159話:救出作戦――その3

『アンタなんて産むんじゃなかった』


 ひりつく顔を押さえて視線を逸した。


――嫌な記憶だ。あのと同じ目で俺を見るな……。


 ラングにとって、最も幼い時期に残った強烈な記憶がだった。ミリル平原中央、無法都市ウルカムルカ。古代語で『神に見捨てられた土地』と名付けられたその街で、ラングは娼婦の子として生を受けた。物心付いたときから耳にしてきた罵声と悲鳴が、今なお脳裏に焼き付いている。


 少なくとも少年時代のラングの周りには、まともと言える大人は一人も居なかった。に媚びる母の猫撫で声を子守唄に成長し、頬を打つ手が唯一の温もりだった。


 そんなラングが真っ当な人間に育つはずもなく、青年期を迎える頃には一端の悪党として街のチンピラ連中とつるんでは悪さをくり返す毎日を送っていた。


 初めて殺しに手を染めたのは14の頃。いつものように朝方になって家へと戻ってくると、慌てたように自宅から飛び出してくる男の姿が見えた。その時、何事かと部屋に戻ったラングが目にしたのは、無残にも変わり果てた母親の死体。ひどく殴られたのか、内出血であろう赤黒いアザがいくつも刻まれていて、潰れた鼻と歯をへし折られた口元からは血が滴り落ちている。見ればベッドの上には大きな血溜まりも出来ていた。


 唖然とした。この街では人死になんて珍しくも何ともない。それでもどこかで対岸の火事のように思っていたのかも知れない。


 ラングは死んだ母親を見下ろしながら言い知れぬ不思議な感覚に包まれた。大嫌いな母が死んだ。それだけの事なのに――その筈なのに……、どうしてだろう。胸が張り裂けそうだ。


――俺はどうすればいい?


 逃げていった男の顔には見覚えが合った。数年前から通ってきてはしつこく母親を口説いていた男だ。ラングはすぐさま家を飛び出すと、仲間の元へと駆け出した。母を殺した男の名前はわからないが、彼がとある傭兵団の一員であることは知っていた。自分一人ではどうにもならない。だが、仲間と一緒なら……。


 いい思い出など一つもなかった。母親らしい事をしてもらった記憶など無い。それでも許せなかった。復讐せずにはいられなかった。何故かは分からない。だけど、この自分が悲しんでいることだけは分かった。だから――


 しかし――たどり着いたラングが語ったその言葉に、仲間たちは腹を抱えて笑い転げた。ウルカムルカではよくある話だと……。


――あぁ、そうだろうさ。だけど、それでも俺は……。


 悔しさに顔を歪ませ、怒りに身を震わせる。そんなラングに唯一手を差し伸べたのがシュタールだった。仲間が酷い目に合わされて黙っているような腰抜けはいらん。そう吐き捨てたシュタールは、その場からラングを連れ出した。


 その後、2年もの歳月を掛けて二人は復讐の為に動き続けた。新たな仲間を集めて傭兵団を結成。やがて少しづつだが仕事もまわってくるようになった。その頃には兵団の人数も増えて、一目置かれるほどの大きさになっていた。


 ラングが母親の仇を討ったのはそれからすぐの事だった。正直なところラングの復讐心はすでに掠れたように朧気になっていた。もともと愛情のない親子関係だ。当時はカッとなってはいたものの、時間が経つに連れてしだいに熱も冷め、どうでもいいと思うようになっていたのだ。


 しかしシュタールはそれを許さなかった。彼にとって仲間は家族で、それを傷付けたものは決して許すことは出来ない敵なのだと。


 結果として傭兵団同士の抗争にまで発展した。そのせいで、ラング達は多くの仲間を失う事になる。だが勝利した。そして流した血は傭兵団の結束を絶対的なものへと押し上げた。それからだろうか、ラングがシュタールに依存を始めたのは。


 たとえ父親がいなくても、たとえ母親から虐待を受けていたとしても、自分はまだマシな方だ。傭兵団に人が増え、彼らの生い立ちを見聞きする度にラングはそう思えるようにもなっていた。


 そんな碌でもない生まれの者たちが寄り集まって出来た兵団ではあったが、それでも互いに生命を預け合ってきた彼らにとっては、兵団の面々こそが家族であり唯一の居場所だった。


――あのガキだけは許さねぇ……。


 ギリギリと歯軋りする様に奥歯を噛み締めると、床板を踏み抜かんばかりに足を踏み鳴らす。


 盗賊行為に人身売買。金になりそうな事は何でもやった。今までに奪ってきた生命だって数え切れない程あるだろう。さんざん好き勝手に暴れ回ってきたのだ。鼻っからまともな死に方が出来るとは思っちゃいない。だがアレは酷すぎる。あんな間抜けな死に方があってたまるか!


 焼け爛れたせいで臭いを感じることすら出来なくなってしまった。たが今でもハッキリと覚えている。真っ黒に炭化した仲間の放つ焦げた臭い。自分を守るように覆い被さって死んだシュタールの姿。


 あの日、ラングは文字通りに全てを失った。広げた手のひらには何もなく、憎しみを込めてきつく握った拳が空を掴む。と、いまだぶつける相手のいない拳を壁に叩きつけた。


 仲間たちと死ぬはずだったラングが、こうして生き存えているのはシュタールの犠牲があればこそ。しかし、ディーゼル家に捕らえられた彼は、気が狂う程の痛みの中で何度となく気を失い、治療と拷問受け続ける羽目になった。死んだ方がましだと何度も心が折れそうにもなった。そうしてようやく手に入れた復讐の機会。


――今更生命など惜しくもない。


「早く来い糞ガキ。俺の気が変わらない内にな……」


 吐き出した呪詛を込めて睨み返す。似ても似つかないはずなのに、なぜか母親の面影が重なって見える女。終始ビクビクと怯えていた彼女は、少女が暴力にさらされた途端に敵意を剥き出しにした。


――気に入らない……。どいつもこいつも反吐が出る。


 ラングとアナベルが睨み合ったその時――激しいノック音が室内に響き渡った。


「ラングさん、が現れました!」


「――っ! ゾうか、来ダガ……」


 奴が来た。シュタールを、仲間を、家族を奪ったあの悪魔が!


 ラングは仮面の下でニタリと笑んだ。ヤツを殺す。何を犠牲にしてでも、どんな手を使ってでも――


「やめて! コッチへ来ないで!」


 両の手足を縛られながら、アナベルは覆い被さるようにしてフランを庇う。


「どゲッ、邪魔ダ!」


「ウグッ……」


 ラングのケリがアナベルの腹部を捉えると、鈍い音を立てて転がった。息が出来ないのか必死に口元をパクパクとさせている。


「フンッ……、知っダことか」


 元々、死なば諸共でここまで来たのだ。どの道、失うものなど何もない。ジンクスなど知ったことか。


 ラングは、いまだ白目を剥いて気を失っているフランを担ぎ上げると、通りすがりに自らを呼びに来た男の肩を叩く。


「見張っデいろ。もジもの時はごろせ! いいな?」


「あ、あぁ……分かった」


――待ってろよシュタール。必ず仇を討ってやるからな。


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