葉山紅

1.


 妹は何事もなかったかのようにボストンバッグを背負い直すと「もっと上に行きましょ」言うが早いかさっさと歩き出した。「は? ちょっと、待てって」血でべっとりしてるこの服をどうすべきか悩んでたのに。

 捨てていくのも忍びないので、ろいろが着ていた血だらけになった服はビニール袋に入れてしっかり口を縛り、リュックに突っ込んだ。

 ついさっき片腕が取れたろいろ。今はしっかりくっついている手をそっと握って「行こうか」と声をかけ、サンダルをざりざり鳴らして歩くろいろを連れて妹を追う。

 道中、かなりざっくりとではあるが、我が妹(ではなかったらしいんだけど、なんて呼べばいいのかもわからないし、妹ってことにしておく)が現状について説明してくれた。

 昨今になって世界各地で見られるようになった、生命に毒である『瘴気しょうき(仮称)』というもののこと。瘴気を発見したドラゴン達がなんとか手を尽くして解決しようとしたその瘴気に打つ手がなかったこと。

 世界の終わりを予感したドラゴンの一人(この場合一匹、か?)である妹は『面白いことをしよう』と人間社会に入り込んだこと。それがたまたまウチの家で、俺の妹だったこと…。

 妹がざっくり説明している間に地震が起こった。「わっ」すっ転んだろいろを抱き寄せて膝をつく。デカいぞこれ。

 妹は足を止めると眉間に皺を寄せた顔で地面を睨みつけた。「…時間があまりないようね」ぼそっとした声。世界が上げる悲鳴はキンキンと耳の奥を突いて鳴り止まない。「どういう意味だよ」「そのままの意味よ。今の地震で断層がズレて、この街にも瘴気が噴き出した。このままここにいれば毒されるわ」毒、と言われて周囲を見渡す。瘴気の特徴であるという紫色の靄のようなものは見当たらない。まだ視認できないレベルってことだろうか。


「あのさ、これってヤバいんだよな。今の話を聞く感じだと」

「そうね。ヤバいわね」

「お前は瘴気を吸うなって言ってたし、吸わない方がいいわけだよな」

「そうね」

「じゃあさ、今も街にいる奴らは? それに気付いてるか?」


 妹は呆れたような半眼で俺を睨んだ。「あたしは人助けをしてるんじゃないんだけど?」と。その言葉はつまり、街ことなんて知るか、って意味だ。

 この地域の異変を早くから察知していた妹が働きかけて、両親には沖縄に行くよう仕向けた。そしてそのとおりになった。二人は今安全だ。

 空気より重いらしい瘴気は水辺や標高の低い場所から溜まる性質があるという。今現在山道を歩いてさらに上へと向かっている俺達もまだ安全だろう。でも。

 毎週髪の色が変わる八坂やさかというクラスメイトを思い浮かべる。

 教科書を忘れたときに机を寄せて見せてくれた名前も知らない女子生徒を思い浮かべる。

 特別に親しい人間はいないかもしれない。親友とか、彼女とか、そういう人はいない。いないけど。


「俺のことは助けてくれたじゃん」

葉山はやま家は、今までずっと『いないはずの妹』を演じて騙していたわけだからね。この十数年、人として世話になった恩を返しただけ。

 …あたしは人間なんてどうでもいいのよ」


 妹は冷たく言い放って山の方を見上げた。「さっさと上まで行きましょ」と踏み出す背中には取り付く島もない。

 揺れが治まってきた砂利道に膝をついたまま、考えた。

 俺に力はない。

 一昔前の漫画やアニメの主人公みたいな『超能力』も『異能力』も持ち合わせていない。どうしようもなく平凡な人間。むしろ平凡よりも動物馬鹿に拍車をかけたどうしようもないダメ人間。そんな俺が高山に住む人間を救うことはできないだろう。

 俺には人を救うことはできない。

 でも、俺の妹として生きてきたあのドラゴンならできるかもしれない。

 俺は砂利道に額をこすりつけるようにして土下座した。お遊び以外で、記憶のある限り初めての土下座だ。そのまま動かずにいると、しばらくしてザクザクと乱暴に砂利道を歩いて戻ってくる足音。


「どういうつもり、ソレ」


 軽く蹴られたけど頭を下げたままで「熊を一撃で倒したりとか。お前さ、すごい力あるんだろ。助けようと思えば助けられるんだろ? 頼む、後生だ。お前以外に誰もいない。人間を、助けてくれないか」声を絞り出した俺に妹は沈黙した。

 隣でもそもそと動く気配があって視線だけ向けると、ろいろが俺の真似をして土下座していた。と言ってもしゃがみ込んで頭を地面にくっつけてるだけだけど。意味はわかってなさそう。

 妹は苛立ったようにつま先で砂利道を叩いた。「さっきも言ったけど、あたしは人間なんてどうでもいいのよ。人間が生み出した文化に興味があっただけ。あまり調子に乗らないで」ガツ、と頭を蹴られる。痛いけど我慢。


「お前は、人間の社会とか世界に興味があったから、潜り込んだんだろ」

「そうね」

「それってさ、人間のこと嫌いだったらしようとも思わないことだろ」

「まぁ、そうね」

「だったら好きってことだろ」


 我ながら無理矢理な理屈を口にすると、妹は呆れて溜息を吐いたようだった。「父さんも母さんも沖縄よ。街にはいない」「わかってる」「それで、なんであたしが手を貸さないといけないわけ」妹の言葉はきっと正論だろう。義理もない人間を助けるためにドラゴンが力を貸すなんて、馬鹿げてる。きっとそれは正論だ。


「すっげー大事な人はいない。けど。友達、はいる」


 笑った顔を知っている。葉山、と俺を呼ぶ声を知っている。

 たったそれだけでも、そういう人が死ぬような未来を回避できるなら、そうしたい。苦しむ姿を、泣き叫ぶ声を知らずにすむなら、そうしたい。

 友達、と口にした俺を妹は鼻で笑ったようだ。「そんなもののためにあたしに動けというの?」馬鹿げてる、とぼやいた妹はつま先で砂利道を叩く。

 妹のイライラの蓄積値がそろそろヤバそう…と背中にじんわり嫌な汗を感じたとき、ワン、と懐かしい声が聞こえた。気のせいではなく。

 弾かれるようにして顔を上げた俺は、ぼんやりとしたクリーム色の何かを見た。四足で、尻尾があるように見えるその何かは、俺の隣でワンともう一度吠えるとすうっと薄れて消えてしまった。「ゴールド…?」伸ばした手は空を切って何にも触れることはない。

 妹は眉間に皺を寄せてゴールドのように見えた何かがいた場所を睨み……はぁー、と、それはもう深く深く溜息を吐くと、諦めたように肩を竦めた。


「おにいは知らないだろうけど、お兄のことが心配で、ゴールドはずっと彷徨ってたのよ」

「え、」

「俗に言う魂というやつね。ゴールドは残りカスだったその魂の力を振り絞って、今お兄に味方したの。…ゴールドに免じて今回は力になってあげるわ」


 面倒くさそうながらも俺に力を貸すと言った妹に、俺はもう一度クリーム色があった場所に手を伸ばした。何にも触れることはないまま、ゴールドがいた、というその空間を抱きしめる。


(ありがとう、ゴールド。お前は俺の誇りだよ)


 やると決めてからの妹の思考の切り替えは早かった。眉間から皺が消えていつもの不機嫌顔が真面目な顔になる。「高山市の現在の人口はざっと五十万人。この人数を効率的にこの街から逃がすにはどうすれば早いか…」「えー、えーっと」五十万。そう言われても現実味が。

 地面に頭をぶつけたままのろいろを起こしながら、自分の中を整理する。

 瘴気はすでに噴き出している。目に見えないだけで、現在進行系で街の低い場所から溜まっていってるはずだ。時間はない。

 視認できない瘴気の危険性を説いて理解を求め、避難を促す、なんて平和的な方法は取れない。

 でも、それならどうすればいい? 話し合いの時間はない。でも人に動いてもらうためにはどうしたら…。

 さっぱり思いつかない俺とは違い、妹は何かを思いついたらしい。気に入らない、という顔で眉間に皺を刻んでいつもの不機嫌顔を作っている。


「これしかないか」

「なんか思いついたのか」

「まぁね」


 そうぼやいて妹は赤いドラゴンの姿になった。人の四肢が太く力強い鱗の生えたものになり、鋭い爪が地面を抉り、人を丸呑みにできそうな大きな口に、並んだ牙。しなやかな尾と立派な角。風を掴む大きな両翼。

 同じドラゴンでも抱えられるろいろとは違って巨大なからだをしている妹はかなりの迫力だった。映画で出てきたCGのドラゴンも昨今はなかなかの迫力だったけど、比べ物にならない。

 ドラゴンが現実に、圧倒的な存在感を伴って眼の前にいて、上からこっちを見下ろしている。あかく輝く瞳は炎が燃えているように眩い。

 ろいろは抱えられるくらいに小さいし、ツルッとしたあどけない顔立ちをしてる。対して妹は見上げるほどにはデカく、ドラゴンと聞けば思い浮かべる特徴を兼ね備えていて、なんていうか、ドラゴン。まさしくドラゴンだ。うん。


『これから街に行く』

「え。その、ドラゴンの姿で?」

『そう。この姿のあたしがゲームの中の悪役ドラゴンのように振る舞えば、どうなると思う?』

「えー、っと」


 ドラゴンの個体能力が高いことは誰でも知っている。空を飛んだり、炎を吐いたり。牛を掴んで飛び去ったり。そういった映像はドラゴンが認知されてからというもの繰り返し報道されていた。日本ではまだ事例がないけど、海外ではドラゴンに襲われた町や人の話も聞く。そうでなくても本の中や画面の向こうの空想上のドラゴンとして、人の中にはドラゴンに対しての知識や先入観が少なからずある。

 そんなドラゴンが街で暴れ回ったら? 炎を吐いたり建物を壊したりしたら? まず、人は我先に逃げようとするだろう。

 なるほど。そうやって街中でわざと暴れ回って多くの人を避難させようっていう作戦か。さすが我が妹。ドラゴンの妹だからこそできることだ。

 五十万もの人数を効率的に逃がすためには、避難しろというより、目に見える危険があるから逃げろと言った方が早いだろう。瘴気がうんちゃら~なんて説明より『凶暴なドラゴンが現れたぞ、逃げろ!』の方が単純で明快、考える暇もない。暴れ回るドラゴンを見た瞬間みんな事態を把握して街から逃げようと思うはず。


「でも、それじゃ、お前一人が悪者じゃんか」


 唯一の問題点を指摘すると、ふん、と鼻で笑われた。鼻息がぶわっと頭からかかった。なんか熱い。『誰だった? 助けてくれと頭を下げたのは』「俺です…」『そうだろうね。文句を言われる筋合いはない』そうですか。お前がいいなら、まぁ、いいけどさ。

 ということで、作戦は決定。

 妹は問答無用で俺を掴むと(爪が刺さるかと思ってヒヤッとした)、夜の空へと舞い上がった。



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