15.再び、前へ


 それを言葉として表すのなら、まさに災害と呼ぶ他ないだろう。

 人の体など比較にもならない。相手はまるでこの氷の世界そのものが凝縮したような、冷酷かつ非情な荒々しさを持つ。山のようだと言うが、目の前にすればそれすら幼稚な比喩にすら思える。

 ぐらり、と音が聞こえそうなほど竜の体が傾いた。それは決して体制を崩したなどではない。前足を大きく振り上げて俺目掛けて振り下ろされる――!


「う、おっ!?」


 間一髪で飛び退くように雪を蹴り、ぼふぼふと雪を巻き上げながら攻撃を避ける。直後ズドンッ、と聞こえた容赦ない一撃は深々と爪痕を雪原に残していた。

 雪原には俺と悪竜のふたつだけ。リル……あの銀狼はと言えば、悪竜が降りたって直ぐに姿が見えなくなっていた。賢い判断だろう。

 振るえば地を抉り、空を裂く爪。確実に命を喰らおうとする顎は、明確な「死」そのもの。俺がまだそれを見て生きているのは、ひとえに魔法の力ゆえだろう。


「――『穿て』ッ!!」


 掌に一瞬の熱。魔力で練られた焼き焦がす炎熱だ。本来形を持たないそれを手に宿し、大きく振りかぶって竜へと投げつける。炎熱は火球と化し、尾を引いて飛ぶ様は流星のようだった。

 魔法は物理法則なんてものに縛られない。魔法とはそれだけで奇跡、それだけで何者をも超越する不可思議な現象だ。無軌道に飛ばず、風に煽られて消えることも無く、ただ真っ直ぐ狙った所へと飛んでいく。

 狙ったのは首元。悪竜の長い首には堅牢に鎧う鱗が並ぶが、普通の動物で言うところの腹側は僅かに薄く、通るとすればそこだと判断した。

 しかし、今ばかりは狙いが狙い通りにいった試しがない。


 KyyyyyyyAAaaaaaa!!


 咆哮の最中に、飛ばした火球はその姿を揺らがせ、やがて頼りなく鱗にぶつかり火花を散らせて消えていった。

 ――まただ。悪竜の咆哮は形無き防壁となって、あらゆる攻撃を無力化する。魔法すらも弱めるとなれば……。


「こいつ、本当にバケモンじゃねえか……!」


 悪竜のことを侮っていた。今更ながらの事実に、乾いて割れた下唇を噛む。

 本来魔法は摂理を“作り替えて”いる。自分の願ったとおりに、自分の思ったままにそれを映し出す。

 しかしそれをもかき消すのならば、相手もまた摂理を“ねじ曲げて”いるに他ならない。

 明らかに超自然的だ。おおよそ普通に生きる生物が出来る芸当では無いのだ。

 咆哮を上げた悪竜は、やはり忌々しげに赤い目をこちらへと向けてくる。


(一旦、立て直すか……? 逃げる隙なんてどこにもねーけど)


 冷静に、戦況を見極めようと努める。周りは障害物の少ない雪原。見晴らしの良さが今となっては恨めしい。

 魔法は万能ではない。何かに変身したり、あるいはさせたり。何かを操ったり、飛んだりなどとは無縁だ。それこそ自身が竜に変じて悪竜と戦うなど、無理な話だ。

 ――いや、出来ない話ではない。しかしその代償は大きいのだ。

 自身がそれに変じるのなら、それ相応の魔素が必要だ。だがそれは、魔法使いである自身の身体そのものを昇華させなければならない。しかも変じた時点で、自分が魔法使いであるという証明が存在し得るかどうかすら不確かなのだ。


(もしここで倒れりゃ、誰も姉さんを助けてやれない)


 無論そんな手段は絶対に選べない。生きて戻らなければならない理由がある。

 ……一かバチか!


「『――赤き猛りをここに』ッ!」


 再び瞬時に手に火を灯す。短く、鋭く。速く、速く――!


「『爆ぜろ』ッ!!」


 勢いよく掌底を突き出し、魔力を瞬間的に爆発させた。辺りに撒いた火の魔素と連鎖して、一気にその威力を倍にする。

 夜のソリで見せた巨大な閃光と爆音。昼間とて真正面で食らえば、目が焼けるのは避けられないはず――!


 KYYYAAAAAAAAAAAA!!!!


「っ――――!?」


 突如未だかつて無いほどの大咆哮を挙げ、巨大な魔力が放出される。音圧、風圧、魔力圧。どれもこれもが上回られ、一時の閃光も掻き消されてしまった。

 俺の魔法は発動した。正しく炸裂し、正しく威力を発揮した。しかしそれも、悪竜の叫び声によって阻まれた。

 二度も同じ手を食らわない。赤く灯った目が、そう言っているように思えた。

 そこらの魔獣などとは格が違った。今ここにいるのは、長らくこの凍土を支配してきた強大な存在。魔法使いすら凌駕する魔力量に、小手先など通用しない圧倒的かつ暴力的なまでの威力。

 勝てないのか?届かないのか?手のひらに燻る火など、取るに足らないのか?

 大きく開かれた悪竜の顎が、視界いっぱいを埋めつくし――――


 ドスンッ


 意識の外から横殴りに衝撃が走り、物凄い勢いで上空へと跳ね飛ばされた。いや、轢き飛ばされたと言ってもいい。何か大きなものが俺の横っ面から突っ込んできたのだ。

 不思議と痛みはない。悪竜の攻撃と思ったが、見れば血が吹き出しているわけでもない。寒さで体の感覚すら凍ったかとも思ったが、じんわりと手のひらの熱さが残っている。


「何を突っ立ってるのよ、しっかりなさい!!」


 鋭い叱責が耳を貫く。耳障りな劈く悲鳴ではなく、しっかりとした意思を感じる人の声。怒ってるのか、激励してるのか分からない声だが、随分久々に聞いたような気がした。

 ぼふり、と。雪原の新雪に似た柔らかさで、しかししっかりとした力強さを感じる何かに顔から突っ込んだ。この感覚は知っている。あの銀狼だ。


『まだ齧られていないか、焔帝』


 風に紛れて聞こえる低い声。冗談なんて言えたんだな、という返事も口に出来ない。暴れ馬の方が優しいと思えるほど荒れた狼の背の揺れには、必死でしがみつかないとすぐさま振り落とされる。


「返事はないけど生きてるみたい。無謀なくせに運はいいのね」


 容赦ない皮肉にぐうの音も出せない。銀狼の足で見る間に悪竜から引き離され、大きく彼我の距離が空いた。目前に降りてきた巨躯も、ようやくその全貌を拝むことが出来た。

 こうして見ればその細部は美しくとも、生命としては歪な形に他ならない。

 大きくもたげた竜の頭だが、ずるりと伸びる長い首はおおよそ支えるに足るような太さでは無い。加えてその体は厳つい図体だが、れこそ獣のそれによく似ている。魔素を溜め込んで膨れ上がったものだが、骨格からすると熊にも似ていた。

 なるほど、悪竜とは様々な動物の身体がデタラメに結びついたもの……巨大なマモノだったのだ。


「――――うおっ!?」


 突然ぐんっ、と一際大きく振り回され、堪らず雪原へと投げ飛ばされた。急加速、急停止をこなす銀狼からは悪びれる言葉もない。


「これで分かったでしょう。アレに歯向かうことは無謀で無駄よ。諦めなさい」


 更には無慈悲に追い討つユリアの声。実際目の当たりにしただけに、その言葉の意味を実感する。


「ああ……分かったぜ」


「なら引くわよ。せっかく助けたのに死なれちゃ寝覚めが悪いわ」


「今のままじゃ勝てやしないってのはな」


「……ほんっと、話聞いてないわよね貴方」


 立ち上がり、バサバサと体に着いた雪を払う。圧倒的な力の差は確かにある。無論一人で立ち向かうには無理がある。呆れたユリアの声も分かるが、しかし今の状況はさっきとは違う。


 「ユリア、手を貸してくれ。戦い方はお前に任せる」


 真剣に、狼の上に跨る彼女に頼み込む。先に頼んだ時よりも強く、今度こそはと願いながらそう言った。

 それでもユリアは、未だに渋い顔をしていた。


「……まだ言うの? 歯が立たないのは分かってるのよ」


「それでも、今魔法使いが二人も居る。今までにないチャンスなんだ」


「…………」


 何かに耐えるように目を固く閉じ、深くため息を着く。少し肩が震えているのは、吹き降ろす風と寒さというだけではないだろう。

 フン、と鼻を鳴らしたのは銀狼だった。


『私は戦おうと思う』


「リル……?」


『あれが居る限り、ユリアは世界に目を向けることは無い』


 銀狼はただ真摯に、真剣に言葉を続けた。


『私は知っている。ユリアが常に願って、そして諦めていたことを。外へと、行きたかった事を』


「私は、そんな」


『あれがユリアの世界を閉ざすのなら、私の牙と爪が折れようとも』


「そんなこと、言わないで」


 ぎゅう、と。置いていた手を握りしめている。銀狼の背にまたがるユリアは今までの毅然とした態度からは考えつかないほどか弱く、あまりにも小さく見えた。


「私は、ただ……今ここにいるのは、貴方が忘れ物をしただけで」


「忘れ物?」


「そ、そうよ。これ。大事なものなら置いていかないでちょうだい」


 話を逸らすようにユリアは懐から何かを取り出す。それは緋色に煌めく結晶……俺自身から取り出した魔鉱石だ。

 ユリアが銀狼の背から降り、雪の上に足を下ろす。不思議なことに彼女の足は柔らかい雪に深く沈むことなく、降り積もる雪よりも軽やかにこちらへ歩を進めてきた。


「これよ……あっ」


「お、っと」


 細指が鉱石を差し出してきて、しかし手から零れ落ちそうになった所を間一髪で掴み取る。ユリアは雪に足を取られたのか体勢を崩し、それもついでに抱えるように支える。


「わざわざ、これの為にか」


「い、言ったでしょ。寝覚めが悪いのよ。それに、受け取ったらさっさと」


「……いや、悪いな。いいこと思いついちまった」


 手のひらの中に掴んだ煌めきが、ちらと目を刺す。自分がここにいると示すかのような、赤い光。

 少しだけ温かく感じるのはユリアがずっと持っていてくれたからなのか、それともこの煌めきの熱なのか。

 悴んできた手が、少しだけほぐれてきた。


「ユリア、頼む。絶対にお前が必要なんだ」


「え……っと……」


 掴んだ細い肩をゆすり、真っ直ぐに彼女の目を見据えて頼み込む。人は真摯に頼み込めば応えてくれる。姉さんが教えてくれた言葉だ。

 改めて頼まれるとは思ってなかったのか、ユリアは言葉に詰まった様子で、魔鉱石の煌めきに目を向けていた。照り返しが映る顔がやや赤らんでいるのは寒さのせいか。


「わ、分かった、分かったから、少し離れて」


「よし、頼むぜ。リルもよろしく」


『下手を打つな、焔帝』


 改めて雪原を睨む。勝てるか否か、ようやく五分といったところだ。

 だがそれでも、さっきよりも勝率は上がった。

 仕切り直しだ。今ここで、舞台が整う。


「覚悟しろよ、悪竜。――俺の『世界』を見せてやる」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る