7.


「久しいわね、応龍おうりゅう。相変わらず腑抜けた顔」

「お主は相変わらず、毒舌じゃのぅ。久しぶりに友龍に会ったというのに、開口一番それとはの~」

「あたしはあんたを知龍としか見てないわよ。勝手に友達とかにしないで」

「ツレナイのぅ…」

「で? 見立てはどうなのよ。が何か、あんたには解ったの」

「年寄りを馬鹿にするでないぞー。長生きな儂の勘では、ズバリ! 『瘴気しょうき』、じゃ」


 緩やかに世界を蝕んでいくその毒を、知人ならぬ知龍は『瘴気』と表現した。

 瘴気とは、古代からある種の病気を引き起こすと考えられていた気体、または物質のことだ。

 昔はマラリアのような病も瘴気によって起こると考えられていた。

 今では原因も治療法も予防法も確立されている病の多くは、百年や二百年前には未知の病であり、そういったものはすべて『瘴気によるもの』で無理矢理片付けられていたのだ。

 瘴気とは『不純物』『汚染』『穢れ』などの『悪いもの』によって発生するのだ、と昔の人間は考えたらしい。『呪い』や『祟り』とされるよりはいくらか現実的な考え方ではある。

 やがて科学の進歩によってマラリアもコレラも感染症に分類され、19世紀頃には『瘴気』によると考えられていた病は別のものが原因だったと証明された。インフルエンザはウイルスによって引き起こされる急性感染症。ハンセン病はらい菌の皮膚のマクロファージ内寄生及び末梢神経細胞内寄生によって起こる感染症…。

 22世紀にもなった現代では『瘴気』なんてものは漫画やアニメ、映画の中でしか見聞きしない言葉だった。誰もが眉を顰めても何も不思議はない、およそ現実味のない言葉。


「……聞き間違いじゃなければ、瘴気、と言った?」

「うむ。言ったぞ」

「今が何世紀か知ってる? 22世紀よ。そんな言葉はとっくの昔に死んだわ」

「しかしなぁ、お主の話を聞くに、そうとしか思えんのだよなぁ。長くを生きた儂でも瘴気以外にピッタリとくる言葉を思いつかんのだ」


 ある濃度に達すれば薄い紫色になって視認できるその物質を、知龍は『瘴気』と表現した。

 世界の最初に瘴気が発生したのは、密林のそのまた奥地、人の寄りつかない小さな村からだった。

 補足しておくと、この表記は正しくないかもしれない。我々が認知できなかっただけで瘴気は発生していたのかもしれない。が、我々がソレを認識したのはここからなので、便宜上、ここから瘴気の歴史は始まった、ということにしておこう。

 長くを生きた知龍でも心当たりがないというこの現象は、やがて色濃くなり、小さな村は紫の靄に包まれた。やがて数ヶ月で小さな子供が死に絶えた。さらに観察を続けた結果、次に老人や体力のない者、体格の小さな者が。最後に残ったのは大の男で、それでも何年ともたずに死亡した。

 空気より重いのか、低いところに溜まる性質のあるらしいソレは、まず水を腐らせた。腐った水を吸った草木は死に、腐った水に触れている大地も徐々に死んでいった。

 紫の靄で満ちたその場所の家屋はやがて腐敗し崩れ落ち、草木も家畜の動物もすべて死体ばかりとなって朽ち果て、小さな村は滅んだ。

 瘴気が生命にとって明確な毒であることは確固とした事実となった。

 それなりの時間を生きてきた知龍が『瘴気』と呼んだこの現象に、できることはなかった。

 生命力の高いドラゴンでさえその空気に触れ続けていると調子が悪くなった。

 燃やせはしないか、浄化はできないか、と炎を操るあたしも手を尽くしたが、紫の靄に対して有効と認められることはできなかった。


「あんたの知龍の年寄りどもは何してるのよ。無駄に長生きばかりして。自分達の智慧を活かそうともしないの」

「話は何度もしてみたんじゃがな…。もう翼が萎えて飛ぶこともできんから、その場所へも行けん、と、そんなことしか言わんのじゃ」

「…老害ね。殺したくなるわ、そういう年寄りは」


 あたしを含め、知能のあるドラゴンの多くは、自分達に、世界に時間がないことを知った。

 今は山奥の山村に留まっている瘴気も、またどこから現れるとも限らない。

 世界は不変などではない。そんな当たり前のことを、あまりにも当然のように訪れる明日を享受する日々の合間に忘却していた。 

 いつか、どんな形でも、どんなものにでも、終わりは訪れる。この世界も例外ではない。

 それでも、この終わりの形、この現実に、あたしも知龍も誰一人としていい顔をすることはできなかった。

 そうあることが自然なように、湧き水はやがて細い川になり、その面積を広げ、海へと繋がっていくのだ。

 瘴気はこの世界を覆うだろう。

 近い未来、この星は腐って爛れた大地と海だけが存在する死の星となる。

 世界に時間がないことを知ったあたしは、最初で最後の娯楽として、人間の社会に首を突っ込んでみることに決めた。それはなぜか? それが、終わりに向かう世界の中にあって唯一面白そうなことだったからだ。

 知龍が人間好きで、人間の話を耳にすることが多かったせいだろうか。あたしは毛嫌いするほど人間が嫌いというわけではなかった。良いドラゴンと悪いドラゴンがいるように、良い人間と悪い人間がいるという分別くらいはあった。

 これが最後ならば、多少の無礼は許してもらおう。人間がドラゴンに働いている生体改造という無礼に比べればいくらにもなるまいと、あたしは一つの家族に的を絞り、いるはずのない『妹』として葉山の姓を頂戴した。

 簡単に言うと、その家族の脳に強い暗示をかけて洗脳した。そうしてあたしは葉山という家族の中に妹として自分を存在させることにした。

 『父』はどこか天然の入った人で、仕事面以外は抜けている人物であったが、不思議と憎めない人だった。

 『母』は抜けている父の分まで気を遣う人で、毎日の家事をしっかりとこなし、自分のお小遣いはパートで稼ぎ、主婦仲間とランチをしたりするできた人だった。

 そして『兄』ことかいりは、ペットのゴールデンレトリバー『ゴールド』を溺愛する動物馬鹿だった。

 この三人は問題なくあたしを妹だと思い込ませることができたけど、ゴールドが難しかった。知性よりも本能で動く動物故なのか、暗示が上手くいかず、よくあたしのことを『お前は誰だ』という目で見てきたものだ。

 結局ゴールドとの接触を極力避けることでしか暗示が解ける可能性を回避できなかった。家族にはあたしが動物嫌いのように映っていただろうけど、仕方のないことだ。

 悩みの種だったペット、いや、家族の一員のゴールドは、一ヶ月前に老衰のため逝った。

 これで自由に動けると思う反面、そう思ってしまうことに僅かながらの罪悪感もあり、今までずっとあたしが『妹である』という暗示に強い反発を示し続けたゴールドに、最後の謝辞として、その最期におにいの意識を揺さぶり起こした。 

 ゴールドは最期までお兄を慕い、自分がいなくなったあとのお兄を心配しながら眠りについた。だからあたしは、騙し続けたゴールドへの手向けとして、彼の代わりにお兄を気にかけることにした。

 改めて言うまでもないけど、お兄の動物馬鹿ぐあいと言ったらない。それが頭から本気だから余計に救いようがない。なんとか矯正しようとしたけど、その馬鹿さは生体改造されたドラゴンを拾ってきた今現在も変わっていない。

 お兄は根っからの動物馬鹿であり、動物博愛主義者であり、それがドラゴンだろうとその姿勢は変わらないのだ。

 まったく、本当に、馬鹿な人だ。ゴールドが心配するわけだ。

 その想いを人に向ければ、幸せに、ありふれた生を送れたっていうのに。



 あたしの言葉を理解できなかったらしいお兄が金髪の頭を抱え込んだ。「えー、ちょっと待って。うまく意味が…」お兄の声にザザザ、と音が混ざる。それなりの大きさのものが草花を踏みつけ茂みを鳴らしながら移動する音。ドラゴンのあたしだから早くに聞き分けることのできる音。

 思考力がないろいろは本能で敵意と殺意を感じ取ってぴょこんと顔を上げた。つまりこれはということだ。

 瘴気の噴出で興奮しきった動物が、この場合熊が、茂みを飛び出し頭を抱えて小さくなっているお兄へ襲いかかる。

 ろいろの力を見るいい機会でもあったけど、もしろいろが何もしなかった場合なんかを考えるのが面倒で、あたしは自分の尾っぽで熊を砂利道ごと叩き潰した。

 人間にあるはずのない赤い尾を生やしたあたしと潰れた熊。二つを交互に見るお兄は阿呆みたいな顔をしている。


「お前は、俺の、妹。だよな?」


 お兄の声にあたしは笑った。笑ってやった。「ドラゴンの妹に憶えでも?」「…でも、俺には妹がいる」なんとか現実についてこようとしているお兄をあたしは笑う。本当にこの人は馬鹿だな。悲鳴を上げて逃げ出してもいい場面なのに。


「それは気のせいだよ。あたしがそう思うように仕向けただけで、お兄に妹は存在しない」

「でも、お前が」

「妹の名前を言ってごらん」

「え? えーっと」


 そこで初めてお兄はその事実に気付いたらしい。「あれ、名前? 名前……」金髪頭を抱えて考えた挙句、あたしの、妹の名前が思い当たらず、呆然とした面持ちでこちらを見上げてくる。

 あたしの、妹の名前なんて、呼べるはずがないのだ。もともとのだから。存在しないものを呼べるはずもない。


「妹じゃ、ない…?」

「そう。妹じゃない」


 尾を見せてしまった。いい機会だ。ここでお兄の動物馬鹿を今度こそ矯正してやろう。

 あたしは腕を伸ばした。少女の形の腕が見る間に太くなり、爪が生え、ズン、と地面を踏みつける。前かがみになったあたしの背中を突き破るようにして翼が生え、尾が生え、両足も太くたくましいものになり、鋭い爪が地面を抉る。

 本来の姿である赤いドラゴンに戻ったあたしは両翼を可能な限り広げて伸ばした。しばらくたたみっぱなしで、なかなかに凝っている。

 あたしが翼を動かせば風が起こって砂利道の砂塵が舞い上がった。

 お兄は目の前の光景を、人からドラゴンになったあたしを呆然と見上げているが…その顔に拒絶の色はない。恐怖の色はない。

 まったく、感心してしまうほどの動物馬鹿だ。熊を一撃で叩き殺したあたしを恐れてもいい場面なのに。

 少しお兄を脅かしてやろうと、あたしはお兄の眼前まで顔を近づけた。かぱ、と口を開いて長い舌をチラチラさせる。


『食べようと思えばお兄を食べることもできるんだよ』

「…だけど、しないだろ」

『何故そう思う?』

「なんていうか。お前は、しないよ」


 まさか、仮初の家族ごっこをしていただけのあたしに情なんてものを求めているのだろうか。くだらない。あたしが大口を開ければお兄を飲み込むことなど容易い。少し怖い目に合えば思い知るだろう。

 食らいついてやろうとしたあたしに、お兄の前に立って両腕を広げたのはろいろだった。その行動を予測していなかったあたしはうっかりその細い腕を食いちぎってしまったが、ろいろは声一つ出さず、その場から動きもしない。「う、腕…ろいろうでっ」お兄だけが落ちた腕を拾って慌てている。

 無表情に、けれど譲る気のないろいろの瞳は爛々と輝いている。半分以上が機械でできたからだ故の虹色の瞳はひたすらまっすぐあたしを見つめている。

 馬鹿らしくなって、あたしは人の姿に戻った。こんな子供を虐める趣味はない。

 仕方ないので潰れた熊のところまで行ってその巨体を掴み、引きずっていく。「ろ、ろいろ、腕が…どうしよう……」なぜか泣きそうになっている兄に呆れながら熊の死体をろいろの前に転がした。敵意や殺意。それらがあたしから消えたことを悟ると、取れた腕をくっつけるため、ろいろは迷うことなく熊の死体にかじりついた。

 生体改造されたろいろは受けた傷を自分で回復することができる。この死体はそのためのエネルギーだ。


「腕、ついてた位置にくっつけて持ってなさい。そのうち治るわ」

「え? こ、こう?」

「そ。そこでじっとしてなさい」


 鮮血を撒き散らしながらひたすらがっついて熊を平らげていくろいろに、お兄は顔面蒼白だ。

 滴る赤。むせ返る鉄錆のにおい。骨と肉が引きちぎられる音。

 やわらかい部分を選んだ食べたのだろう、熊の大部分を残してろいろは顔を上げた。べっとりと赤い色で汚れた幼い顔にお兄がぎゅっと目を閉じる。

 再び瞳が覗くまで、その時間は五秒。その間にお兄の中でどんな結論が出たのか。

 お兄はまずそっと手を離した。ろいろの腕は問題なく自己修復され、もとあった場所にくっついていた。「痛くない…?」慎重に手を握ったり腕を触ったりして感触や反応を確かめたお兄は、ほ、と息を吐いた。そして、笑った。引きつった笑顔でも、お兄は笑うことを選んだ。…笑うことを選んだのだ。

 この人はどうしようもない馬鹿だ。大馬鹿野郎だ。

 凄惨な殺人現場の如く血の赤とその臭いに満ちる場所で、笑うこと。いじらしくいじましく信じること。「ほら、顔見せて。きれいにしよ」ポケットからしわくちゃのハンカチを出してろいろの顔を拭っている、その姿。

 熊を一撃で殺したあたしと、熊を食らって傷を回復させたろいろ。お兄はどちらも否定しなかった。


「…そんなことではすぐに死んでしまうよ」


 唸るようにこぼしたあたしにも、お兄は笑ってみせた。笑おうとして失敗したその顔はそれでも笑うことを選んでいる。「そーかも」「そうよ。間違いなく早死するタイプ」お兄は人間。あたしとろいろはドラゴン。あたし達の間には深く広い渓谷があり、無防備に飛び出そうものなら奈落へと真っ逆さま。その背に翼がない限り向こう岸へは行けない。そう思い知らせてもお兄は崖際で踏みとどまり、手を伸ばし、無謀にも一歩踏み出すことを選んだ。落ちるとわかっていても踏み出した。

 あたしは飛べる。ろいろも飛べる。その体をすくい上げるだけで、彼の望みは叶うだろう。ほんの少しの労力で、葉山かいりという人間は助かる。


(……馬鹿馬鹿しい。我ながら)


 あたしは自分に呆れながら、水筒の水で濡らしたハンカチでろいろの顔を拭っているお兄を眺めた。血で汚れた服もちゃっかり着替えさせている。…この動物馬鹿は生涯治りそうにない。


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