見知らぬ部屋
俺は、何も思い出せなかった。
見知らぬ部屋、見知らぬベッドの上で、俺は目覚めた。
目を覚ました俺は、そのまま体を起こした。それは長年の習慣であるかのようにごく自然に行われた。そんな記憶は俺には無いのに。
上体を起こした俺は、知らず知らずのうちに腰に手を伸ばしていた。その動きを認識して初めて、俺は自分の腰が痛みを発していることに気付いた。どうやら俺は腰痛持ちらしい。
「何なんだこれは……」
呟いてしまってから、俺は気付いた。なんともしわがれた張りのない声だ。それはまるで老人のような。
そう思った瞬間、俺は自分の手を見た。薄暗いせいかピントが合わないが、しわだらけの手だった。
「一体何なんだこれは。俺は記憶を無くした挙句、年寄りになってしまったのか……」
そう呟く声すら、自分のものとは思えなくて気味が悪かった。
手はしわだらけで声は枯れ、全身は軋むし頭も重いしで、まるで得体の知れない何かに憑りつかれているような感覚だった。そしておまけに何も思い出せないときた。
端的に言うなら、悪夢でも見ているようだった。
とりあえずもう少し情報を得なくては、と立ち上がろうとした瞬間、俺の頭をグインと引っ張るものがあった。
「うわっ、何すんだこの野郎!」
思わず叫びながらも、俺はなんとか踏ん張ろうとした。だが、努力の甲斐なく俺はベッドに倒れ込む。どうやら足腰まで弱っているようだ。
そしてベッドに倒れた瞬間、頭がふっと軽くなった。そこでもう一度立ち上がると、今度は何の妨害もなくすんなり立ち上がれた。
ベッドを振り返ってみると、よく分からない半球状の機械が転がっていた。見ればその機械からはケーブルが伸びていて、さっきまでの頭の重さも、急に引っ張ってきたやつも、これが原因だということが一目で分かった。
「くそ、何なんだよ……」
機械なんかに怒鳴り声を上げていたのかと思うと、どうにも無様で腹が立った。
改めてベッドから起き上がり、俺は辺りを見回した。だが、薄暗いせいか周りのものはよく見えなかった。あるいは、あまり考えたくなかったが、俺は老眼なのかもしれない。
「とりあえず電気を……」
口が動き、手が何かを探すように前に突き出された。どうやらこれも俺の知らない習慣らしい。ひらひら動く手を薄気味悪く感じていると、ふとその手に触れるものがあった。俺の手はそれを掴むとグイッと引っ張った。直後、部屋が明かりで照らし出された。
部屋には机や椅子の他、薄くて大きな直立した板とその両脇に前面に網が貼ってある小さな箱が二つ並んだもの、部屋の隅で何本ものケーブルに繋がれた黒い箱、それに二つのドアがあった。そして、それらには何やら紙が貼られていた。
「何なんだよここは……」
未だに飲み込めない状況の中、俺はまず直立した大きな板に向かった。そこに貼られた紙を、俺は目を細めながら読んだ。
『これは君が好きな映画だ。隣の機械の三角のマークの付いたボタンを押すと映画が始まる』
「はあ?」
ますます意味が分からなかった。俺でさえ知らないことを、この文字を書いたやつは知っているというのか。
「一体誰がこんなことを……。それに映画なんか見てる場合じゃないだろ」
ぶつくさと吐き捨てながら、俺は部屋の隅の黒い箱へと近づいた。
軋む膝を曲げながらしゃがんで見ると、今度はやけに大きな文字が書かれていた。
『絶対に壊すな! 触るな!』
「何だよ偉そうに」
さっきとは打って変わってとても強い口調で文字が書かれていた。どうやら、この紙を用意したやつにとっては大切な物なんだろう。
「まあいいか次だ」
立ち上がり、俺は二つのドアの片方に向かった。両開きらしいそのドアの取っ手に手を伸ばそうとしたところ、丁度その取っ手に紙は貼られていた。
『この中に用はないはずだ』
どうにも頭に来る。俺は取っ手から紙をむしり取って地面へ放り捨てたが、ドアは開けなかった。
「くそ、次だ」
俺はいらだちを隠そうともせず、足を踏み鳴らしてドアに向かった。ドアにも張り紙はしてあったが、それを無視してドアノブに手をかけた。だが、ドアはガチャガチャと鳴るばかりで一向に開く気配がない。
「あぁ、何だってんだよ!」
とうとう叫び出しながら、俺は張り紙へと目を向けた。
『外に出てはならない。なお、鍵も掛けてある』
もう我慢の限界だった。
「ああああああああ!!」
ドアノブをいっぱいまで捻り、何度も何度も揺さぶる。それでもドアはガチャガチャと耳障りな音を立てるばかり。
「開けよ!くそがっ!」
ドアノブを捻って体ごとぶち当たってみるがびくともしない。こんな体じゃなかったらと思うと悔しくて涙さえ滲んでくる。
「ああもう!」
俺はそのドアを諦めてもう一つのドアへと向かう。確か『用はないはずだ』と書かれていたドアだ。
取っ手に手をかけて、俺は勢いよく両開きのドアを開け放った。
「……なんだよ、これは」
そこにあったのは通路などではなく、ハンガーに掛けられた衣服だけだった。
「なんだよ、何なんだよ! ふざけやがって!」
怒りのままにハンガーに手をかけ、服をめちゃくちゃに叩き落していく。
「くそ、舐めやがって!」
一通りの服を叩き落としたが、俺の怒りはまだまだ収まりそうになかった。
「……くそむかつく野郎だ」
鼻息荒く俺は振り返る。何か、紙を書いたやつに仕返しはできないか。そう思った瞬間に、俺の目に黒い箱が飛び込んできた。
『絶対に壊すな! 触るな!』
そう書かれた箱は、どう考えてもその文字の主にとって壊されたくないものなのだろう。
だったら、仕返しするなら手は一つだ。
俺は背もたれ付きの大きな椅子を手に取った。それはこの体には重かったが、持ち上げられないほどではない。
知らず知らずのうちに口の端は吊り上がっていく。
頭の上まで椅子を持ち上げ、俺は黒い箱の前に立った。もうその箱は、俺にとっては憎き仇敵そのものだった。
「は、は、はははははははははは!! あははははは!! お前なんか! こうだ! おら! 壊れろ! はは! はははははははは!!」
狂ったように笑い声を上げ、俺は何度も何度も椅子を叩きつけた。
初めはびくともしなかった箱も、度重なる打撃で歪み、凹み、最終的には中身を撒き散らして火花を噴いたかと思うと、それきり沈黙した。
俺は椅子を放り捨て、ほうっと息を吐いた。どうやら、この体にはあんな破壊活動はきつすぎたらしく、急に体が重くなってきた。
俺はふらふらの足取りでベッドに戻ると、邪魔な半球状の機械を押しのけて眠ろうとした。
その時、俺は機械に貼られた何枚もの紙を目にした。
俺はその紙を勝ち誇った気分で見つめた。今更お前が何を言おうが、お前の大切なあの箱はもう壊れて戻らないのだ。俺の勝ちだ、と。
だが、その余裕の表情はすぐに消え、そして知った。
俺は今、覚めない悪夢の中に自ら飛び込んでしまったのだと。
◆ ◆ ◆
『ついに研究が完成した。これでようやく私の長年の夢が叶う。ささやかだが、私がずっと抱き続けてきた夢だ。その夢とは、不幸にも見る前に結末を知ってしまったあの映画を、もう一度、何も知らない状態で見ることだ』
『そのために今、私は一時的に私の全てのエピソード記憶を消去することにした。本来ならあの映画に関する部分だけを消去したかったが、それはまだ技術的に不可能だったのだ。なので、記憶を全て消去して映画を見た後、記憶を復元することにする』
『君は映画を見終えた後、この装置の緑のボタンを押してから頭にかぶればいい。それで記憶は全て戻るはずだ。なお、部屋の隅にあるコンピューター(黒い箱だ)は絶対に壊してはいけない。あの中には私の記憶が入っているからだ――』
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