第10話 シズネ
夕暮れ時、帰宅の途につく僕らを待ち受けていたのは、一つの不可解な現象だった。
「ワンダーランドにはこんな文化もあるのかね? つまり……人の家に勝手に入っても問題ない、みたいな」
「わ、私の知る限りそんなものはないかと……強盗さんでしょうか? それともまさか、お、お化けさん……」
誰もいないはずの我が家に明かりが灯っている。帰りを待つものなど誰もいないはずなのに……
普段ならばほっと安心するはずのオレンジ色の優しい光が、なぜか今は不気味にうつる。
隣の家と間違えていないか?
違う違う。何度繰り返し見てみても、あれは僕がセリアから借りている家だ。
家を出るときに、間違えてランプをつけっぱなしにしたのでは?
違う違う。仮にそうだとして、では窓から見えるあの人影は何なのだ。
いつまでもそうしているわけにはいかないと思いつつも、僕とハルは門の前でぐずついている。
いや、しかし足が前に進まない。
魔法使いの攻撃に晒されてきた帰りに何を情けないことを言っているのかと思われるかもしれないが、ほんの少しだけ変化した日常の光景というのは、そういった具体的な脅威とは別の、何か生々しい恐ろしさがあるのだ。怖くなどない、怖くなどないのだが……
「師匠……私行きます。もしも私がお化けさんに連れていかれても悲しまないでください」
「待ちたまえハル。そんな悲壮な顔をしなくとも……まずは穏便に」
もしかして家の管理者か誰かかもしれない。そう諭そうとしたが遅い。ハルは自らを奮い立たせるようにして、頬を張る。そして時間もわきまえずに叫んだ。
「いえ、師匠の家を守るのも弟子の務め! ハル、行きます! うおおお! お覚悟!」
腰の引けた突撃。扉が勢いよく開かれる。
廊下が不気味にきしむ。
いや、床のきしみは何度も耳にしており、その時と何も変わらないのだが、状況が不気味さを掻き立てている。
そして、やはり誰かが中にいる。
ゆっくりと、こちらの様子を伺いに来ている。
影はハルを認識した瞬間、彼女に向かって飛び掛かった。獣のような俊敏性にハルも身動きが取れない。
「ひぃ……!」
「ああ! おかえりなさいハル」
ハルと同じくらいの背格好をした少女だった。飛び掛かる勢いのまま押し倒したハルを、しっかりと抱きしめる。
「ずいぶんと遅かったのですね。わたくし心配しましたわ。さあ、上がりなさいな……というのもおかしな話ですわね。ここはあなたの家なのに」
「あわわ……やわらか幽霊……幽霊なのに暖かい……良い匂い……さては、良い幽霊さん……」
「よく見たまえ。人だ。幽霊でも強盗でもない。たぶん」
得体のしれない少女だが、家人をこんな激しいハグで出迎える強盗もいないだろう。
「強盗でも幽霊でもない……では一体……まさか、魔獣……あ、あれ。シズネちゃんじゃないですか」
家人の留守中に忍び込んでいた謎の人物の正体は、ハルの顔見知りらしい。
銀縁メガネに意志の強そうな眉。艶のある黒髪をさっと纏めている。年齢的にはハルと同じくらいだろうが、大人びた雰囲気の少女だった。
なんだ、ハルときたら。仲のいい友人に合い鍵でも渡していたのか。まったくそれならそうと早く言えばいいものを。怯えて損をした。というかそうならなぜ彼女も怯えたのだ。
ハルは起き上がると照れたように笑う。
「もう、驚かせないでください。どうやって家に入ったんですか? 鍵掛かってましたよね?」
「うふふ。わたくしはハルのことなら何でも知っていますの。ハルってば、朝一番に換気で小窓を開けたままにする癖があるでしょう? 開けたものは閉めないと。不用心ですよ」
おや、どうやら雲行きが怪しいぞ。
「ああ、小窓から入ってきたんですね」
流すなハル。落ち着いて考えるんだ。いくら小窓が開いていたからと言って、勝手に入ったのには変わりない。そもそも問題の小窓は割と高い位置にあるうえ、人ひとり通れるか怪しいくらい小さい。
この少女の言うことが本当ならば……
僕は想像した。ひと気のなくなった瞬間を見はからって、体をねじり小窓からじりじりと侵入してくる少女の姿を。
これは……ひょっとすると、幽霊や強盗のほうがまだましな部類のやつではないかね?
「そうなんですわ。さあ、ということで帰りましょう?」
シズネがハルの手を握りしめて熱っぽく言った。
「今朝聞きました。ハルってば怪しい男に騙されて、家に連れ込まれたらしいではないですか。いけませんわ。せっかく一緒の部屋を取ったというのに。さあ、一緒に帰りましょう? 同室祝いのご馳走も用意してありますのよ」
その発言にさすがのハルもきょとんとする。にへらと笑って言う。
「帰りませんよ? 私は師匠と一緒に強くなるので」
「え?」
「師匠は怪しくなんてありません。私を助けてくれましたし、バリツを教えてくれるとも言いました」
大嘘である。
バリツを教えるとは言ってない。
「そ、そんな……せっかく一緒になれたと思いましたのに」
「急に出て行ってごめんなさい。でも、広い部屋のほうがいいでしょう?」
「ハルがいないと何の意味もありませんわ!」
どうやらハルの言っていた、部屋を譲った相手。というのがシズネらしい。
話を聞いたシズネはハルと同部屋になれると思っていたが、当のハルが出て行ってしまったため連れ戻しにやってきた。ということか。
いいぞ。やれやれ。
表情はみじんも変えないが、正直そう思った。
「さっきから黙っている男。あなたが旅行者のエリなんとかですの?」
「いかにも。エリオット・アゲインだ」
義を欠かさない紳士として深く礼をする。それがおわってもなお、シズネがじっと半目でこちらを観察しつづけた。値踏みをするような目だ。
「君はハルのお友達だね。詳しい話は中でしたらどうだろうか。今朝買ってきた茶葉がある。温かいお茶でも飲んでゆっくりと、丁寧に、納得いくまで話し合ってみては?」
シズネは何も言わなかった。ただ自分の中で何かを咀嚼するようなそぶりで、ハルと僕を交互に一度だけ見た。
「その必要はありませんわ」
「いや、あるだろう。君も色々説得材料を持ってきたのだろうし。それを、こう、上手いことハルにぶつけてみたまえ。僕も協力しようじゃないか」
「わたくしもここに住みます」
「は?」
「ハルは都合の悪い話を聞かない天才ですわ。帰るのが彼女の意に反しているならば、どれだけ時間をかけても無駄なこと。だったらわたくしがこっちに来ればいいだけの話。それでハルと一緒にいられるなら構いません。わたくし、これでも相手の色に染まっていくタイプですの」
「シズネちゃんも師匠に弟子入りするんですか?」
「まあ、そういう感じでいいとしますわ」
「じゃあ私は姉弟子ですね。一緒に頑張りましょう」
「ええ。そうと決まれば荷物を持ってこなくてはいけませんわね」
「私の部屋を半分使ってください。師匠の邪魔をしたら駄目ですからね」
「さすがハル。相変わらず優しいのですね」
何やら主の預かり知れぬところで話がまとまり、きゃっきゃきゃっきゃとはしゃいでいる。
なんだこれは。
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