見知らぬ部屋(ショートショート詰め合わせ)
逃ゲ水
五分前装置
カチッ
その瞬間、何かが変わったような気がした。
私の指は、とある装置の表面にある真っ赤なボタンを押し込んでいた。
この装置というのは地球全体をカバーする最新式の観測機だ。主な目的は地表面の動きを観測することで地震や火山活動などの兆候を捉えるというものだったのだが……。
私は横を向き、装置の起動に立ち会っていた後輩研究員の顔を見た。人のよさそうな丸顔に眼鏡をかけた、いつもと変わらない顔だった。
そう。いつもと何も変わらないはずだ。それなのに彼の顔からは、何か強い存在感というか、実感というか、確かにそこに存在するのだという感じがする。
いや、顔だけではない。体も、服も、髪の毛の一本に至るまで、何かこれまでと違う質感を感じる。
すると、彼もまたこの違和感に気付いていたのか、戸惑ったような顔で私の方を見てきた。
「先輩、この……この感覚は、何なんでしょう」
彼の感じているものも私と同じだという安心感を覚えながら、しかし私は首を横に振るしかなかった。その振った頭の感覚すら、奇妙な実感を伴っている。
「何だろう……。装置からの電磁波だとか、そういうものでもなさそうだしな」
言いながら、私は自分の体を見下ろす。少々腰と目が悪い以外には健康体なこの体だが、その体がいつになく存在感を放っている。いや、体だけではない。私の立っているリノリウムの床も、床に反射する蛍光灯の光も、床の端に転がるホコリの一つですら、これまでとは明らかに違う存在感を持っている。
そう。全てが存在している。おかしな話だが、これまで以上に全てが確固たるものとして存在しているのだ。つまり、裏を返せばこれまでは――私がスイッチを押すまではこれほどの存在感で存在しているものはなかった。
瞬間、私の脳裏に一つの思考が閃いた。
「なあ、『世界五分前仮説』って分かる?」
口から放たれる言葉の一つ一つにすら存在感を感じながら、私は後輩に問いかける。
「ええ、あれですよね。世界が五分前に始まったっていう――まさか」
彼は私の言いたいことが分かったのだろう。息を呑んで目を丸くした。
「そのまさかだ。このボタンを押した瞬間から、世界は始まったんだ」
自分自身、そう言いながら馬鹿げていると思ってしまう。しかし、周りの全て、床や壁や天井、あるいは部屋に充満する空気からすらも感じてしまう圧倒的な存在感の洪水の中では、むしろこの結論に至ることこそ自然だった。
「いや、そんなの……ありえないですよ!」
後輩はそれでも首を横に振る。当然だ。思考実験としてならともかく、そんなものを事実だと認めてしまえば、自分の過去すらある種の虚構だと認めざるを得ない。故に否定するしかないというのは痛いほど分かる。
「っていうか、先輩がそのボタン押した瞬間に変わりましたよね? そいつ、言ってしまえばただの観測装置ですよ!?」
そうだ。これはただの観測装置。しかし――
「観測ってやつは量子力学においてはただ見る以上の意味があるんだよ」
言いながら、私は背筋がすうっと冷たくなるのを感じた。
観測とは事象を確定させる行為である。というような話が、量子力学の分野では言われたりしているらしい。もしもそれが正しいのだとしたら。
この観測装置が全地球を観測しはじめたことで、世界が始まったのだとしたら。
俺がスイッチを入れたこいつは、一体何なのだ。
この装置が地球全てを観測し、事象として確定させたのだとしたら。
…………神、か?
「いやいやいや、そんなわけないよな! ないない、こんな機械が神とかないわ! ただの観測装置だしさ! この感覚は装置の誤作動か副作用かそんな感じだよきっと!」
言いながら、俺はもう一度ボタンに手を伸ばした。
「えっ、切っちゃうんですか?」
後輩は不安そうな顔で見てくるが、しかし私の行為は科学的に当然だろう。
「そりゃもちろん、こんな現象起きるとか聞いてないしさ。一旦停止させてからこの現象が収まるかどうか調べてみて、あれだったらもう一回動かせばいいんだよ」
「そっか、そうですよね! じゃあ切っちゃいましょう!」
「ああ、もちろん! 切っちゃおう! こんな装置で世界が始まるとか意味不――」
カチッ
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます