1.獄中の《真理》

 息苦しさで目を覚ました。うつ伏せに寝なければ拘束具が邪魔でゆっくり眠れない。とはいえ、どれほど寝ても慣れない姿勢だ。加えてカビとホコリにまみれた地下牢ではお世辞にも快適な安眠とは言えない。申し訳程度のぼろ布で寒さを凌げるだけでも、ここではありがたい限りかもしれない。

 短くなってきた蝋燭の小さな頼りない灯りが薄暗く壁を照らす。ろくな整備もせずに地下深くをくり抜いてむき出しのなった岩肌と、以前は使われていたのだろうか、割れてしまっている食器が散らばり、牢屋と呼ぶよりももはや動物の洞穴のような場所になっている。

 寝不足な目を擦りながら、欠伸を一つ。この牢に入れられてどれほどの時間が過ぎたのか。時計はおろか陽の光も届かず、まして誰かがここに来て日付を教えてくれるほど親切な話もない。唯一分かることはと言えば、伸び放題になった自分の黒髪が地面に着くほどになっていることと、少ない食事のせいで明らかにやせ細っている自分の体ぐらいだろう。そもそもここに人が一人入っていることすら、もしかすると誰からも忘れられているのかもしれない。必要最低限の食事が時々運ばれてきても、その給仕もなにも喋ることはない。

 満足に力が入らない体に活を入れて、かろうじて牢の体裁を表している鉄格子へと近づく。見た目こそか細く、容易く破れそうな檻だが、今の俺ではそれも叶わないことは既に随分前に試している。


 さて……今日は何の本があるかな、と。


 この牢へと続く細い道から、誰とも知れずに時々本が数冊だけ差し入れられていることがある。内容は余りにも雑多で、決められた種類は特になかった。つい最近までの新聞の切り抜きをまとめたものや、各地の生物の生態をまとめた図鑑のようなものまで。食事の時以外にすることがまるでない牢屋の中ではそれが唯一の娯楽だった。特に学校で使われていたと思われる教科書や学術書なんかは読みごたえがある。差し入れる人間のものなのか、ところどころ書き込みがあるのを見ると随分と勉強熱心だったらしい。その書き込みも、どの本にも詳しく書き込まれては分かりやすくまとめられているために、実際に読んでいるだけで熱中してしまう。牢に入れられるまではロクにちゃんとした勉強はしてこなかったな、と胸のうちで呟いて。


「昔は、か……」


 牢に入る前のことを思い出してしまった。平和に暮らしていた日々。平穏な姉弟たちとの生活。そしてそれらを理不尽に奪われた結果が、この牢屋だ。今でも言い表せない怒りが腹の底から沸き上がって、その度に後悔の念が押し寄せる。まるで悪夢だ。信じたくない現実で、せめて夢の中で後悔を埋めようとしても、それを覆せずにいる。

 小さく舌打ちして、苛立ちのままに開いていた本を乱暴に閉じる。物に当たったところで解決にならないことは分かっているが、今は理屈ではなく感情が先だった。

 冷静になろうとカビ臭い空気を深呼吸しようとして――遠くから扉が開く音が聞こえた。ゆっくりと大きな歩幅の足音が洞穴の中でよく響く。そのまま誰かがこの牢屋に向かってきているようだった。数は一つ。微かな衣擦れと、鈴のような高い音が重なって聞こえてくる。聞きなれない音だ。知っている限りでは、いつもの無口な給仕であれば食事を運ぶ滑車と食器の擦れあう騒がしさがあるはずだ。

 足音はやがて俺の牢屋の前で止まり、低い声で問いかけてきた。


「アルト――アルト・アントヴォルト」


 久々に聞いた声のような気がした。そもそもここで話をする相手もいないのだから、人の声そのものが懐かしく感じるのかもしれない。その声は俺の名前を読み上げて、俺の返事を待っているようだった。


「珍しいな。俺の名前を読み間違えない奴は結構久しぶりだぜ?」


 からかうようにして肩をすくめ、その声に振り返ることなく答える。見ずとも分かる。相手はここを管理している騎士……しかも、相当に高位の騎士だろう。普段からこの牢屋には騎士が滅多に来ないあたり、この牢屋に通じる道を知っているのは、騎士たちの中でも限られた数なのだと容易に想像できる。

 そして、その高位の騎士がここに来るとなると、その用がどんなものなのかも限られてくる。


「それで? わざわざ騎士様がこんなカビ臭い場所の引きこもりに何の用だ?」


 こんな場所にいる人間の末路などどうせ碌でもないことばかりだ。卑屈めいた言葉で返してみるが、相手はため息一つだけ吐いただけだった。続けて、微かな紙擦れの音と共に口を開く。


「随分卑屈なものですね。『焔帝』の貴方らしくない」

「……その名で呼ぶってことは、少しは勉強しているみたいだな」


 意外な名前で呼ばれて、そこで初めて騎士の方へと振り向いた。洞穴の中は蝋燭の微かな明かりだけで、基本的に薄暗い場所だ。しかしその騎士はまるでポッカリとそこだけ光が無くなったかのような、薄暗い中でも不自然なまでに浮いて見える真っ黒な影そのものだった。それが黒を基調にした、騎士隊の制服なのだと分かるに数瞬かかった。見える限りで身につけているものがその黒い制服と、複雑に組み合わされた魔術用の杖、そして数枚の新旧入り混じった書類。杖は使い込まれている上質な物のようだが、書類の方はやや黄ばんだものや真新しいものまでが雑多に抱え込まれていた。

 黒い制服は騎士隊の中でも特に上位の階級、「特例騎士隊」にしか与えられない制服。その地位はこの国の王が直々に従えるほどの実力を持ち合わせている、名実共に誇るべきものだ。俺にとっては、微塵も尊敬の念が湧いて来もしない相手だが。


「ええ、貴方のことはよく知っていますよ。四年前の大罪人、とね」


 顔がフードに隠れて見えない騎士の声は、冷たいくらいに落ち着き払っているものだった。からかうでも、茶化すでもなく、事実確認の一端としてその呼び名を使っている、そんな印象だった。


「勉強熱心な騎士様なこった。早く用を済ませたほうがいいんじゃないか?」

「ええ、時間があまりありませんからね」


 軽口を気にするでもなく、その答えは早口で返された。普通の騎士であれば、罪人に対しては多少なりとも不機嫌な態度を示すものだが、この黒い騎士にしてみればそんなことはどうでもいいことのようだった。

 黒の騎士が手にしていた杖を振ると涼やかな金属音が鳴り、それとは反対に牢屋の格子が音もなく開いた。四年もの間――ここでは時間の流れを知ることなどできなかったが、それほどに時間が経っていたのかと内心驚愕していた――開くことのなかった檻が、いとも容易く開かれた。


「アルト・アントヴォルト。貴方を迎えに来ました」


「…………」


 真っ直ぐに見据える騎士の声に、しかし俺は無言で返した。

 迎えに、という言葉に多少なりの希望を抱くことも、もしかしたらあるのだろう。しかし俺にとってはそれが、俺の最期を告げる最終通告にしか聞こえなかった。


「さあ、牢から出てください。……ああ、もしかして上手く立てないのですか?」


 至って事務的に、黒の騎士は座り込む俺に手を差し伸べた。俺の背中に拘束具は、この体から力を吸い取る仕組みになっている。体を動かす度に、まるで体の中にある一本の芯をジリジリと焦がされるような痛みが走るために、気分としても動くことが億劫になる。物知りな騎士様はおそらくその事情も知っているために、親切心でそう言ったのだろう。

 何も言わずに俺はその手を取る。手袋をはめた男の手は俺よりも幾分か大きく、軽々と俺を引き上げて立たせた。背は大きく、肩幅も十分に広い。少しだけ引き上げる時の力が強すぎたのか、立ち上がった瞬間に軽くよろめいてしまった。体に上手く力が入らないこともあって、騎士に体を支えられる形でなんとか体勢を整える。


「長い牢生活の弊害ですね。拘束具はまだ外せませんが、外に出るまでは支えますよ」

「いや……余計な気を回してくれるな。自分で歩きたいんだよ」


 随分と親切にしてくれる騎士だが、いつまでも頼る気にもなれなかった。拘束具がいつまで続くかは分からないが、煩わしい体の痛みにいい加減慣れておきたい。長らく自由に動くことも出来なかった分、僅かにでも自分の体の感覚を取り戻したかった。依然としてジリジリと焦げ付くような痛みに苛立ちが募るが、極力無視して歩を進めた。

 そうですか、と返事してから騎士はノロノロと歩く俺をしばらく眺めていたが、少しして数歩後から見守るようにして付いてきた。涼やかな金属音が、無言なままの俺と騎士の間で静かに鳴り続けた。それが十数回程聞こえたあたりか、不意に騎士が口を開いた。


「貴方が犯したという罪、自分で覚えていますか?」


 罪。牢に入っていたものには、当然その理由がある。四年前の大罪。騎士が口にした、俺がかつて犯したとされる咎。問いかけてきた騎士の声が、何かを面白がって聞いているような色もなく、事実確認の一端にその行動が含まれているに過ぎないとでも言いそうな、硬い声だった。

 問いかけに対して、俺は足を止めた。覚えているか。ああ、覚えている。今でも夢に見るほどだ。何度繰り返しても、何度やり直しても、消えてくれない苦い過去。罪などと呼ばれて、なすりつけられたもの。


「――国家転覆未遂、国家反逆未遂、及び最重要機密希少資源罪。愚かにも皇帝に噛み付いて、『天使』を誘拐していた、だろ」


 言い渡された罪状を詳しく覚えている訳ではなかった。四年前の記憶を罪状と共に覚えておくことなど、おそらく悔しさで気が狂っていたはずだろう。この牢に入ってからの数年後に、俺の事件を取り上げた新聞が送られてきたのを手に取ったに過ぎない。その新聞も、一通り読んだ後に怒りに任せて破り捨てたが。

 自虐めいた言葉に対して、騎士は笑うでもなく手元の書類に目を落とし、しばらくして再びこちらを真っ直ぐに見据えてくる。フードの奥の瞳は揺れることなく、更に口を開く。


「正直に言ってください。貴方は、罪を犯したのですか?」

「……どういう意味だ、それは?」

「自分が罪を犯したという意識が自分にはありますか、という意味です」


 騎士の言葉の真意が分からない。罪に問われたから、罰を与えられたからこそ、この牢に閉じ込められたのだ。しかし、ああ、なるほど。罪人に罪の意識が少しでもあれば、情状酌量の余地はあるというやつだろう。もしかすれば問われた罪も、返答次第では軽くなるかもしれない。ついでに正直に言えというのは無論、望んだとおりに言わなければどのような事情にせよ執行対象になる、という意味だ。

 ならば俺も、言葉通り正直に答えておこう。


「いいや、これっぽっちも」

「…………理由を聞きましょうか」


 わざと挑発するように言ってみたが、極めて冷静に騎士は返してくる。涼しい顔でその実、腹の中で何を抱えているか分かりもしない相手に、望むような返答をするのも馬鹿らしいとさえ思う。少なくともこの国での重罪をいくつも重ねている俺が、どれほどの情状酌量を経て五体満足で生きていられるのか。この先が短いのなら、言いたいことを言わせてもらうとしよう。

 四年前の事件。俺の罪。皇帝に歯向かったまでの顛末。どれも、俺が見てきた事実だ。


 ◆


 俺には下町で身を寄せ合って生きてきた家族がいた。姉と弟が一人ずつで、親らしい親も居ないまま、助け合って生きてきた。姉は優しくて、俺たちの母親代わりでもあった。弟は賢くて、勉強熱心なやつだった。あいつは騎士隊に憧れていたな。アンタら騎士にしてみれば、嬉しいもんだろ?


 貧しくて、子供だった俺たちができる仕事なんて少なくて、毎日限りある金をやりくりしながら過ごして。時々下町のおじさんやおばさんたちに世話になりながら、それでも三人で暮らして行けていた。ずっと貧しくたって良かった。この姉弟たちと一緒なら、いつまででも暮らしていける。そう信じていたんだ。


 四年前……弟が騎士学校の編入試験のために出て行ったその日だった。俺たちの家に、突然騎士たちが詰めかけたんだ。数までは覚えちゃいない。誰だったのかも、顔を覆う兜で分からなかった。そしてそいつらが大事そうに守りながら、アイツが――「皇帝」が現れたんだ。その時に初めて、この国の皇帝を間近で見た。……正直な話、一目見て恐怖した。そいつが何を考えているのか、全くわからなかったんだ。笑っているような、怒っているような顔で、こっちを見る皇帝に俺は文字通り恐怖した。敬意や畏怖なんて感情じゃない。純粋に、巨大な獣を見たときのようなおぞましいモノへの恐怖だった。


 騎士たちが『皇帝勅命である』と宣言して。そいつらの目的も分からないまま、どういう理屈か真っ先に姉さんを捕まえようとしていた。立て続けの事に頭の理解が追いつかない状況だったが、当然抵抗したさ。家族が連れ去られようとしているんだからな。


 俺は姉さんの手を引いて、何とか騎士隊の隙を突いて逃げ出し、下町を駆けずり回った。守りたかったんだ。弟も居なかったその時に、姉さんを守れるのは俺だけだった。


 ……それでも、最後には捕まった。俺は国家に背いた罪を背負わされて、姉さんはどうなったのかも分からず仕舞い。最後に見た姉さんの顔が、今でも瞼の裏に焼きついて離れない。覚悟を決めた、悲しい顔だったんだ。守りたかったのに、逆に姉さんから守られていたんだ――。


 ◆


 昔を懐かしむと同時に、言い知れない悲しみが胸中にこみ上げてくる。俺が、もっと強かったなら。後悔や懺悔に似た独り言を、何度繰り返しただろう。牢の中では未だに姉を守れなかった悔しさが燻り、思い返すだけで脳が燃えたぎるような怒りが視界をうっすらと赤く染める。


「……深く聞き過ぎましたか。気に障ったなら謝罪します。ですので、少し気を鎮め

て頂けると。魔力が抑えきれていませんから」


 俺の口調から汲み取ったのか、少し申し訳なさそうに頭を下げる黒騎士。感情に伴って無意識に力が漏れ出していたらしい。気が付けば落とした視線の先、地面に触れた俺の爪先からジリジリと乾いた音が鳴っていた。蝋燭の火が溢れたわけでもない。少しだけ乾いた土の匂いが鼻をくすぐった。こういったことが起こらないように背中の拘束具があるはずなのだが、どうやらそれでも処理しきれないほどの力が出ていたようだ。肩を竦めて、再び歩きづらい洞穴を進もうとして。


「貴方はまだ、その人を救いたいと思っていますか?」


 背後から、再び問いが投げかけられる。


「……随分と、お喋りな騎士様じゃねえか。罪人をそんなに苛立たせて楽しいのかよ」

「これは真剣な質問ですよ。貴方の意思を確認するための、とても重要な質問です」


 何度も問いかけてくるこの騎士に、流石に苛立ちを隠せずに眉根を寄せて振り返る。真剣だと彼は言うが、立ち入りすぎる質問は耐え兼ねる屈辱だ。事情を知っておきながら、なおも聞いてくるその気概は神経を逆撫でするには十分だった。

 だからこそ、俺は吼える。


「当然だ。あの皇帝から姉さんを取り戻して、弟を騎士隊から連れ戻して、また皆で下町で暮らす。昔のように……!」


 そう。昔のように。穴が空いてしまった四年間は、決して自分たちの下には帰ってこない。ならばせめて、再び姉弟全員で下町に戻る。下町が駄目ならば、別の国に逃げてでも。誰に侵されることなく、平和な日々を送る。この四年間で願い続けた、俺の願い。


「絶対に、絶対にだ。その為に皇帝を殺すことになろうとも、俺は――」

「なるほど。まだ兄さんは諦めていないんですね」


 と、怒りまくし立てていた俺の言葉に、ゆっくりと頷いて黒の騎士は返した。

 ……。…………。

 待て、今何と言った?


「四年もの間で意気消沈して廃人になっていたらと心配していましたが、どうやら杞憂で済んだみたいですね。それにしても、本当に兄さんは初対面の人に容赦ありませんね」


 騎士は被っていた制服のフードを外し、初めてその素顔を晒した。フードよりも暗く、俺とよく似た黒髪と左目の泣き黒子。記憶にある頃の顔よりも幾分か大人びて見えるその顔と、そして右耳につけた四色の石をはめ込んだ簡素な耳飾り。見覚えが有る。忘れるはずがない。それはずっと昔に俺が自分で作ったものだ。


「やれやれ、声で気づくかと思っていましたが、顔まで晒さないと分からないなんて。昔のまま、鈍感なんですね」

「お前……」

「久しぶりですね。改めてお元気でしたか、兄さん?」


 今までのお堅い雰囲気は影もなく、少しだけ砕けた柔らかな表情。「懐かしい」というよりも「なぜここに」という驚きの方が強かった。

 別れを告げることなく離れ離れとなった弟――レオン。騎士学校編入が無事に済み、晴れて騎士隊へと入隊するまでに成長している姿は、四年という月日をまざまざと見せつけられた。



《To be continue...》

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