その優しい指先を守るためにできること


 葉山はやまかいりに『呂色ろいろ』と名付けられた雷竜らいりゅうの子供は不幸を知らない。幸福を知らない。

 もともとが幼く、拙い思考しか持たない子供のドラゴンは、ある日、自身のからだを浮かせる重力制御のコントロールに失敗し、地上に落下した。

 雷竜は雲海で暮らす特異なドラゴンであり、力のコントロールを誤ることは幼い子供にはよくある失敗だった。

 しかし、運が悪かった。

 地上に落下し動けなくなった子供のもとへ、親が駆けつけるよりも早くに人間がやって来たのだ。

 子供はカプセル型の檻に入れられ、ドラゴンを切り刻むことを厭わない施設で薬漬けにされた。自力で脱出できぬよう、子供は徹底的に管理され、角の根本には被験番号『No.014』と刻まれた。

 これから成熟していくはずの精神や自我は人の手によりこれでもかとばかりに歪められ、管理された。

 肉体の悲鳴も、心の悲鳴も、すべてはデータとして流されるだけの苦痛の日々。

 幼いドラゴンは人間を『こわい』と思った。

 繰り返される注射、肉体を切り刻まれる行為を『いたい』と思った。

 他に誰もいない檻に閉じ込められることを『かなしい』と思った。『さみしい』と思った。

 子供のドラゴンにとって、一人きりの時間が長く、長く続く夜を思えば、朝になり、何が入っているか分からない食事を口にしたあと檻から出され、寝台に縛られるあの時間の方が幾分かマシだと思えた。そこには痛みが散らばっていたが、一人ではなかった。自分ではない誰かがいた。子供のドラゴンはそのことに少しだけ安心もしていたのだ。


「……すまないな」


 ある日、白衣を着た男が檻の前に立ち、そうこぼした。

 麻酔が効いて満足に動けないドラゴンは、床に横たわったままその男を見上げた。

 片桐かたぎり由比ゆい

 中性的な見た目の男はサンダルをつっかけた白衣の格好でしゃがみ込むと、檻の中で横たわったまま動けない子供の顔を指先で撫でた。

 ドラゴンを見て俯くその表情かおにあるのは色濃い哀しみ。

 実験以外での最初の触れ合いはほんの数秒ではあったが、男はその頭脳を活かして度々ドラゴンに接触した。不自然ではない形で。たったの数秒のこともあれば、数分のこともあった。

 男は研究者としてではなく一人の人間としてドラゴンに接した。幼い子供にそうするように。ドラゴンはそれが嬉しかった。

 強いられている苦痛の日々を思えば、その触れ合いは本当にささやかな幸福。

 しかし、子供であるが故に、ドラゴンにはそれで充分じゅうぶんであった。

 優しい声。優しい指先。優しい眼差し。

 雲海の中にいた頃は当たり前のように触れていた優しさに、しかし、ドラゴンは泣くこともできない。その瞳はすでに人工物へとすり替わっており、涙という余分な機能など残しているはずもなかった。


「…私がなんとかする。約束だ」


 男はある日、檻の前で、決意を秘めた目でそう口にした。長い会議の末、子供ドラゴンの処分が決定した日だった。

 思考力など残っていないドラゴンには、男の決意も、小さく語られる言葉の意味も理解できない。痛みの日々にある僅かな優しさに縋った子供は、今日も撫でてよ、と檻に顔を押しつけるだけで、それ以上を望む心など持ち合わせていない。

 男はやわらかくした表情でドラゴンの鱗を撫でた。あと何度この時間があるのか。ドラゴンを撫でながら男の頭は目まぐるしく回転していた。

 男の頭脳はほどなくして解を弾き出す。

 うまくいったとして、自分は死ぬか、死ぬほどの拷問を受けるか、どちらかだろう。

 それでも構わないさ、と彼は思う。

 目の前にいるこの子供は苦痛の日々を生きてきた。泣けず、喚けず、怒れもせず、およそ生きているとは言い難い痛みの日々を過ごしてきた。

 四肢を切断され、皮膚を剥がされ、目玉を抉り取られ。どれほど痛かったろう。機械の肉体の限界を知るためと溺れるまで水の中に沈められ、火の中に放り込まれ、氷点下の部屋に放置され。どれほど苦しかったろう。どれほど泣きたかったろう。

 もう涙も流せない人工物の瞳は感情を宿すことはなく、ただこちらを見上げるだけだ。

 男は決意した。そして、その日のため、一人、動き出した。すべては人の身勝手に振り回された子供のためだった。




 片桐由比は、ドラゴンのことが好きなだけの頭の良い男だった。

 運が悪かったのは、ドラゴンを研究する仕事場が望まない方向性であったことだろう。それに気付いたときにはすべてが手遅れで、男は引き返すことのできない立ち位置になっていた。

 男は苦悩した末に一匹の子供ドラゴンを逃がすことを選択し、結果、命を落とした。


「いきろ」


 その意味はドラゴンには伝わらなかった。しかし、その言葉の響きと、息絶えていく男の表情をドラゴンはしっかりと憶えていた。忘れたくても忘れられない光景として記憶に刻み込まれていた。

 血の赤にまみれた手でドラゴンを撫でて生きろと残した片桐は死んだ。

 今、あのときの男のように、赤い色を流しながら、葉山かいりが言う。「いきろ」と。よく似た表情で言うのだ。「いきろ」と。

 ドラゴンは、呂色は、死を理解していなかった。片桐が死んだことも、それがどうしてかも、今も理解していない。

 ただ、片桐のときのように、このままではまた『優しくしてくれる人を失うのではないか』と恐れた。

 子供は愛情に飢えていた。痛みの日々に一度は忘却したそれらを思い出させた片桐のような優しい指先を求めていた。

 向けられる銃口には殺意の色。呂色の目にはそれが数値として視えている。

 一人ぼっちだったドラゴンの子供は、もう一人になりたくはなかった。一緒にご飯を食べたり、一緒に眠ったり、一緒に走ったり歩いたりする誰かを、かいりという人間を、失いたくなかった。


 なら、戦いなさい。かいりを守りたいのなら


 頭に直接呼びかけてくるような低い唸り声。

 久しく忘れていたドラゴン古来の言葉は、呂色の中に僅かに残っている自我を揺さぶった。

 その言葉でママと呼んでいた日々があった。パパと呼んだ日があった。遠い、遠い昔に。

 閉ざされていた思考に浮かぶ『Attention』の英字。続く数字の羅列と数式。弾き出された解は発砲音と重なり、『Expansion』『gravitational field』の文字が呂色の視界を踊る。

 あかいドラゴンに導かれ、閉ざされていた扉が開いた瞬間。

 呂色の力は銃弾を止め、弾く。倒れているかいりを守るために。

 足を引きずりながら起き上がったかいりに、呂色は安心した。生きている。そう安堵した。

 そうして、呂色は自分に力があることを知った。

 それは誰かを傷つけるために強化された力だったが、愛を求める子供は、手にした刃を守るために使うと決めた。



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