6.
それまで膝の上で大人しくしていたろいろが身動ぎした。「どした」と顔を離せばぴょんと俺の膝から飛び降り、とたとたと窓の方に寄っていく。
ろいろが見つめる窓の向こうはといえば、夜の景色があるだけで特別なものは何もない。そういえばさっきもこんなふうに外を見てたな。
そばに行ってろいろの目線に合わせてしゃがみ込んで同じように外を見てみる。
…うん、なんも見えん。人間に夜目はないので明るいこちらから暗い世界はよく見えない。
と、それまで音を垂れ流していたテレビの画面がブツッと消えた。振り返ればソファを立った妹がボストンバッグを掴んで肩に引っかけている。
「お
「は? 避難勧告とか出てないんだろ?」
「いいから」
自分の端末で高山市のホームページを開いてみる。やっぱり変化はない。テレビの速報テロップの音もしなかった。状況は何も変わってない。
困惑する俺をじろりと睨んだ妹はイラついたように靴下のつま先で床を叩いている。
「あたしはお兄より成績がいい。勘もいい。黙ってついてこい」
…命令口調ときた。こういう妹はもう言い返すだけ無駄だ。「はいはい…」大人しく防災リュックを後ろに、自分の荷物が入っている通学鞄のリュックを前に背負い、ろいろの手を引いて玄関へ。ろいろにピンクのサンダルを履かせ、自分はいつものスニーカーに足を突っ込む。
一歩、外に出て、肌を撫でた夜の空気に違和感を感じて足を止めた。
なんだ。なんか、粘っこい。湿気でこもってる感じにも似てる…。
自然と服の袖で鼻を覆った俺にマスクが二つ突き出された。背後で家の扉を施錠していた妹はすでに装着済みだ。ろいろと俺の分らしい。「あんまり吸わないで。これして」言われるままマスクをしてろいろにもつけてやる。顔にピッタリとくっつくようなカラスマスクだ。息苦しいし暑苦しい。けどさっきみたいな空気の気持ち悪さは緩和された気がする。
妹はさっさと歩き始めたので、ろいろの手を引いてあとに続いた。
歩きながらご近所を窺ってみる。
普段ならこの時間電気が落ちてるだろう家々を含め、ほぼすべての窓に灯りがあるところを見るに、みんなさっきの異常音を気にしてテレビやネットで情報収集をしているのだろう。
夜道には人影はなく、車も自転車も通らない。
いつもならありえないような静寂に浮かぶのは、自分の呼吸と足音、先を行く妹の足音と、手を繋いでいるろいろの温度とサンダルのペタペタという足音だけ。
リュックを二つ背負っていると当然歩きにくく、少し足を止めて背負直していたら「お兄」と俺を急かす妹の声。
デカいボストンバッグを抱えてるくせに妹の足取りは軽く、どんどん先へ進んでいく。
振り返りもしないくせに声だけは俺のことを急かす。早くしろ、歩け、と。
はいはい、と首を竦めて気持ち大股で妹の背中を追う。ろいろはペタペタ、パタパタ、と俺の隣を歩いたり軽く走ったりしてついてくる。
ろいろの様子を気にかけながらアスファルトを蹴っていたことと、何を疑うでもなく妹についていった俺は、周囲に人家が少なくなってきた頃にようやく気がついた。妹が市が指定している避難所へなど向かっていないということに。
夜道で暗かったせいもあってここに来るまで気付かなかったけど、こっちは山道に出る道だ。その昔、観光地として栄えていた、緑と川とお金のある人間の別荘があるだけの場所へと続く、わりと険しい道。
「なぁ、こっちって山道だろ? 避難所とかあっちじゃん」
いつの間にか背にしていた見慣れた光の群れの街を指す俺に、妹は足を止めることも振り返ることもなく暗い道へと入っていく。
おい、止まれよ。聞こえてるくせに。
あーもー、とガシガシ髪をかき回す。
そりゃあオタクでかわいくもない妹だけど、あんなでも一応女だし、妹なわけだし。夜の山道を一人で行かせるわけにはと兄貴として思うわけで。
山道に入れば途端に灯りの数も減る。妹の姿を見失わないうちに追いつくしかない。
「ろいろ、行くよ」
じゃり、と靴の底で砂を踏みつける感触を味わいながら、もたつくろいろの手を引いて妹を追う。
ボストンバッグを担いでどこまで先に行ったのか、妹の姿は見つからない。
(普段通ることなんてない山道で、しかも夜なんだぞ。ついでに今は非常事態っぽいんだぞ。もうちょっと女らしく怖がるとかかわいいことしろよ。いや、そんな妹ちょっと想像できないけどさ)
早足で砂利道の斜面を歩き、何度かろいろに転ばれかけ、さらに歩きに歩いて、ちょっとしたスペースに出た。車がすれ違うときのためか、少し道幅のある場所だった。ここまで迷わなかったのは砂利道がまっすぐ一本だったからだろう。
開けたそこは森を支配する夜闇に覆われることなく、空には光る月が出ていた。
妹はそこに佇んでいた。
限界、と息苦しいマスクを外すと、山の中にいるせいか、冷えた清涼な空気が肺に沁みた。ろいろのマスクも外す。「苦しかったろ」と声をかけたところで丸い瞳に見上げられるだけで返事はない。
リュック二つをどさっと砂利の地面に下ろし、凝った肩をぐるぐるさせつつ「で? こんなとこ来てどうするんだ」と問いかける声を投げる。
ようやくこっちを振り返った妹の赤い髪がざわりと吹いた風に揺れていた。
「ここなら安全なのよ」
「はぁ? こんな山の中が安全…? 今にもイノシシとか出そうだけど…」
いくらこの高山が都市化したとはいっても、着手されていない場所には自然が残ったままだ。この辺りはとくにそう。クマはさすがにいないはずだけど、イノシシやタヌキはいるだろう。夜の闇に沈んでいる森の木々の間から何かが飛び出してきたとしても不思議はない。
動物好きな俺だけどイノシシの牙とかクマの凶暴さは勘弁したい。ドラゴンを拾った俺でも猛獣はちょっと。
リュックを掴んでそれとなく木々が落とす影から遠ざかり、月明かりの守護がある空間の真ん中まで後退る。
夜の山の中とか、これは俺でなくたってたいていの奴が遠慮したいシチュエーションのはずだ。俺が弱虫とか怖がりってわけではないはず。うん。そう思いたい。
妹は滑落防止のためのガードレールに腰かけ、いつもの不機嫌顔とは少し違う、つまらなそうな顔でこっちを眺めていた。
この前代未聞の状況に慌てる様子もなく、困惑するわけでもなく、すべきことをテキパキと指示して行動する妹。
事前にマスクを用意し、夜の山に入り、ここなら安全だと言い切った妹。
こいつは俺が知らない何かを知っているんだろうか…?
「お前、何か知ってるのか? あの変な音の正体、とか」
しかし、性格の悪い妹のことだから、知っていても答えないという可能性は充分にあった。
俺はあまり期待せずに訊ねた。妹は俺とろいろを一瞥し、退屈だ、という顔をすっと無にする。
眉間にはいつもの皺。
が、いつもの不機嫌顔をした妹の目は、いつもと違って
「正体、ね。そうね、そうとも言えるかもしれない。知ってるわ」
そうして妹は実にさらっとした口調でそう答えた。
月明かりの下、ガードレールに腰かけてこちらを見ている妹の瞳は見慣れない朱に染まり、光り輝く。
カラコン、とかじゃないよな。今カラコンする意味わからないしな。
ざわり、と吹いた風が山の冷たい空気を運び、髪を揺らした。妹の長い髪はまるで生き物みたいに風に泳いでいる。
「お兄は知りたいの? あの音の正体が」
「そりゃあ…まぁ」
「そう。じゃあ教えてあげる。
アレは、ある意味では世界の終わりの音ね。終わりの始まりというやつかしら」
「…はい?」
その言葉の意味が理解できずに素っ頓狂な声を上げた俺に、妹はいつもの不機嫌顔で、輝く瞳を細くした。「馬鹿なお兄、よく聴きなさい」ガードレールを蹴飛ばしてこちらに歩いてくる妹の瞳は相変わらず朱く輝いて、まるで、炎が燃え盛っているようだ。
「今日で日常は崩壊するわ。
日本だけじゃない。世界のあらゆるところが変わるでしょう。陸も、海も、空も。生きる者全てが同じ危機に晒される。
誰が望んだのか……世界は、壊れるの」
最後の一言だけ口の端を歪めてそうこぼした妹は、気に入らない、というように鼻を鳴らした。
俺はといえば、妹の言葉についていけず、その意味も理解できず、ポカンとしていた。
日常。
崩壊。
世界のあらゆるところが変わる。
生きる者全てが同じ危機に。
陸も、
海も、
空も。
世界が、
壊れる。
世界が鳴った。悲鳴を上げた。やめてくれと、誰かに訴えるように。
内側から裂けたその音は、確かに、この耳にも。
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