渡してくださいました。
「はあ、では、今日はありがとうございました。」
わたくしは、柿子さんと共に階下に降りました。
そうして、そのまま玄関に立ちました。
「あの、今日は、手土産もなく来てしまいました。申し訳ございません。美味しいお寿司をありがとございました。これは、またお返しに上がりますから。」
「いえもう、あんなくらいで申し訳ありませんでした。これからも、よろしくお願いいたします。主人が失礼してしまいました。もう、きれいな女性を見ると、すぐモデルにしたがって。ごめんなさい。どうか、これに懲りないで、お願いいたします。また、お話させてください。こんどは主人のいないときにしましょうね。」
「ああ、はい、じゃあ、ありがとうございました。」
わたくしは、玄関から出て、あの門をくぐろうとしました。
柿子さんが、後ろから送ってきてくださっていたのですが、そこで、すっとすぐ後ろに近づいてきて、耳元でこうささやきました。
「明日は、来ないでくださいね。今晩からお天気が崩れるようです。あの人、天気が悪いと、機嫌が悪いの。大丈夫、私がうまく言いますから。じゃ。おやすみなさい。」
「ああ、はい、じゃおやすみなさい。」
わたくしは、自分の家に帰りました。
それから、ふと気になって、二階に上がりまして、電気も点けないで、お隣のお庭の様子を窺いました。
お庭は、もう真っ暗で、やはり二階に電気が灯っている様子もありません。
一階も見える限り真っ暗です。
大きな柿の木の、黒いシルエットだけが、浮かび上がっておりました。
わたくしは、下に降りて、さきほどのペンダントを見ました。
実は気が付いてはいたのですが、それはあの絵の中の『火星の女王様』が付けていらっしゃたものと、まったく同じもののようだったのです。
しかも、柿子さんの指にはめられていた指輪にも、同じようなデザインが輝いていたのです。
おそらく、ご主人の指にあった指輪も、きっとそうだったのでしょうが、これはよく見えなかったのです。
そうして、その晩、夜半を過ぎてから、急に雨風が強くなってきました。
やがて、それは猛烈な暴風雨になりました。
大きな雷も鳴り出しました。
いわゆる、ゲリラ豪雨と言われるものです。
それも、本当に長く続きました。
わたくしは、けっして怖がりだとは思いませんが、さすがにちょっと身がすくむような気がしました。
そうして、うっすらと夜が明けかけるころ、ものすごい雷が、いくつも鳴りました。
そのうちの一つは、光ったと同時に、バリバリ、どかん。と異様な音がいたしました。
それは、実はおとなりの柿の木と母屋を、雷が直撃した音だったのです。
「怖いなあー。」
と思っていると、なんだか、焦げ臭いのです。
「ええ、大変だー。」
二階に駆け上がって外を見ると、お隣が、もうどんどん燃えているではありませんか。
「火事、火事!」
わたくしは、もう必死で携帯電話を探しました。
電気が点かないのです。
すっかり停電しておりました。
手探りで、枕元に置いたはずの携帯電話を探しまくり、ようやく見つけると、もう、はだしのまま、大雨に中に出ました。
そうして、お隣からは反対側にある、家のひさしの下から、必死で火事の通報をいたしました。
「お願い急いでください、まだ人が二人いらっしゃるんです。お願いです。大急ぎで助けに来て!」
わたくしは、叫んでおりました。
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