9.『悪竜』

「――さて。準備は良いかな、少年?」


 夜も明けて、未だ日が雲に隠れて薄暗い朝は、以前に比べて雪は穏やかに降っていた。昨日、というか今日の未明程にもなる時間まで起きていたはずだが、アリタはまるで疲れた様子もなく平然としている。俺に至っては未だに寝惚け眼を擦り擦り、昨日よりも積もった雪をえっちらおっちら踏みながら追っていた。

 何かの前で足を止めたアリタがこちらに振り返りながらそう言う。俺は半覚醒した頭でぼんやりとその目の前の何かを認識する。


「……毛玉?」


 それは、文字通りもっさりとした茶色の毛玉。アリタや俺よりも背が高く、触ってみれば雪が融けて着いたであろう水滴が氷になって絡まった外側に、押し込むとふかふか、ふわふわと手触りの良い柔毛。思わずこのまま沈みこんでもう一眠りでも……。


「まだ寝惚けてるのかな。よし、気付けの一発をくれてやりたまえ」


 ぽふぽふとアリタが毛玉を叩いた途端、もぞりと毛玉が動き、べちゃりと何かが俺の顔に張り付き、下から上へとゆっくりなぞった。ザラザラとしたそれは粘性のある液体と共に俺の顔を濡らす。そして香る、動物特有のむせるような臭い。


「うっぷ……!」


 慌てて毛玉から距離を置こうとするも、執拗に追いかけてきては幾度も重ねて撫で回す……いや、舐め回す。ようやくの思いでそれの攻撃圏から抜け出すと、毛玉の中からぬう、と伸び出した首と、恐らくは目であろう部分までも毛で隠れ、鼻と口のみが突き出た顔と太く逞しくそびえる大きな枝分かれした角が。ケナガマルトナカイ。リョートにおいて農畜産で主流となる動物だ。

 フンフンと鼻を鳴らし、ベチャベチャと俺の顔を舐め回したそれは、満足気にしながらもぞもぞ元に戻る。トナカイが座る後ろには、頑丈に作られた木ぞりと、その上に幌の掛けられた山のような荷物が繋がれている。そしてトナカイの手綱を握るのはやや赤茶めいたフードのケド族。どうやらこれが話に聞く連絡便らしい。


「ははは、起きたかね少年。挨拶も程々に、荷物を付けよう」

「最悪の目覚めだっての……」


 くつくつと笑うアリタを横目に、俺はぐいと顔についたヨダレを拭う。気分は良くはないものの、目が覚めたのは確かだ。すっきりとしない気持ちでまとめた荷物を荷台に載せると、アリタも同じく荷台に荷を載せ座席へと進む。

 座席とは言うものの、荷台の空いたスペースに腰掛けるぐらいで屋根も何も無い。年季の入ったすり減りを見るに、常に誰かしらがこの連絡便を使っているのだろうが、連絡便に乗ろうとする人は俺と先生だけだった。

 少し高めに作った座席で、ちょうどアリタと向かい合う形で座る。アリタは慣れたもので、早々と毛布を広げて体に纏う。ならうようにして俺も毛布を体に巻き付ける。


「しゅっぱーつ、ですけどー」


 威勢のいい、間の抜けた声と共に、のそりと毛玉が立ち上がってソリが動き出す。最初はゆっくりと雪上を滑っていたが、徐々にその速度は上がっていき、気がつけばあっという間に出発した村が遠くに小さく見えるほどになっていた。


 ◆


 ソリは順調に雪原を進む。来た時や昨日に比べ、今日は遠くそびえる山々の麓まで見えるほどだ。雪もさほど降らず、風も穏やか。なるほど確かに、今日という日はこの広い雪原を移動するに適している。

 連絡便とだけあって、ただただ真っ直ぐカピヨーゴロスクへと向かう訳ではなく、途中に点在している村々に荷物や手紙なんかを降ろして積んでを繰り返して進む。俺もアリタも、その積み下ろしの手伝いをしながらソリの進むままに任せていた。

 気がつけば日は暮れて、辺りは静かに夜の気配が近づく。出発の頃に比べ、幾分か荷物が減ったソリはゴトゴトと揺れながら更に速度を上げて、雪原を進んだ。


「アルト、体は冷えないかな。暖かい飲み物を入れてもらったから飲むといい」

「悪いな、先生」


 アリタは保温加工された水筒からトクトクとカップに注ぎ、白く湯気立つ飲み物を差し出してくれる。やや揺れが目立つソリの中で、零さぬように両手でそれを受け取り、そっと口をつけた。

 ふわりと香ったのは香り付けの香草だろうか。トロリとしたスープは肉で出汁をとって野菜が溶け込むまで煮込んだものらしい。吹き付ける風の冷たさにかじかむ体を、内側からほぐすかのような優しい温かさに、思わず溜息が出るほどだった。


「にしても、随分時間がかかったな。こんなものなのか?」


 スープに舌鼓を打ちながら、ふとそんなことを口にした。連絡便とはいえ、日が暮れるほどの時間がかかるとは。朝早くから出たから日暮れにカピヨーゴロスクに間に合うと踏んではいたが。

 しかしアリタはそれに対し、初めて見る渋い顔で返事をした。


「いや……さすがに私もここまで時間がかかるとは思っていなかった。今日の便も、いつもより急いでいるようだが……」

「そうなのか?――――っとぉ!?」


 突如ガクン、とソリが大きく揺れ、危うく持っていたスープを零すところだった。唐突な揺れにアリタも目を白黒させながら、御者のケド族に振り返る。


「何事かな?」

「ごめんなさいですけどー。ちょっと揺れますけどー」


 そう言ってケド族はしきりに角をピコピコと揺らして、キョロキョロと辺りを見渡す。

 ケド族は夜目が効き、光が無い夜道だろうと遠くまで見渡せると聞くが、生憎こちらはまっとうな人間二人。灯りとして掲げていたランタンからの光で照らせるのはせいぜいこのソリと俺たちの顔くらいなもので、静まり返った夜道は相変わらず見通せない。


「実は、さっきからマモノを避けて走ってましたけどー。そしたら、いつもの道から外れちゃいましたけどー」


 ケド族は少しだけ消沈した声音でそう謝る。

 マモノ。世界の各地に存在する怪物の総称のこと。生きる屍、得体の知れない異形。もはや生物とはいえない異様さを振りまく害獣だ。地上で発見されているどの生物と違う、体が腐っていてもなお動き、生きるもの全てに襲いかかり、その血肉を啜るとまで言われる。

 生態も行動原理も不明、ただただ厄災めいたものであるのに、この世界においてはどこに行っても見られる危険物。主に騎士隊によってこれらの驚異は取り除かれることになっているが。


「流石の騎士隊も、夜道のマモノまでは対処しきれないか」


 歯噛みしながら、俺は夜闇に目を凝らす。

 普段から吹雪くこの雪の大地で、見通しの悪い夜はそれだけで身を隠すにはうってつけだ。だからこそ、ケド族に御者を任せて連絡便を運行させられるのだろう。

 段々とソリの揺れは激しくなり、荷台の荷物がガチャガチャと騒がしくぶつかり合う。立ち上がることも出来ず、俺もアリタも座席にしがみつくようにして揺れに耐える。


 ――――――――。


「…………ん?」


 ソリの風切る音に混じって、何かが聞こえた。音……いや、声?


「アルト、何かあったのか?」

「いや、なんていうか。変というか……」


 要領の得ない、曖昧な返事をしてしまう。何かを感じ取っているが、それが何なのかまでが把握出来ない。

 第一に感じ取ってるのは、風の音に混じる異音だ。ビュウビュウと過ぎる音とは別に、微かに甲高く聞こえる音。ソリのような鈍く風切るものではなく、もっと研ぎ澄まされた剣で切るような――。


 ズズゥン!!


「う、わっ!?」


 突如、爆音と共に大きな揺れがソリを襲った。思わず座席から転げ落ち、床板に体を打ち付けてしまった。ソリを引くトナカイも驚いたのか、悲鳴を上げてソリを止めてしまったのだ。

 急に止まった為にケド族は席からすっ飛び、トナカイの背へ――正確には、毛玉の中へと頭からすっぽりとはまりこんでしまっていた。


「くっ、何の音だ!?」


 アリタがソリに提げていたランタンを取り、辺りを照らしだした。そこにはなだらかに広がってただろう雪原に、余程の振動だったのか、大きく波打つような雪山を作りだしていた。

 俺は座席を支えに、打ち付けられた身体を起こす。アリタは体を伸ばし、ランタンをかざして音と振動の原因を探ると、波立つ雪山の奥にチラリと何かが反射して見えた。マモノ?いや、それにしてはさすがに大きすぎ――。


「あくりゅうですけどーー!!?」


 甲高く悲鳴をあげたのは、ようやくの思いで毛玉から抜け出したケド族からだった。

 ランタンの光に反射したのは、ギロリと鋭くこちらを睨む赤い目。次いで、まるで全て研ぎすぎたような鋭い牙がズラリと並び、あの顎で噛み砕かれたら一溜りもない。

 大きくもたげた頭はじっくりと品定めするかのようにこちらへと近づいてくる。悪竜、と呼ばれたそれが一歩、踏みしめる度に空気が震えるような振動が襲いかかる。

 あまりに巨大。あまりに強大な生物。およそ人が太刀打ちできるような存在ではない。現に、今照らしだした頭ですら、その巨躯のほんの一部に過ぎないのだ。

 圧倒的な存在感に息を飲むことしか出来ない俺に、隣から鋭い声が刺さる。


「まさかこんなところで出会うとは!ソリを飛ばせ!荷物も全て下ろすぞ!」


 隣にいたアリタは血相を変え、突き飛ばすようにして荷台の荷を雪原へ落とし始めた。大小様々な荷は盛大な音を立てて雪原の雪の中へと沈み込む。雪崩るようにして崩れた荷を前に、それは鼻先をそちらに向けた。

 頭を叩かれるような声にハッとしたケド族は、慌てるように手綱を握りビシビシとトナカイを急かすが。


「あわわわ、トナカイが動かないですけどー!!」

「怯えて動けないか、くそっ!」


 あまりの強大な生物の存在が急に降って湧いたものだから、トナカイもまたすっかり腰が抜けて立てなくなってしまっていた。大きく丸まった毛玉はブルブルと震えているのは、まったく寒さのせいではないだろう。


 ――何してるんだ、俺は!


 呆気に取られて動けなくなっていた俺は、ようやくその場に立ち上がる。跳ねるように荷台から御者の席へと移り、毛玉の背へと手を伸ばす。凍りついた外側の毛ですら小刻みに震えてるの感じながら、頭の中で「言葉」を思い浮かべる。


「『動け、我が友。四肢にみなぎる火を灯そう』!」


 ぼうっと、トナカイの体を淡い光が包む。それは燃えるような赤でも、焦がすような深紅でもない。寄り添い、体の震えを落ち着かせるような穏やかな、まるで黄金のような輝き。俺の触れた手から魔力が流れ、トナカイを徐々に飲み込んでいく。

 途端、ぐぐっとトナカイの身体が持ち上がり、何度か踏みしめるように蹄を雪へと押し込む仕草をする。今こいつの体には、並々ならない力が漲っているはずだ。


「今のは、魔法か? 一体何を……」

「いいからソリにしがみつけ!全力で飛ばすぞ!!」


 アリタが目を丸くして俺を見るが、残念ながら悠長に答えるだけの時間もない。やる気十分な様で鼻を鳴らすトナカイの尻を叩くと、一際大きく嘶き、押し寄せた雪を蹴飛ばして走り出した。


「ぅおっ!?」


 ガクン、と弾かれるような衝撃に、俺とアリタは揃って座席に尻もちをついた。同時に転がってきたケド族がソリから落ちそうになるのを、すんでのところでアリタが袖を掴み取り、すかさず懐へと潜り込ませる。

 一拍遅れ、背後で様々な物品がまとめて同時に崩れたような、ごしゃりという嫌な音がする。よほどの悪食なのか、悪竜は下ろした荷に丸ごとかじりついたらしい。一瞬でも遅れていたら、ソリごと悪竜の腹の中だっただろう。

 文字通り飛ぶように雪原を走り出したトナカイはぐんぐんと雪を掻き分け、無残な残骸に慣れ果てた荷物たちは既に夜闇と雪原に埋もれていった。


「いいぞ、この、速さなら――!」


 叩きつけられる夜風に声が絶え絶えになりながら、驚きと期待を込めた声を上げるアリタ。だがそれとは裏腹に、俺は徐々に焦りを感じていた。

 背中に嫌な寒気が走る。飛ばしているソリの風や、ランタンの灯り以外何も無い不気味な夜闇のせいじゃない。さっきから感じる圧が、全く消えない。ぴったりとソリの後ろに付いて離れないのだ。座席からようやくの思いで身を乗り出し、暗闇に向けてランタンをかざしてみると。


「マジかよ、追ってくんのかよ……!」


 背後から、紅い光が迫ってくるのが見えた。あの紅い瞳だ。最高速で走るソリの後ろにぴったりと付き、激しく踏み鳴らす足音と共に追いかけてくる。魔法をかけてもなお追いつくだけの速度は、もはや魔法以上の速さを持つほどの生物。およそ人智を超えている何かだ。


「先生、あれは何なんだ!? こんなの居るって聞いてねえよ!」

「いいや、既に言っていたとも! あれこそ『 悪竜』!このリョートの災厄の象徴だ!」


 かざしたランタンの灯りの中で、切羽詰まった表情でアリタは叫ぶ。薄らと思い出す、寝しなの御伽噺おとぎばなし。英雄によって討伐された、巨大な氷の竜。


「あんなの、御伽噺おとぎばなしだろ!? しかも蘇ってるじゃねーか!」

「理屈は分からない!だが各地で被害があったのは聞いている!その話をした時君は眠ってしまっていたが!」


 なんと間の悪い。どうやら今の俺たち以外でも、悪竜というのは現代で猛威を振るっていて、今まさにその脅威に晒されている。


 ――KyyyyyyyAAAaaaaaaaaaa!!!!!!!!


「ひーっ!おそろしですけどー!!」


 背筋が凍りつくような、劈くような爆音。思わず耳を塞ぐが、叩きつけられた音はわんわんと頭の中を揺らす。それが悪竜の咆哮であるのは見えずとも分かる。先程風に紛れて聞こえてきた音は、こいつの声だったのだ。

 ケド族は悲鳴を上げ、アリタの腕の中で頭を抱えるようにしてうずくまった。ソリの速度はもはや限界を迎えており、トナカイも魔法で底上げ《ブースト》しているとはいえ、体力が尽きるのも時間の問題。正直ジリ貧だ。

 カランカラン、とランタンがまるで早く逃げろと急かすように、揺れに合わせてうるさく鳴る。焦りばかりが募り、策は無いかと思考を駆け巡らせる。


「…………!」


 ふと、手にしていたランタンを見つめる。出発する前からソリに付いていた、簡素だが丈夫な造りのランタンだ。内部には火の魔術による加工が加えられ、吹雪く夜でもその灯りが届くように作られた、リョートでは必需品とも言える装備だ。今でもなおその灯りは煌々としてソリを、そして夜闇に染まる雪原を照らす。


「これだっ!」


 思いついた時には手はランタンの蓋に伸びていた。かじかむ手で必死に金具を外し、ランタンの中へと手を突っ込んだ。


「待てアルト!何をしている!?」


 気が動転したと思われたか、アリタは必死の形相でランタンに突っ込んだ俺の手をがしりと掴む。しかしランタンから抜き出した俺の手は、穏やかな炎をまとったまま、普段となんら変わりなく動いていた。


「あ、熱くないのか……!?」

「平気だ。これは俺の火だから」


 アリタは目を疑うようにしてまじまじと見つめるが、俺の手は全く焼けるような素振りもなくランタンの火を素手で掴み取っていた。

 熱くはない。少なくとも、焼け付くような痛みを感じるほどの熱ではなく、じんわりと手を包み込むような穏やかさだ。

 元が長らく点いていたランタンの灯火だっただけにその勢いはやや落ちているが、それでもお互いの顔が見えるほどの明るさは保っている。


「先生、ちょっとばかり目と耳を塞いでてくれるか」

「何をするつもりだ……?まさか、自棄ヤケになったつもりじゃ」

「まさか。吹っ飛んだら困るってだけだよ」


 火を抜き取られたランタンをアリタに渡し、掴まれていた手をゆっくりと解く。アリタはただ困惑の表情を浮かべ、渋々ながらの様で目を固く閉じ耳を塞いだ。それを見て、俺は再び夜闇の前に立つ。

 時間が無い。今持てる全力で、こいつを振り切るしかないのだ。

 『言葉』が浮かぶ。俺はどこでこんな言葉を知ったのだろうか。それとも、思い出せなかっただけだろうか。しかしそれも今は些細なことだ。


「『――我が分かたれし火の子らよ』」


 ゴウ、と。掌の中で火が荒ぶった。『言葉』を乗せた火はまるで意志を持つかのように――まるでその声を待っていたかのように揺らぐ。


「『――赤き猛りをこの目に見せろ』」


 掌の上で火が、炎になる。炎はやがて渦巻き、逆巻いて更に強く光を放つ。まだだ、もっと引き付けなければ。弾けそうなほどに圧縮させた火球は、堪えるのが精一杯な程に忙しなく震える。


 ――KyyyyyAAAaaaaaa!!!!


 再び聞こえる、刺すような鋭い咆哮。もはや赤い瞳はソリにまで届かんとしていた。

 ……今だ。


「『――爆(は)ぜろ』!」


 瞬間、世界は唐突に光で満ちた。


 ◆


 生まれてこの方、死に目を見たことは幾つもある。危険と言われた場所に入って、案の定身の丈より巨大なマモノに遭遇したり、命を賭して精霊と対話をしたりと、理由は様々だが。

 しかし、今までのどのマモノよりも……いや、あれをマモノと呼べるのかすら分からない。

 あれを目の間にして動けた自分に驚くばかりだ。圧倒される迫力に、自らを奮い立たせて叫んだものの、ソリを動かしてからは足が震えて止まらない。

 ランタンの火を手に宿しながら、黒髪の少年が強い光を持つ目で言うものだから、思わず気圧されて言われるがままに従ったが、目も耳も塞いでしまえば全くもってこの不安定な状況では、更に不安感が襲ってくるのは当然だ。

 しかし私は、直後にその言葉の意味を知る。


 バァァァンッ!


「う、ぐっ!?」


 塞いだ耳にも届くほどの破裂音と爆発音。音だけではない。目蓋を閉じていても強い光が一瞬だけ感じられた。その光は直ぐに収まるが、間髪入れずに激しい衝撃が背後から襲いかかる。なにかが爆発したかののような衝撃に思わず身を強ばらせる。積荷は全て下ろしたはずで、爆発物などひとつも無かったように思えたが。


「少年、今の音はいったい……」


 耐えかねて目を開けると、まるで何もかもを塗りつぶしたかのような夜闇が広がっていた。灯りの一つも無い、目を閉じて闇に慣れてなければソリから身を乗り出して落ちていたかもしれないほどだ。

 どさり、と。何かが倒れ込む気配を感じた。そこには、先程毅然と立って見せた少年――アルトと名乗った魔法使いが、長い髪を垂らして項垂れながら息を切らしているのが見えた。


「お、おい、しっかりしろ!?」


 流石に何が起こったかは予想もつかないが、目の前の疲労困憊な者を放っておけるほど落ちぶれてはいない。少年の体を起こすために手を耳から外すと。


 ――――kyyyyyyyyyyAAaaaaaa!?!?!?


 突然、酷く甲高い金切り声がしきりに暴れのたうち回るのが聞こえた。その暴れ回る勢いは凄まじく、もはや雪崩でも起こったかと思うほどの地響きが続く。

 しかしソリはそれでも止まることなく、やがてその地響きは遠ざかり、甲高い悲鳴も遠い風の彼方に掠れて消えていった。


「逃げられた……のか……?」


 灯りがなくて分からないが、どうやら迫ってきた悪竜は遠ざかっていったらしい。しばらくしてソリは元の速さに戻り、徐々にその速度を落としていき、最後にはゆっくりと止まった。走り続けていたトナカイもまた、体を包んでいた黄金の光は消えてしまっていた。

 ふと、懐からモゾモゾと何かが動き、ぴょこりと顔を出す。咄嗟に懐へとしまい込んだケド族だ。


「あくりゅう、いませんかー? いないみたいですけどー」


 キョロキョロと辺りを見渡し、念入りに探りを入れるケド族だが、どうやら警戒するほどの危険はひとまず去ったと分かったらしく、とてとてと御者の席へと移り、改めて手綱を握り直した。


「そうだ、アルト! 無事か、しっかりしろ!」


 はっと思い返し、ぐったりとした少年へと声をかける。全身をくまなく調べて外傷が無いかと探ると、何かが焼け焦げたような匂いがするほかに、先程ランタンの火を握りしめた手が少し火傷を負っているのが分かる。しかしそれ以外に目立った怪我は無く、呼吸は荒いが命に別状は無いらしい。


「せん、せ……」

「アルト、しっかりしろ。私が見えるか?」


 息も絶え絶え、掠れるような声で少年は私を呼んだ。肩を掴み、両頬を叩いてみるが、意識が混濁しているのか頭がフラフラと揺れて定まらない。


「あかり、を……」


 おもむろにアルトは火傷している手を掲げそう呟くと、私が握っていたランタンへと触れた。途端、火種も無いのにランタンに火が灯り、再び明るく辺りを照らしだした。

 幾度も見せられた「魔法」だが、その現象はもはや不可思議の枠を超えている。

 魔法使い。伝説や御伽噺おとぎばなしに聞く、「世界」の一端を担う者。その御業は奇跡とも呼ばれ、ともすれば一国を繁栄に導くとも、滅亡に陥れることも自在であると。

 しかし、この少年は。


「……君は、優しい魔法を使うのだな、アルト」


 灯されたランタンをソリに掲げ、気付けば静かに寝息を立て始めた少年にマントを羽織らせた。

 その後静かに走り出したソリは、ただただ穏やかに、リョートの雪原を滑り続けた。


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