3.


 裸足のろいろの手を引いて歩かせるのは少し気が引けたけど、自分の口からゴホと一つ咳が出たとき、そうも言っていられないとようやく割り切れた。

 今の咳が瘴気しょうきのせいか、そこらじゅうに漂う妹の破壊のあとのせいかはわからないけど、急がないと。

 ろいろは抱っこして走るには重い。自分の足でついてきてもらうしかない。


「ろいろおいで。はやく」


 片手でろいろの手を引き、片手で携帯端末を操作。高山市内の地図に現在地を表示させて脱出ルートを考える。

 妹によれば、瘴気は低いところから溜まっていくって話だった。ならとりあえず高いところを目指せばいいかな。


(高いところ。駅周辺は人がごった返してるだろうし、高速とか…?)


 走っていると、パン、と乾いた音が聞こえて足が止まった。

 今来た道を振り返ると、空にはここからでもよく見えるあかいドラゴンの姿。よく響く唸り声を上げて空を飛び、口から火の球を放っている。

 パン、パン、と続けて乾いた音が響く。銃声だ。警察が妹に向けて発砲している。

 妹は警察を牽制するように炎を吐いているように見える。

 悪役のドラゴンを演じ、瘴気が噴き出し始めたこの街から人を追い出すため、妹はよくやってくれてる。俺がお願いしたから。

 八坂やさかとか。クラスメイトは。逃げたろうか。面白がって残ったりしてないだろうな。

 念のため、携帯端末に登録されている学校のアプリを開いた。うちのクラスをタッチして暗証番号を入力し入室。トピックスの新着は何もない。

 葉山はやまかいりの名前で手短に『街でドラゴンが暴れてる。みんな市街に避難しろ』という旨のメッセージを書いておく。

 すぐに一つ二つとクラスメイトの名前で返事が並び始めたのに満足してアプリを落とす。こっちはこれでいいだろう。問題は。

 すっかり足が止まってしまった俺は、きょろきょろと辺りを見回すろいろと、上空を旋回しながら警察の発砲から逃れているのだろう妹を見比べた。

 どうすべきか。何を優先すべきか。ろいろか。ドラゴンとはいえ何年も一緒に生活してきた妹のことか。心が揺れていた。


 何をしている。さっさと逃げなさい

「、」


 頭の中に低い唸り声が聞こえた気がして辺りを見回す。空の車が道の脇に停車しているばかりで人気はない。

 妹は相変わらず向こうの方で空を飛びながら火の球を吐き出している。そばにはいない。それでも声が。おまけにこっちの状況を見透かしている。


 警察その他が出てきた。発砲も許可されているようだ。きな臭くなる前にさっさと行きなさい

「でも、お前が。銃とかマズいだろ」

 ここであっさり引けないでしょう。あと、ドラゴンを甘くみないでちょうだい。普通の弾なんてどうとでもできる

「そうなの…」


 そうか。そうなのか。妹レベルのドラゴンになると普通の銃とか無意味なのか。それを聞いて少し安心した。なら、妹の言うように、早く街から出よう。賢い妹なら頃合いを見て街から引き上げるはずだ。 

 妹の声が頭の中に響くことは『そういうドラゴンパワーなんだ』と無理矢理納得し、再び走り出そうとした。ろいろの手を引いて地面を一つ蹴った。それと同時に今までとは違う種類の叫び声が聞こえた。牽制じゃない。警告でもない。悲鳴、に聞こえた。

 また足が止まって、振り返った先で、飛んでいる妹が苦しそうにもがいていた。そういう飛び方をしていた。ついさっき普通の弾なんてなんでもないと言っていた妹が不安定な飛び方をしている。今にもビルにぶつかりそうだ。

 どうして。

 なんで。

 そういう理由を考える前に、からだは勝手に動いていた。

 あいつはドラゴンでも俺の妹だった奴で、生意気だけど頭がよくて、賢くて、なんでもできて。だけど俺はあいつの名前すら知らない。

 とにかくそばへ。一人にしておいちゃいけない。俺が行って何ができるわけでもないのにいっちょ前にそんなことを考えて、気付いたら走っていた。

 とにかくそばへ。その一心でビルの角を曲がって、まさかの、人にぶつかった。まだ人が残っていたのだ。

 尻もちつきそうになったのをたたらを踏むことで堪えて「すいません」とだけ言ってすれ違い、相手の白衣に目が行く。病院かどこかの人だろうか。

 揃って白衣を来た男が三人。すれ違って、ピー、という機械音がした。一人が何か複雑そうな機械を持っている。そして「ここです」という声。ぶつかった俺に無関心だった男三人の目がいっせいにこっちを見る。

 なんか、マズそう。ヤバい人達かも。

 先手必勝。それ逃げろ、と駆け出したのも束の間。「止まれ、撃つぞ」という物騒な声に背中がヒヤリと冷たくなった。

 きっと脅しだ。いや脅しであってくれ。日本は相変わらずの法治国家で銃刀法違反のある国だ。そんじょそこらの人間が銃を持っているわけは…。そう思いながらぎこちなく足を止め、ぎこちなく振り返ると、男二人がこちらに銃を構えているではないか。

 おいおい。ただでさえよくない状況なのに、さらによくない状況になるとか。勘弁してくれ。

 状況なんてさっぱりわかっていないだろうろいろの手を引き、それとなく俺の後ろへ押しやる。


「あの、なんでしょう。避難したいんですけど」


 とりあえず当たり障りのないところから話を始めた俺に対し、白衣の集団は冷たい目をしている。

 あちらの方でまた妹の悲鳴が聞こえた。

 気持ちだけが急く。こんなことをしてる場合じゃないのにと。

 複雑な機械を持っている男がその機械を俺とろいろにそれぞれ向けた。俺に対しては無反応。ろいろに対してはピーという機械音。男三人の目は俺とろいろを窺うものから完全にろいろだけに移行した。背中に嫌な汗が滲む。


「きみ」

「…はい」

「その子供はドラゴンだね?」


 その言葉を聞いた瞬間、頭の中に散らばっていたピースが音を立ててはまっていった。

 白衣の集団。

 複雑そうな機械。

 一般人は持っていないだろう銃。

 人の姿をしているろいろをドラゴンだと言い切る冷たい目の男達。

 きっとそうだ。彼らがろいろにNo.014と刻んだ人間。ろいろを生体改造して、生物兵器にした。

 銃を持っている人間に対して有効な手段なんて知らない俺は、ろいろの手を引いて脱兎のごとく逃げ出した。それくらいしか浮かばなかった。冷静なつもりでいたけど、初めて向けられた銃に混乱していたんだろう。

 足を撃たれて、その激痛に走れなくなって、足を引きずりながらそれでも歩いて、歩いて、頭の後ろにゴツリと銃口を押しつけられた。「待てと言っている。次は頭を撃ち抜くぞ」冷水のように冷たい声が降ってくる。焼けるような痛みに思考はもう止まりかけていたけど、それでもろいろだけは庇おうと両腕で抱きしめた。

 人間に望まない形で命を歪められたろいろ。かわいそうな子供のドラゴン。

 本来の生から大きく外れた道にポツンと一人で丸くなっているろいろは、親も友達も頼れる相手もなく、たった一人だ。

 だから、俺がそばにいようって、決めたのに。

 クル、と鳴いた声に腕の中に視線を落とす。痛みでぼやけて霞んだ視界の中で虹色の虹彩の丸い瞳がこっちを見上げている。


「…、」


 空に。

 ろいろは空を飛べる。俺を置いてなら逃げられるはずだ。

 行くんだ。逃げろ。にげろ。うわ言のようにこぼす俺の頭がゴッと殴られた。銃か、拳か。それすらわからないままコンクリートの地面に倒れ込む。踏ん張るだけの力が出てこない。「ろいろ、」それでも唇だけで逃げろと口にする。

 逃げて、生き延びてくれ。生きてくれ。

 ここで捕まったらお前はまた実験体になる。もう二度と自由にはなれない。苦しみながら生かされやがて死ぬだろう。俺はそんなお前は見たくない。

 ろいろ、と繰り返す俺へ銃口が向けられる。


「おい」

「この騒ぎだ。一人や二人死んだところで誤魔化せるさ。No.014の回収が優先だ」


 そして、引き金は引かれた。

 ……目を閉じて、そのときに備えたけど、痛みはやってこなかった。

 的確に急所を撃ち抜かれると痛みを感じる暇なく死ねるという。頭を撃ち抜かれて、俺は死んだんだろうか。それならどうしてまだ思考できているんだろう。もしかして、ゴールドと同じ場所に行けたんだろうか…。

 目、を開けてみて、自分の腕が見えた。俺が抱きしめたままのろいろが見えた。ろいろの瞳は相変わらず虹色だ。逃げろ、ってあんなに言ったのに、逃げてない。ほんと、馬鹿だなぁ。お前。

 どうして俺は死んでないんだ、と視線を巡らせる。「どうした」俺と同じく疑問を感じたらしい男の一人が発砲した男へと声をかける。

 銃口からは確かに硝煙が上がっているのに、弾は当たっていない。こんなに近距離で外すとは思えない。さっきは走っている俺の足を撃ち抜いたのだ。外すはずがない。

 発砲した男が凝視している空間を追ってみて、霞んだ目を凝らす。

 …弾。が。透明な壁に阻まれているように動きを止めている。「まさか…っ」男が一歩後ずさってから続けざまに発砲した。俺は反射的にろいろを庇った。だけど、痛みはやってこない。外したわけじゃない。ちゃんとこちらを狙っていた。その弾はすべて空中で止まっていた。そしていっせいに進路を変えて地面に突き刺さっていった。

 何が起こったのか頭がついてこない俺とは違い、ろいろのことをいじり倒した白衣の男達には今の出来事が理解ができたらしい。


「重力制御だと…!?」

「馬鹿なッ」

「間違いない。雷竜らいりゅうの特徴だ。銃弾の動きを展開した重力場で止めて叩き落とした…!」


 彼らの言ってることはよく、わからないけど。状況が変わったようだ。

 銃弾が脅威でなくなった。ろいろがそうした。

 足を引きずりながら起き上がった俺に向けて再び発砲音。だけど痛みはない。銃弾は俺の少し手前ですべて静止している。 

 自分のことも、ろいろのことも。諦めるには、まだ、早い。



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