2.


 初めて空を飛んだ感想は?

 そう問いかけられたら俺はこう答えるだろう。股が冷え込んだ、って。つまるところ生きた心地がしなかった、って。

 俺は今、命綱なんて何もない状態でドラゴンの手に握られている。

 突き刺さったらまず痛いだろう爪に握られているのはそれだけでもわりと生きた心地がしないのに、俺を握ったあかいドラゴンは空を飛んでいるのだ。当然、その手に握られている俺も問答無用で空を飛ぶことになるわけで。

 眼下には、闇に沈んだ高山の自然と、いつもより明るいと感じる街の光。


「お、ぉ、おちる…っ」


 さっきからそんな言葉しか出てこない俺に、朱いドラゴンは片目だけギョロリとこっちに向けて、呆れたように目を細くした。『落としても拾うから問題ない』しれっとそう言う唸り声に叫んで返した。「いやそういう問題じゃないっ」拾う拾わないの前にまず落ちたくなんてない。

 マイペースな朱いドラゴンは海を泳ぐ魚みたいに素早く空を飛んでいく。街はもうすぐそこだ。

 気持ちを落ち着けるため、俺は自分のこと以外に目を向けることにした。眼下は見ない。朱いドラゴン=妹のことも見ない。じゃあ見るものは、といえばろいろだ。俺がドラゴンの手に掴まれて空に連れ去られたのをドラゴンの姿になって追いかけてきた。翼はないのに、ろいろは当たり前のように飛んでいる。

 俺達の周囲をビュンビュン飛び回っているろいろを追いかけていると目が回ってきた。はや。というか、気持ち、嬉しそう…かな? 


「なぁ、ろいろって、なんなの」


 妹なら知っているんじゃないかと、風と翼の音に負けないよう声を張り上げる。

 妹は飛び回るろいろを一瞥した。『生体改造されたドラゴンだろう』「は? せいたい…かいぞう?」せいたいかいぞう。聞き慣れない言葉に困惑する俺に妹の片目がこっちを見下ろす。


『昔の漫画で言えば最終兵器彼女というヤツさ。その失敗作だ。ろいろの頭にまともな思考回路は残っていない。あるのはドラゴンとしての本能だけだ』

「はぁ。…つまり?」

『生物兵器ということだよ』

「生物。兵器……」


 ろいろが、生物兵器?

 確かに、こんなに流暢りゅうちょうに喋る妹とは違い、ろいろは一言も喋ったことがない。

 人間社会にうまく入り込んでドラゴンであるということを隠していた妹とは違い、ろいろは動物みたいに食べるし、眠るし、後先考えずに行動する。転んでも痛みを感じないみたいにけろっとしてた。何を言い聞かせても俺についてくるし、俺のことを見てるか食べ物のことを見てるかのどっちかで、そういうろいろを見て動物みたいだなと思ってた。

 スプーンや歯ブラシを噛み砕いたり、ついさっき、大怪我をしたのに熊を食べたら傷が治っていたりした。その理由がまさか『生物兵器だから』なんて、誰が思いつくだろう。


「ろいろ?」


 呼べば、ビュンビュン飛び回っていたろいろが俺のそばまで飛んできた。朱いドラゴンにぶつからないよう並行して飛びながら、俺に顔を向けて首を傾げてみせる、その瞳がチカチカと人工的な虹色に瞬いている。

 まるきり子供というか、呼べばやってくる犬みたいなろいろが、生物兵器。

 グルグル回る思考の中で、ろいろの角に目がいく。

 左の角の根本に刻まれた『No.014』という人工的な焼印。どこかから逃げてきたのかもしれない。そう思いながら助けた。ろいろが生物兵器だなんてこと露知らずに。


(もしその秘密を知っていたら、俺の取る行動は違っていたろうか?)


 バサリ、と大きな羽音に顔を上げると、光に溢れた街はもう眼下にあり、妹は高山市の上空にいた。


『分かっているね、おにい。あたしは今からゲームの中の悪役のドラゴンのように振る舞う。お兄もそれらしくなさい』

「え? え、うん。ちょっと待った、具体的に俺はどうすればいい?」

『…怖がって、悲鳴を上げればいいんじゃないか?』


 牙を見せて悪い顔で笑った妹が、言うが早いか、大きく息を吸い込んだ。そして、映画でしか聞いたことがないような轟音。そう感じるけたたましい声で長く大きく叫び声を上げた。ビリビリと耳が、いや、からだが揺さぶられる。まるでライヴ会場で増幅されたような音が全身を叩きつける。

 聞いたことがない獣のような声は眼下を走る車を急停止させ、家の窓やマンションの通路に人が出てくる。そして、月を覆うかのようなドラゴンの巨体を空に認めると、あちらこちらで驚きの悲鳴のようなものが上がる。

 そこでなぜか、俺はポーイと放り出された。「え…」一瞬の滞空。そして、容赦のない落下が始まる。「ちょっと待ったあああああぁ」聞いてない聞いてないこの展開は聞いてない! 心の準備ができてない!!

 ぎゃー、と悲鳴を上げる俺を妹が追いかけてきてカパリと大口を開ける。食うため…ではなく、落下する俺の上着を上手に噛むと、そのままドーンとすごい地響きを立てながら市街地の大きな道路の交差点の真ん中に降り立った。ちょうど空いていた空間だ。急停止した車は道の真ん中を避けていたから。

 降り立った朱いドラゴン。そのドラゴンにくわえられた俺。図らずとも、空に投げ出されたせいで俺の顔は恐怖に凍りついていたに違いない。その顔が人には『ドラゴンに捕まって恐怖で怯えている』ような表情に見えたんだろう。グルルル、と低い唸り声を上げたドラゴンが止まっている空の車をガシャンと踏み潰し、長い尾で車を簡単に弾き飛ばし、ビルの外壁に叩きつけた。これも計算されていて、ビルの周辺には人の姿はなく、落下地点にも誰もいない。

 まるでオモチャみたいに車が潰され飛ばされたのを見て我に返る。「た、助けて! 食われる、誰かっ!」下手な芝居ではあったけど、精一杯暴れてドラゴンから逃れようとする人間を演じる。

 ついさっき車がオモチャみたいに吹き飛ばされたこともあり、この場にいる人間の間にあっという間に恐怖が伝染していった。「にげろ、逃げろ!」「ドラゴンだぁ! 食われるぞッ」その声を後押しするように、妹の長い尾が信号機や電柱を次々とへし折り、ホロ映像を映し出す看板を破壊し、人的被害を出さないよう暴れ回る。その姿に人の悲鳴が止まることはなく、人は道路に群れをなし、我先にと他人を押しのけ突き飛ばしながらこの場から遠ざかろうと逃げていく。

 一応。当初の目的である、悪役のドラゴンみたいに振る舞う、って登場は成功したようだ。これで妹がうまく振る舞い続ければ、高山から人はいなくなる。

 急降下して街に降り立った妹を追ってろいろも飛んできた。状況が飲み込めないのだろう、俺と妹を見比べてきょときょと視線を動かしている。

 車のガソリンに着火でもしたのか、ドオン、と爆発音。

 道路沿いの街路樹や整えられた植え込みにも火は広がり、見知った街は、すぐに知らない景色へと変わった。

 踏み潰されひしゃげた車。折れた街路樹。信号機。倒れた電柱。空気を震わせるドラゴンの唸り声。

 これは必要なことだった。

 瘴気しょうきの存在を知らない人々に今すぐここから離れてもらうために一番効率的だった方法。泥を被るのは妹だ。不名誉なこと、面倒なことをやってくれた。感謝こそすれど、それ以外の感情を抱くべきじゃない。

 と、ズン、と歩き始めた妹が適当な車の上に俺を落とした。「いでっ」高さがなくとも痛いものは痛い。


『お兄達はもう行きなさい』

「え? でも、まだ何かできることとか」

『ない。あとはあたしが暴れ回るだけで事足りる。下手に近くにいられる方がやりにくい。ろいろを連れてここを離れなさい』


 何度も言わせるな、と呆れたように瞳を細くして口をへの字に曲げた妹は、もうこちらを見ることなく、それとなく街を破壊しながら逃げた人を追いかけるように歩き始めた。ズン、という揺れが、少しずつ遠くなっていく。

 車の上に座り込んだままの俺のところにろいろが飛んできた。チカチカと瞬く虹色の瞳がこっちを見ている。

 のろのろと手を伸ばしてろいろの黒い体に触れた。

 ちゃんとあたたかい。ちゃんと生きている。それでもろいろは生物兵器らしい。「…人。になって。これ」携帯端末に写真を表示すると、変身にだいぶ慣れてきたろいろは上手に子供の姿になった。ただし服はないので、自分の上着を脱いでろいろに着せる。何もないよりはいい。

 ファスナーを上げようと上着の前を合わせたとき、金具に添えた自分の手が震えていることに気付いた。

 …まぁ。うん。今まで生きてきた中で一番、心臓が爆発しそうだったしな。今頃緊張がきても不思議じゃないというか。そりゃ、誰だって緊張するよ。こんな場面に遭遇したらさ。

 両手で自分の頬を叩く。その動作にろいろがぴょこんと反応する。いや、自分を鼓舞してるだけなのでそんなに凝視しなくてよろしい。


「しっかりしろ、葉山はやまかいり」


 ろいろの面倒をみるんだろう。自分で決めたんだろう。やり通しなさい。

 二、三回屈伸してから車の上から飛び降りる。

 目には見えないけど、瘴気が噴き出し始めたというここから離れないと。

 



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