幼き凍姫
6.北を往く者たち
◆
北国 リョート
央都から北に位置する、水と氷を象徴する国。
常に低い気温と乾いた空気で年中雪がよく降る気候。晴れの日は少なく、雨季が年中で最も長く続く。そのため寒さや長く続く雨に耐えるための構造が建築物だけでなく、動植物にも見られる。
国土の六割は森林地帯であり、高低差のある地形。五カ国の中でも最高峰である「カピヨー山」を最北端にし、東西に伸びる山脈の裾に人々の生活圏が形成されている。
伝承と寓話、そして民間療法が根強く結びついており、医学的にも有効とされる療法も数多くあるため、この国からは博識な医者が多く輩出される。央都での医療関係者も主にここで研究と勉強をするとのこと。
文化水準はあまり高くなく、機械や魔術加工のされたものはあまり見かけない。木造や石造りの家が並び。暖を取るには薪ストーブや暖炉、焚き火などが主流。流入が無い訳ではないものの、魔術の発展よりも先にある原始的な手段が生活に組み込まれているため、必要以上の技術が定着していない。
自然における動植物の種類が多く、人々の生活の支えとして飼育されている動物も多い。また、こと生物においては生命力や魔素保有量が優れているため、良質な素材はもちろん魔術の媒体にも高品質なものがよく取れるとされる。
国内では小規模の村や集落が散見されており、それぞれの村・集落単位で生活系が完成されている。村同士での交流は多少なりともあるものの、定期的な連絡便が出ている程度である。
主な産業は農畜産・薬品の他、林業と木工加工品、毛糸による手工芸品、そして魔術によって加工された氷像や工芸品など。水質も良く、調理の際にはリョートで汲み上げられた雪解け水をリョートで精製された氷で冷やしながら運ばれることもある。
※聖黎暦2990年 追記
現在リョート各地では局所的な吹雪が頻発しており、気候的な前兆や予測が困難となっている。旅行、または遠征の際には十分な装備と注意を心掛け、告知しておくこと。
『中央騎士隊報告録 北国調査書』 聖黎暦2990年度
◆
脱走から数日後。ガタゴトと揺れる荷馬車の中で、俺は本を広げていた。
今乗り込んでいるこの荷馬車はと言えば、ヴィクトールが個人的に所有しているというやや年季の入ったもので、自らが御者を務めて走らせている。ちょうどリョートの親戚に送らなければならないものがあるために、とはいうが、あまりにも手回しが良すぎるのは主人に似たのだろうか。
荷馬車の中身は様々な荷物――央都で織られた織物、大小の木箱には
北国『リョート』。レオンが最初に指示した国であり、これから向かう『種』の在処でもある。
リョートの気候は寒冷であり、年中雪が降るという。寒冷地用の装備もヴィクトールが手配してくれたが、一つだけ丁寧に包まれた荷物があった。
「レオン様が、『どこに行くにしても通用する手形のようなものです』と仰っていました」
中身はといえば、白を基調にした帆布で作られており、至る所には板金によって補強されている上着……というか。
「これ、騎士隊の制服じゃないか!?」
騎士隊の白制服。これを着ることは世間一般で見て、騎士として、そして魔術師として一流と認められた証になる。もちろん一般人には流通することは無く、騎士隊本部にしか置かれていないはずだ。
貴重、というよりも何故これを、という驚きが大きく、受け取ってもしばらくは顔を見合わせていた。
「レオン様のお古だそうで。レオン様は特例騎士隊の制服をお召しになってますので、そのスペアという事ですな」
確かに、騎士隊の制服であれば誰の目に映っても不思議ではない。本物の騎士隊に出会わなければ、だが。
「もし本物の騎士隊に出会ったら、どうするつもりなんだ?」
「それも『特例騎士からの命によって調査に来ている』と答えればよろしいと」
どこまでも察しがいいというか、手回しが良いというか。レオンの所属する騎士隊番と俺が持ち得る階級までも伝えてくれ、何から何まで準備よく揃えてくれていたのだった。
『それにしても、意外でしたわ』
「何がだ?」
『てっきり何もかも絶望して、すっかり逃げ果ててしまうものかと』
揺れる荷馬車とは無縁でふわふわと浮きながら、レンゲは言葉とは裏腹に呆れたような顔で話しかけてきた。
水の精霊のひとつ、「ウンディーネ」は若く美しい女性の姿で顕れ、その見た目や美しい声によって相手を呼び寄せ、水底に誘う……という伝承があるが、今いるレンゲは「レオン様が案内しろというから仕方なくですわ」とやや不満げについて来ているのだった。
レンゲの思う疑問も分からなくはない。俺自身も選択肢には挙げていた。
『ただ育ててくれた、と言うだけで自らの命をかける程なのですか、ニンゲンというものは?』
クルクルと髪の毛先を弄りながら、レンゲは退屈そうに続ける。精霊の価値観としては理解できない行動なのだろう。
精霊は魔法・魔術とは違い、『意思を持った魔素』……もっと言うならば世界を構成しているものの一部とも言い換えられる。自らの意思で生まれ、自らの力で存在するそれは、おおよそ人間の生き方とは違う。人に近しい形をしても、全てが人間と同じだとは限らない。
「姉さんは、ただ育ててくれただけじゃないんだ」
俺は少しだけ宙に浮く「火」を眺めながら、本を閉じて答える。
「俺達には血の繋がりは無い。でも、身寄りのない俺達をずっと面倒見てくれた人だ」
『その、血の繋がり?も無いということは、家族でも無いということですわよね?』
「そういうことだな」
『余計にその人のためにする意味が分かりませんわ』
「まあ、そうだろうな」
精霊の価値観では通じないと割り切るのは簡単だが、事実として育ててくれた恩義やレオンに頼まれたから、というだけではない。
「姉さんが天使だからだ」
まあ、と心底意外そうに――それっぽく見せて――口元を押さえて俺を見るレンゲ。
『天使であるから救うと?まるで英雄ですわね』
「馬鹿言え、英雄になるつもりなんて無い。それだったらレオンの方がよっぽどそれっぽいぜ」
首を竦め、本を仕舞う。
もしレオンが姉さんを救うと言うのなら、それらしい
だが現実はそうはいかない。皇帝の側近として仕えているのはレオンばかりでは無いうえに、現在その天使に頼る事情も事情だ。天使からの供給がなければ央都の魔素不足は解消されず、皇帝を退ければ帝政は崩れ、各国の均衡を保つ役割に支障が出る。もし迂闊にレオンが動けば自らの立場も危うくなり、そうなれば最期、延々と天使からは魔素が搾取され続ける。
本当ならすぐにでも皇帝の顔を殴り飛ばして、姉さんを連れてどこにでも逃げてやりたい。だがそれも、結末は変わらないはずだ。
それを理解した上で、レオンは打てる手は全て打った。ならば。
「今度は俺の番、か……」
空白となった四年を埋めることはきっと叶わない。姉さんが連れ去られて、今もなお苦しめられている事実も変わらない。レオンもまた、どうすることも出来ない行き止まりにある。
それでもあいつが諦めないならば。それでも俺が諦められないならば――
『おい、そこの荷馬車!止まれ!』
鋭く飛んできた声に、俺は反射的に宙に浮いた「火」を握り込むようにして消した。幌の中は外から射し込む仄かな光だけで、あとは物に紛れた暗さが広がる。
唐突に聞こえた外からの声に荷馬車はやがて止まり、続いて地を擦りながら歩く足音がいくつか近づいて来るのが聞こえた。
『焔帝様、外に騎士隊が二人。一般の白い制服ですわ』
レンゲはおもむろに幌の外へとすり抜けていき、俺に聞こえる程度の声量で耳打ちしてくる。精霊に実体は無いため物理的な干渉はほぼ無視できる。精霊の属性によっては痕跡も残るが、少しボロい幌であればちょっとした染みが出来ても不自然ではない。
「……ようやく関所か。恐らく荷物検査だろう」
当然ながら央都は一つの国で、リョートもまた国である。国と国を渡るには関所を越えていく必要がある。その管理を行うのも騎士隊の仕事だ。
白い制服、ということは特別な階級や役職に着いているわけではない下級騎士だろう。大方、関所での荷物目録の検分や通行手続きといった仕事のはずだ。
『如何しますの? 騎士隊の制服を着てらっしゃるからには、普通に任務と言い張れば通じるのでは?』
レンゲは身を潜めてる俺に再び耳打ちする。確かに服装からすれば、同じく騎士隊の所属だと分かれば良いが。
近づいてきた騎士隊の一人が御者に向かってこんな事を言い始める。
「つい最近、央都から抜け出した脱獄犯が居ると報告があってな。現在厳戒態勢を敷いている。何でも、騎士隊の制服に
「…………やられたな」
どういう訳か、狙い済ませたかように警戒されているようだった。央都から抜け出した脱獄犯というのは十中八九、俺のことだろう。服装がバレていることも鑑みると皇帝も一筋縄ではいかないということだろう。
『如何いたしますの? これから変装でもいたします?』
目を細めて提案してくるレンゲだが、隠している口元がつり上がっているのがチラリと見えた。話していて分かったが、この精霊は余程性格が意地悪いらしい。
とはいえレンゲの言う通り、指名手配されてるのならば変装も考えられるが、差し迫った今からどう取り
万事休す、と詰まる俺を見かねたのか、レンゲは『はあ』と溜息を吐いた。
『仕方ありませんわね。レオン様のメンツもあります、一肌脱いで差し上げますわ』
と、呆れ返るように肩を竦め首を振るレンゲが、するりと幌をすり抜けていった。制止する暇もなく、俺は一人荷台の荷物に埋もれて相手の様子をうかがった。
一人が御者から目録に目を通す間に、もう一人が荷物を鋭く見張る。幸いながら、外へと出ていった精霊に気付く様子は無い。
「おい御者よ、本当に積んでいるものはこれで正しいのだろうな」
「ええ、些細なものばかりですが」
「それにしては、幾ばくか物が多そうに見えるが」
「ここまでの道で荷が少し崩れたのでしょうな。奥の織物などは嵩張りますからなぁ」
険のある問い詰めに、御者であるヴィクトールは顎を撫でながらのらりくらりとかわす。時間を稼いでくれているのだが、如何せんこちらへの注視は続いたままだ。
「悪いが実際に見て確かめろと、上に言われているのでな」
疑心は確証を以て晴らす。騎士隊のモットーのひとつだ。ガタン、と先程まで荷を見ていた騎士が荷台に足をかけ、奥へと踏み込もうと――。
『キャアアアアアア!』
突然、絹をさくような悲鳴が響いた。ちょうど関所よりも向こう側、騎士隊の背後からだ。
「なんだ? 声がしたぞ!」
「様子を見てくる。目録は確認した、通ってよし!」
慌てるようにして騎士隊はその場を離れ、悲鳴のした方向へと走り去っていった。足音が遠ざかっていくのを聞きながら、俺は少しだけ身を起こし外の様子をうかがうと。
「アルト様、もうよろしいですよ」
ヴィクトールがこちらに背を向けたまま後ろ手で手を揉み、騎士隊の去った方角を見ていた。ちらりと見えた彼の手は、ただ年老いたと言うだけでは無い皺と節が刻まれていた。
「…………レンゲがうまくやったみたいだな」
ようやく幌の外に顔を出せた俺は、一瞬眩しさに目を細めた。
最初に思ったのは、真っ白な景色。風は吹いてはいないものの、刺すような――あるいは縛り付けるような――強い寒さが身を襲う。少し暮れ始めた陽の光を浴びながら、一面の銀世界はただただ広がっていた。
続いて見えたのは遠くで大きくそびえる銀の山だ。あまりの大きさに距離感が掴めないほどで、あれこそがリョート一……というよりも、世界最高峰である「ガラー・カピヨー」。その麓に、「カピヨー」の街はある。
銀の隙間からは針葉樹林が覗き、山々を覆っているのが分かる。その隙間を縫うようにして、僅かにながら轍が伸びていた。意外と人の通りが少ないのか、関所の周りは俺が乗る荷馬車以外での動く影はなかった。
「さて急ぎましょうか。騎士隊が戻る前に、宿を取るのがよろしいかと」
「レンゲはどうする? 飛んでいったきりだが」
「彼女は後ほど合流することでしょう。精霊は離れていても、自分の意思で戻ってこられますからな」
柔和な笑みを浮かべ、ヴィクトールは近くに宿のある村に向かうと告げた。やはり、というか元々はその村に行くつもりでヴィクトールは荷馬車を出したらしく、何から何まで読めない人だと再認識した。
再び荷馬車の中で揺られて数時間。気付けば積んでいた本は読み終えて、再び最初に読み終えた本を開きかけた所で荷馬車は止まった。
「なぁ爺さん。もっと先には行けないのか? まだ夜には早いし、少しでもカピヨーに近づいた方が」
荷馬車を引いていた馬を撫でるヴィクトールに進言する。目指すカピヨーへの距離はまだまだある上に、少しでも「種」の元へたどり着くためには先に進みたい。しかし彼はこちらに向くことなく首を横に振る。
「アルト様。焦るのは分かりますが、今夜は吹雪くはずでございます。吹雪の夜に荷馬車は走れませぬよ」
「歩いてでも」
「吹雪の道は前後も分からぬ白い闇。余計に危険ですよ」
優しい声音でそう諭されると、何とも言い返すことが出来なくなる。もちろん自分の『魔法』を使えば多少の無理も通じるだろうが、その分反動が強く出てくるはずだ。俺はそれ以上食い下がることも出来ず、渋々ながらに頷いた。
少ない荷物を持って荷馬車を降りると、ちらちらと小さな雪が降り始めていた。リョートに来てから初の雪だが、感動よりも先に先程までより厳しくなった寒さに身を縮ませた。ヴィクトールは馬車を置いてくるついでに、知り合いの家に泊めてもらう手筈だと言う。いくらかの路銀と、厚手の外套を手渡してくれた後に、再び馬車はやや暗くなった村の中を進んで行った。
馬車を見送った後に、紹介された宿屋へと向き直る。目の前にはこぢんまりとした木造二階建てで、暖かな灯りが窓から漏れだした建物が一軒。辺りに微かながらなんとも言えないような美味しそうな香りが漂う。
ぴう、と一陣の風が吹き付け、更に寒さが厳しくなる前に逃げ込むように宿屋の扉を押し開けた。カラコロン、と小気味よいドアベルが鳴り、宿屋の中に身を滑り込ませると、ふわりと暖かな空気に包まれる。出迎えてくれたのは石組みで作られた暖炉からの温もりと、いくつかの立ち飲み用テーブルに小さなカウンター。そしてちょろちょろと動く小さな影。
「あ、いらっしゃいませですけどー」
背丈はちょうど五十センチほど。黄色いフードを被り、真っ黒な肌とぱちぱちと動く目。長く余った袖を振りながら器用に箒を操り、ピコピコと尻尾らしいものを揺らしながらてちてちと歩く小さな生物。こちらに気づいて振り返ると頭の上の二つの突起――角、らしい――がぴょこりと立った。
「ケド族か」
この小さな生物は「ケド族」。精霊や幻獣の類ではなく、しかし人間に近しいものでもない不可思議な生物だ。
この世界の至る所で見かけ、人語を解し、また人間社会での共存を成しており、何より「働くこと」を目的としている奇特な種族だ。そのルーツを辿ろうとする学者はいくつもいたが、曖昧な論証に確定的な物証も見つからないという、謎が謎を呼ぶようなまま現代に馴染んでいる。
「はいですけどー、おきゃくさまですかー?」
「ああ、泊まりたいんだが部屋は空いてるか?」
「少々おまちをー。アイシャさーん、おきゃくさまですけどー」
パタパタと箒を抱えながら宿屋の奥の方へと消えていくケド族。しばらくして、宿屋の主らしい人がエプロンを直しながら戻ってきた。
柔らかくゆるい癖のある髪をふわりとなびかせながら、羊毛で編まれたであろうセーターと裾の広がった長いスカートという出で立ちで――想像ではあるが宿屋の主人なだけに
「あらあらごめんなさい、お鍋を見てて気づきませんでした。ようこそ、『鹿の角亭』へ。お泊まりですか、それともお食事?」
アイシャと呼ばれたその人は、柔らかな眼差しと笑顔で出迎えてくれた。少したれ目気味な目尻はどこか優しさすら感じさせ、迎えた客の警戒心をほぐすような気すらする。宿の雰囲気といい、穏やかで包み込むような温もりがそのまま人に現れたかのようだった。
「とりあえず、朝までの間泊まりたいんだが」
ええ、とにこやかに答えてくれたアイシャはすい、とカウンターに広げられた台帳を差し出し、名前の記入を促された。渡された筆を取って、俺は少しだけ本名を書くか悩み、結局そのまま書き記した。
「アルトさん……ですね、どちらからいらしたんです?」
台帳に書かれた字を見ながら、宿屋の女主人はふとそんなことを聞いてきた。表情は崩さず穏やかな笑みのままだ。下手に嘘をついたところで、どうボロが出るか分からない。
「ん……央都からだ」
「まあ、央都ですか。遠路はるばる、ようこそ。行き先はどちらまで?」
「カピヨーだ。……ここから遠いのか?」
「ええ。随分な長旅ですわ、ゆっくり体を休めてくださいな」
微笑みを崩さぬままに、アイシャは相槌を打つように聞いてくる。手際よく部屋の鍵を揃え、台帳を確認した後にカウンターを出て二階へと続く階段へと進む。
「お部屋は二階に上がって奥の突き当たりです。アルトさんはお仕事でこちらに?」
「ああ……まあ、そんなところだ」
「お若いのに、凄いですね」
「そう、かな。……そうだといいな」
他愛ない会話と共に階段を登りきり、二階の奥へと進んでいく。いくつかの部屋をすぎた後、突き当たりには素朴に拵えた装飾と木板のドアが待っており、アイシャが鉄の鍵を回して押し開いた。
角部屋らしい広い部屋は、一人用にしては十分すぎる空間だ。丁寧に伸ばされたシーツに柔らかそうな毛布と掛布団、簡素ながら使い込まれたデスクと、火の魔術が組み込まれたランプが掛かっている。床は綺麗な文様の入ったラグが敷かれ、窓際は花瓶が添えられていた。
「お食事は如何なさいます?」
「部屋で食べたい。持ってきてもらえると助かる」
「ええ、かしこまりました」
部屋の鍵を渡し、しずしずとアイシャは部屋から出ていこうとした所で、俺はふと彼女に声を掛けた。
「なあ、えーと、アイシャ……さん」
俺の呼び掛けに、「アイシャで構いませんよ」とふっと微笑みながら彼女は振り返る。かねてから聞いておきたい事があった。
「その……最近、何か変わった事とかないか?」
「変わったこと……ですか?」
「ああ。些細なことでもいいんだが」
カピヨーに行く前に、リョートとして地元の人間に話を聞くことも考えていた。ちょうど宿屋の主人と言えば、入れ替わり立ち替わりで客が来るはずで、少なくとも噂話は耳にするだろう、ぐらいの気持ちで聞いてみた。
しかし初めて、アイシャの顔が曇ったように見えた。
「そうですね……最近」
「最近……?」
「最近…………お客様が少なくて」
至極、宿屋の主人らしい悩みだった。
「原因は分かるんですが、私ではどうにも出来ない問題ですし。全くいないわけでも無いので、些細といえばそれぐらいでしょうか」
「そ、そうだったのか。その、悪いな」
確かに宿に入ってからというもの、俺以外の客は見ていない。皆部屋に入っているのか、それとも本当に人が来ていないだけなのか。原因というのもこの店自体の対応が悪い、というわけでもなさそうだが。
「いえいえお気になさらず。…………あ!」
と、再び急に声を挙げたアイシャだが。
「なんだ?」
「お鍋の様子見に行かないと! ではまた!」
ぺこりと頭を下げて慌ただしく部屋から出ていったアイシャに、俺は少しだけ緊張がほぐれたような気がした。
ふう、とため息を一つ。荷物を床へと下ろし、ベッドへと倒れ込むように横になった。そういえば、まともな寝床にありつけたのはいつぶりだろうか。長い髪も乱れ、貰ったばかりの制服や外套がシワになることも気にせず、ただただ柔らかく包み込んでくれる温かな寝床の感触に身を任せた。
安らぎと温もりの中で、段々と瞼が重くなり始める。自分でも言ったばかりだが、気付かぬうちに長旅で体力を消耗していたらしい。確かにこの調子ではカピヨーを目指すことは難しいだろう。見透かされていたのか、とうっすら思いながら微睡みに身を任せ――
『あらあらまぁまぁ。随分とおネムのようですわね、焔帝様?』
――ようとして、頭上からやけに高圧的な声が聞こえてきた。
「…………たった今、最悪の目覚めになったぞレンゲ」
『それはご無礼を。どうか御容赦を』
欠片ほども思ってない謝罪を述べながら、いつの間にか頭上にふわふわと漂う精霊が居た。寝返りを打って逆さまに映るレンゲを視界に入れると、しかして普段よりも上機嫌に見えた。
「なんだ? 随分と機嫌がいいじゃねーか」
『ええ! それはとても! 久々に人間相手にイタズラを仕掛けられたのはいい鬱憤ばらしになりましたわ!』
「イタズラって……」
ふと、レンゲと別れた時のことを思い出す。関所にて騎士隊の気を逸らし、荷馬車を通らせた所までは思惑通りの作戦だったはずだが。
『ええ、ええ。ウンディーネの呼び声に吊られた者は、水底に沈む。ウフフフ、いい気味ですわ』
「おい、まさか、殺しちゃいないだろうな?」
嫌な予想が過ぎる。楽しみ半分でウンディーネに呼ばれて沈められる水難事故は後を絶たない。精霊にとってのイタズラは、場合によっては命取りになりかねないからだ。
しかし俺の冷や汗をよそに、レンゲはその言葉にむくれた。
『まさか。それは禁忌に触れますもの。ええ、断じて殺してなど居ませんわ』
禁忌、というのは精霊との契約で立てられる制約のことだ。これを精霊と契約者両方に立てられることで、契約時の関係性を強めるというものだ。当然ながら双方が同じ禁忌を立てている訳でもなく、それぞれがお互いに出す条件に沿って、お互いがそれを了承することによって成立するものだ。
とりあえず、最悪の事態は避けられていたようで何よりだと脱力した。
「……そうか」
『ええ。せいぜいびしょ濡れになって風邪をひく程度ですわ』
「殺さない分タチの悪いイタズラだな?」
この極寒の地で全身びしょ濡れとは、ひょっとすると風邪よりも酷い事態になるのではと思ったが、相手は騎士隊。それなりの対処には慣れている……はずだと信じたい。
『これでしばらくは騎士隊の追っ手は来ることがないでしょう。連絡するどころではありませんもの』
原因を作ったのは他でもない彼女だが、やり遂げたかのような満足気な顔で胸を張られると言及する気も起きなくなる。それにこちらとしてもその方が都合がいい。
『それで? 焔帝様はここで一泊するおつもりです?』
「ああ……日も落ちてきたし、ヴィクトールの荷馬車も無い。出来ることなら急ぎたいが」
『まあ……それは懸命な判断ですわ。これより明日からしばらくは吹雪きますもの』
「しばらくって……具体的にどれくらいだ?」
『さあ。それは――――』
唐突にレンゲは言葉を切り、扉の方へと目を向けた。続いてコンコンコンと三回、扉がノックされる。部屋を訪ねてくるということは、宿屋の女主人だろうか。もう食事の用意が出来たのかと身を起こすが、レンゲは静かに窓際へと下がっていく。
『焔帝様、私はこれにて。あとはご自分でカピヨーを目指してくださいまし』
「え? そりゃどういう」
『私、必要以上に人と関わるなと申し付けられておりますので。もしお会いするならまたお一人の時に。では』
不思議に思って聞き返すが、レンゲは止める暇も無くそそくさと窓をすり抜けていった。
『もし。中にいらっしゃるかな』
扉の向こうから声が聞こえる。既に扉の前に居るらしい。
聞きなれない声だ。加えて、落ち着いた口調ではあるがどうにも中性的で高いとも低いと言えない声質。レンゲは恐らく、この声の主を察知して下がっていったのだろう。
精霊が警戒するほどだ。俺は息を吸い、扉の前で答える。
「ああ、どちらさんで」
『やあ、扉越しで失礼。と言っても、先程のやり取りを聞かせてもらっていた者だが』
ますます警戒心が高まる。宿屋の中では客はいなかったはずだが、もしかすると本当に部屋の中で聞き耳を立てられていたのか。わざわざそんなことをしてくる上でこちらに近づいてくる相手となれば、そう簡単に扉を開けるわけにもいかない。
「……何もんだ、あんた」
硬い声音で問いかけるが、扉の外からは飄々としたままの声が返ってくる。
『いやなに、しがない医者だよ、私は。それより廊下で話すのもなんだ。中に入っても?』
医者、と名乗る相手。リョートでの医者と言えば、医学薬学に精通してる上に、様々な分野での知識人として扱われる……というのが通説だ。当然ながら姿も見てない相手にそれを判別できるかと言われると、土台無理な話だ。
『警戒しているのかな。結構』
しかし相手はといえば、こちらの気を知ってか知らずか、そのまま話を続けた。
『君に提案をしに来ただけさ。単なる旅行者にしては、随分思い詰めた顔だったものでね』
本当に、なぜこちらが姿を見ていないにも関わらずそうも言い当てられるのか。不審を通り越して興味すら湧いてきた。それに、気になることも言っている。
「提案?」
『そう、提案だ。カピヨーに向かうならいい話があるんだが』
その言葉に、一瞬俺は黙った。いい話、というのは少なくとも俺にとってだけでは無い。無論向こうの医者を自称する相手にも都合のいい話ということ。何を要求されるかは分からない、がしかし。
俺はドアノブに手を掛け、ゆっくりと様子を伺うように扉を開いた。扉の隙間から、声の主らしき影が見えた。
俺の身長よりは少しだけ小さいがそれでも十分に伸びた背、ブロンドの長い髪を結い上げて後ろにまとめ、長い
柔らかなファーの付いた外套を羽織り、リョートの厳しい気候に合わせた保温性の高そうな衣服で立つその人は、にこやかにこちらと目線を合わせた。
「初めまして、黒髪の少年。同じ宿を借りる者同士だ、仲良くさせてほしい」
扉越しに聞いた声はそのまま、高いとも低いとも言えない中性的な声。目の前にいるにも関わらず、掴みきれない正体に困惑を隠せなかった。
正直信じきれない所はあるが、いざとなればの手段は持ち合わせている。俺は半信半疑のまま、その人が通れるだけの扉の隙間を開けた。
「ああ、失礼する。うん、角部屋とだけあって実に広いな。私もこちらを紹介してもらえばよかった」
対称的に、その人は臆面もなく部屋へと入り、手に持つ鞄を床に置く。黒い手袋をはめたまま顎を撫で部屋を見回し、扉を閉めた俺へと星夜の人は向き直る。
「……さっき、話を聞いてたって言ったよな」
「そうだとも。つい聞き耳を立ててしまってね」
悪びれる様子もなく余裕の笑みをもって俺の切り出しに答える。
「君はカピヨーに向かうのだろう? だが、君はリョートに来たばかりで勝手も分からない。そこで、君には二日後の連絡便をお勧めしようと思ってね」
わざわざ盗み聞きしてまで勧めてくるのが、定期便の案内とは。あまりに普通……というかお節介というか。
しかしふと、先にこの……彼?彼女?が言っていたことを思い出す。
「ここに来たのはただそれを伝えるため、だけじゃないんだろ?」
「察しが良くて助かるよ」
どこか楽しそうに笑った後に、星夜の人は真正面に俺を見据える。先程までの掴めない態度から一転、辺りまでも静まるような眼差しだった。生唾を飲み込み、俺はその人の言葉を待った。
一呼吸置いて、その人は話す。
「二日後の連絡便、私も一緒に相席させて欲しいんだ。こちらも事情があって、急きょ首都方面に向かう用事があってね」
「……………………は」
あまりにも拍子抜けな内容だった。思わずガクリと滑りそうになったが、踏みとどまって眉間を押さえた。
事情がどうあれ、俺は旅の人には変わりない。律儀にそこまで頼み込んでくるのも珍しいくらいだ。
「そりゃ、構わないが」
「有難い。お礼と言ってはだが、君は捜し物をしに来たと言っていたね。その手伝いをするというのはどうだろうか?」
「本当か!? ……あ、いや」
予想外の提案に身を乗り出して食いつく。が、しかし。
直ぐに居住まいを正して、扉に背もたれる。なぜそうも条件がいいのか。逆に調子が良くて疑惑すら湧いてくる。これでも央都の荒事が絶えない下町育ちだ、うまい話には裏があることくらい、骨身で分かっている。
「ふむ、まだ疑いが晴れないかな」
「……当たり前だ。そんな話を鵜呑みに出来るほどじゃ」
「そういえば、巷では央都の監獄から脱走者が出たとか。リョートに潜伏してるとか、と聞いたな」
「…………それが俺だ、とでも?」
やはり、というか。どこで掴んだ情報なのか定かではないが、噂話は馬より早いらしい。鋭く彼を――彼と仮定して――睨みつけるが、肝心の彼はどこ吹く風の様子で肩をすくめるばかりだ。
「まあ、別に賞金稼ぎがしたい訳でもないし騎士隊に突き出す暇も無い。だが指名手配されてるほどだ、腕は立つのだろう?」
「……あんた、いい性格してるぜ」
用心棒代わりにお尋ね者と相席とは、よほど肝が据わってなければ思いつかない発想だ。医者と自称する割には相当な修羅場を経験していそうだ。
こちらをお尋ね者と断定してるのはこの際無視する。いちいち細かく気にしていては、これから先に進む前に気が触れてしまうだろう。
「一応言っておくが、そこまでしてもらっても俺は何も返せないぞ」
「依頼は相席で、報酬はカピヨー到着。条件として、君が求めてる情報を提供する。それじゃ不満かな?」
丁寧に確認するものの、不満どころか好条件すぎるのが逆に怪しいくらいな訳だが。
再び上手く腑に落ちないところがありながら、俺は彼の話に同意した。
「交渉成立、だな。君の捜し物が何なのかは知らないが、深く立ち入らぬのが世の常。できる限りの手は尽くそうじゃないか」
うんうん、と彼は満足気に頷いて、こちらに手を差し出してきた。その手と彼の顔を見比べて、それが握手を求めてきているのだと気付くのにしばらくかかった。
「俺は……アルト。アルト・アントヴォルト」
差し伸ばしてきた手を握り、むず痒さを感じながら改めて名乗る。意外にもしっかりとした手応えで握り返され、彼は不敵な笑みを浮かべながらこちらを見返した。
「私のことは、アリタ、とでも呼んでくれ。巷ではそれで通っているのでね。呼びにくければ『先生』でも構わないよ」
初めて聞いた彼の名前を小さく呟き、握手を終えた手をしばらく結んで開いてを繰り返した。
「アリタ先生……か?」
ふと口をついて出た呼称に、アリタはクスリと笑う。
「なかなか律儀だな、君は。どちらかで構わないさ」
「じゃあ……先生で」
「では少年、カピヨーまでの間だが」
「ああ、よろしく頼む」
医者を名乗る性別不明の人物・アリタ。奇妙な出会い方になったものの、リョートに来てから初めての旅の仲間となった。
To be continued...
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