91話:草原の約束――その1

 彼らは疲れ切っていた。


 蹂躙された故郷から、命辛々逃げ出してきたものの、度重なる追っ手の襲撃に、もはや肉体的、精神的にも限界を迎えつつあった。

 水浴びは疎か、睡眠も食事もままならない中での強行軍。

 ボロボロの衣服を身にまとい、飢えと痛みで震える膝を何とか前へと蹴り出す。

 そんな彼ら、彼女らを突き動かすのは練っとりと絡み付く死への恐怖。


 疲労で落ちる目蓋の裏には、無惨にも物言わぬ肉片とかした仲間の姿が、今なお鮮明に刻まれていた。


 四肢を刻まれた者。炎によって生きたまま焼かれた者。

 飛び交う無数の魔法に身体中を貫かれた者。


 血溜まりの中を、泣き叫びながら母を探して彷徨う少女。

 たった今、通り過ぎた焼け焦げた真っ黒な死体が、自らの母親の姿とは気付かずに……。


 悲鳴が、断末魔が、爆発音が、耳鳴りのように鼓膜の内側で木霊する。

 土砂降りの雨の中で尚、血の臭いが、錆びた鉄の味が、逃亡者を追い詰める。


 何故逃げ出したのかと。何故最後まで戦わなかったのかと。

 何故助けてくれなかったのかと。


――何故、何故、何故、何故、何故、何故、なぜ……。


 誰もが言葉を失い、希望を失い、生きているのかさえ朧気になっていく。


 そんな中――。


 ひとり先頭を行く男は、抜き身の剣を握り、睨みつけるように前だけを見据えている。

 鍛え抜かれた身体に刻まれた無数の傷。

 応急手当すらできずに野ざらしにされた創傷からは、じわりと血が滲んでいた。


――死ねなかった。死ぬことを許されなかった。


 戦士長という立場でありながら、彼は戦うことさえ許されなかった。

 死ぬべきだった。たとえ命令に逆らおうとも、迎え撃つべきだった。

 そうしていれば、今頃は友と共に、戦友と共に、名誉ある死を迎えることが出来ていたはずだ。


「くそっ!」


 痛む傷口を押さえて立ち止まる。

 鬱陶しい雨だ、イライラする。


 振り返ると、まるで幽鬼のようにユラユラと向かってくる仲間達が見える。


 少し離れすぎてしまったようだ。自制しなくては……。

 女、子供がいるのだ。護らなくてはならないのだ。

 一人だって死なせる訳にはいかない。 

 そうでなければいったい何の為に自分は生き残ってたと言うのか……。


 固く握った剣に視線を落とすと、大きく息を吐く。


「限界か……」


 そうぼそりと呟くと、は手にした剣を鞘に納めた――。




――精霊の森。


 彼らにとっては故郷であり聖地である。

 精霊の守人たる彼らダーク・エルフの一族は、森で生まれ森に返る。

 そのほとんとが結界の外を知らずに、生を終える。

 そんな生き方をだれ一人疑うことなく、脈々と受け継いできた。


 周辺国は、決して精霊の森へは刃を向けたりはしない。

 原則、不可侵とされてきた。

 理由は上位精霊の存在と、精霊契約の特殊性にある。


 精霊は基本的に上位精霊が張った結界の中でしか生きる事ができない。

 その為、精霊魔導師を目指す者は、遅かれ早かれ精霊の森を訪れることになるのだ。

 ならば、精霊の森を攻め落としてしまえば、自国の軍事力増強と他国の軍事力弱体化を同時に行うことが出来る。

 遥か昔、そう目論んだ国があった。


 持ちうるほぼ全ての戦力を導入し、奪ったまでは良かったが、程なくして精霊の森は魔の森へとその姿を変えてしまった。

 一般の精霊と違い、上位精霊は契約者が無くとも、自身で魔素を魔力に変換することが出来る。

 完璧な不死なのだ。

 ことさら人間と契約などする訳がない。


 人間達の蛮行に業を煮やした上位精霊が精霊達を連れて姿を消せば、後に残るのは結界が消え魔素の充満した魔の森である。

 元々精霊の生まれやすかった森に、次々と半生命体が生まれ、やがてその森はダンジョン化してしまったのだ。


 その森の名はダンジョンランクBと呼ばれた。


 そのような失態を犯した国を、周辺国が許しておく訳がなく、連合軍による進行によって跡形もなく消え去った。


 これが、精霊の森を不可侵領域とする理由である。

 




――しかし、いつの世も人は過ちを繰り返す――




………………。

…………。

……。




「持ちそうか?」


 セバールがエイダに耳打ちをする。

 脱出組を護るため、共に森を出た戦士の中でも生え抜きの女戦士だ。

 彼女は精霊魔導師で、特に魔法による遠距離戦を得意としていた。

 その他にシスルと言う者もいるが、こちらは精霊魔導師でありながら接近戦を好む変わり種。

 セバール以下この三人が戦士達を統括して皆をここまで守ってきたのだ。


 森を出てから、誰一人欠けることなく何とかここまで逃げ延びてきた。

 今さら死人を出したくは無い。


「流石に限界ね。子供はおぶって行くにしても、女や年寄りはどうにもならないわ」


「そうか……、仕方がない、今夜はここで野営だな。すぐに支度を始めろ。それと、シスルを呼んでくれ」


「了解」


 国境を越えて三日は経っている。

 おそらく追っ手も直ぐにはここまで来ないだろう。

 本格的に野営をする機会はそうはない。

 ただ……。


「問題は魔獣か……」


「戦士長、お呼びですか?」


 血と泥にまみれたハーフプレートに身を包み、目尻から口許まで深い古傷を刻んだ屈強な戦士。

 鎧下は真っ赤に染まり、プレートにこびり付いた血は乾いて黒く変色し、泥と雨に晒され続けた身体は凍えるほどに冷えているだろう。


 しかし、シスルはまだまだ余裕綽々と言った顔で笑みを浮かべていた。


「あぁ、だがその前に……。何故子供を背負っている?」


 見るとシスルの背には疲れて寝入った少年がおぶさっている。

 未だ小さな身では相当に堪えたのだろう。


「いやぁ、起こすのも可哀想かなぁと……」


 バツが悪そうに肩を竦めるシスルを見て、苦笑いのセバール。

 ダーク・エルフを含め長命種とされるエルフは、滅多に子宝に恵まれない。

 おそらくは寿命が極端に長いため、子孫を残そうとする機能が著しく低いのだろう。

 その為かエルフは子供をことさら愛おしむ。

 産まれた子は、それこそ一族総出で育てるのだ。


「ふっ、確かによく眠っているな」


「でしょ? この寝顔を見てたら疲れなんて吹っ飛んじまいますよ」


「そうか、疲れが吹っ飛んだか」


 ニヤリとしたセバールを見て、シスルはあからさまに顔を歪める。

 あぁ、これはまたこき使われるぞ、と。


「な、何すか戦士長……。凄い悪い顔してますが?」


「うるさい、人相の悪さは元からだ。それより適当に動けそうな者を四人見繕って、ここいら周辺を偵察してこい。あぁ、子供はエイダに預けていけよ?」


「うへっ、分かりましたよ行きゃぁいんでしょ?」


「そうだ、分かったらとっとと行ってこい」


 セバールは、言ってシスルの尻を蹴り飛ばす。

 しかしその言動とは裏腹に、顔には自然と笑みが浮かんでいる。


 これほどの極限状態の中で、あそこまで飄々ひょうひょうとしていられるのはシスルぐらいのものだ。

 追い詰められたように固い表情をしていたセバールが、今では先の事を考える余裕さえ生まれている。

 

(まったく……、得難い才能だよ)


 ともあれどうしたものか……。

 素振りこそ見せないが、セバールは途方に暮れていた。

 精霊の森のダーク・エルフは、只でさえ滅多に森から出ないのだ。

 国境を越えた先に何があるのかなど知る由もない。

 いったいどこに向かえば良いというのか……。


 空を見上げると、どんよりとした分厚い雨雲が一面を覆っている。

 まるで自身の抱えた不安を写す鏡のようだ。


(この雨は暫く続きそうだな。だがよくよく考えてみればこれは幸運かもしれんな)


 雨で足が鈍るのは相手も同じ筈。

 ならば降っている間に体力の回復を計るのは妙案という奴だ。


「後は何処へ向かうか、か……」


 腕を組み、顔を伏せて考える。

 部下達に迷う素振りを見せるわけにはいかない。

 只でさえ皆一様に不安の中にいるのだ。


――いっその事、運に任せるか?


「流石にそれは無責任か」


 呟くと、自身の考えを振り払うように頭を振る。

 いけない仲間の命で賽を振るう事など出来るわけがない。


――何でもいい、何か一つでも確信が持てるものが欲しい。


「精霊神様、どうか我らをお導きください」


「言っておくけど私は、聖人でもなければ神でもないわよ?」


「――っ!」


 セバールは突然投げかけられた言葉に、すぐさま身を翻すと腰の剣を引き抜いた。


 あり得ない、身を隠すものなど何もない平原で、こうも容易く後ろを取れる者がいるのか?


 驚愕し、動揺を隠しきれないセバールの前には、真っ黒なローブに身を包み、大きく丸い鍔の付いたトンガリ帽子を深く被った何者かが立っていた。


 声色から察するに女性だろうか?

 降りしきる雨と、深く被った帽子の所為で顔は確認できない。


 ただ、何気なくそこに立っている。

 武器を手にするでもなく、戦意を向けるでもなく……。


 セバールは摺り足で僅かに横へ移動した。

 ここより先へ行かせてはならない。

 自身の背後には、傷つき疲れ果てた仲間達がいるのだ。


――行かせて成るものか!


 セバールは覇気を纏うと地を蹴った。

 その刹那――彼の世界は闇へと沈んだ。


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