5.


(なんだ? 地鳴り…? じゃない?)


 キーン、とまだ耳に残る音に軽く頭を振ってから端末を掴んでとあるサイトを呼び出す。昔でいう『2ちゃんねる』のような役割をしている情報共有サイトにはさっそく新しいスレッドがいくつも立ち上がっていた。今の尋常じゃない音について、あーだこーだと憶測が飛び交っている。

 少しの間リアルタイムで流れていくスレッドを目で追ってみたけど、有益そうな情報はなかった。『北朝鮮の新型ミサイル』『いよいよドラゴンが攻撃してきたに違いない』『やっぱり地震じゃないか?』…。

 フー、と外に向かって動物的に唸っているろいろの前でひらひらと手を振ると、瞳は相変わらずチカチカ瞬いてるけどこっちに目は向けられるので、俺のことがわからないほど興奮してるってわけじゃなさそうだ。

 えーと、こういう非常事態のときは。そう、家族の安否確認。まずは隣の部屋の妹。それから両親。

 ドアを開け放って隣の部屋のドアを叩く。「おい、大丈夫か」声をかけるとガチャッとドアが開いた。いつもと同じように眉間に皺を刻んで不機嫌そうな妹がPC用の眼鏡を外しながら俺を見上げる。


「だいじょーぶよ。おにいこそ」

「なんともない。すげー頭に響く音だったけど……俺、母さん達に電話するわ」

「いらないよ。あたしがした」

「は、もう?」


 コールしかけた俺にしれっとそう言ってのける妹はやはり抜け目ない。「向こうはなんともないみたい。自分達のことを気をつけなさいって言ってた」「そっか…」さすが我が妹。兄の俺より頼りになる。

 妹が手にしていた自分の端末を俺の顔に突きつけてきた。画面へと焦点を合わせると、市のホームページのようだった。まだ避難勧告のようなものは出ていない。


「まだ何もないけど、避難の準備だけでもしておきましょ。和室の押入れに何かあったときのための防災セットのリュックがあったでしょ」

「おお」


 すっかりその存在を忘れていた俺が手を叩くと妹に呆れ顔をされた。

 いざ避難しろ、となった場合着替えも少しはあった方がいいという妹の助言に従い、一度部屋に戻る。ろいろを人の姿にしないと。

 そのろいろはドラゴンの姿でまだ窓の向こうをじっと見つめていた。相変わらず瞳がチカチカ光っている。


「ろいろ、これ。これになって」


 携帯の画面に幼い日の妹が映っている写真を表示させて目の前に持っていく。

 ろいろは首を傾げて俺が掲げた画面を見つめたあと、変身した。にょきにょきと伸びた手足が人の形になり、からだが黒い鱗の肌から人間の肌色のそれに変わる。

 首から上だけドラゴン、という姿に俺はがくっと肩を落とす。「顔、顔も頑張って。頼む」通学に使ってるリュックの中身をすべてベッドにぶちまけ、適当に着替えを突っ込みながらろいろに人の姿になるよう言い聞かせること十分。やっと人の姿になったろいろに服を着せ、リュックを肩に引っ掛けた。「おいで」と手を出すと手を伸ばしてくるろいろを連れて部屋を出ようとして、足を止めた。ベッドまで戻ってデジタルフォトフレームを掴んでパーカーのポケットに無理矢理押し込む。

 和室で妹と合流し、押入れの奥で眠っていた防災リュックを引っぱりだす。これに適当に冷蔵庫のもの、日持ちしそうな缶詰なども突っ込んでおく。

 リビングのソファには防災リュックが一つ。俺の財布やら着替えやらが入ってるリュックが一つ。そして、妹のどでかいボストンバッグが一つ。…軽く俺の二倍はあるぞ。何が入ってるんだこれ……。

 それは置いておくとして。

 情報。テレビで何か発表されてたりとかは。

 テレビをつけてチャンネルを一通り回してみたものの、速報テロップ、災害情報、のようなものはどの局でも流していない。いつもと変わらない適当な番組がやってるだけ。

 首を捻ってテレビのチャンネルを変えまくる俺に「まぁ落ち着けお兄」とぼやいた妹がフローリングの床にボストンバッグを下ろし、ぼすっとソファに座った。「避難指示が出てもすぐ出れる準備はしたんだから、はい、座る」妹は普段と同じ、眉間に少し皺を刻んだ顔で携帯端末を眺め出した。…我が妹は肝が座ってるというか。何事も慌てないというか。


「お前、マイペースだな…」

「それお兄に言われたくないわぁ」


 チラリとろいろに寄せられた視線に気付かないフリをしつつ、ソファを陣取っているリュック二つを床に下ろしてソファに腰掛け、ろいろを抱き上げて膝に乗せる。相変わらず重い…。

 テレビ画面には昔にヒットしたというドラマの再放送が流れていて、今はもうなくなった東京タワーを背景に語らう男女の姿が映っている。

 世界全体が効率化を図り、街がビル群と化してから、こういった手のものはとんと見なくなった。

 かつてはたくさんの自然と伝統的建造物群が立ち並ぶ通りがたくさんあったこの飛騨高山も、今では一握りの自然林保護区と歴史保護区があるだけで、どこもかしこもビルが突き立つ風情の欠片もない街になっている。

 効率化。それを図ったことで街自体は利便性が向上し、活気に溢れることになったけど、こうなってからは少ない保護区域を訪れる外国人の数は減る一方だ。かつての面影はときと共に風化し失われつつある。

 世界は変わっていく。いつの時代でも。俺達の生きる現在いまでも。


(あの音……なんだったのかな)


 まるで、耳を、頭を突き刺す鋭い悲鳴のようだった。

 ついさっきの出来事を思い起こしつつ、重たいろいろの頭に顎を預ける。

 悲鳴。世界の、悲鳴。そんなものがあるとしたら。それがアレだとしたら。

 何も変わりなく過ぎていくように感じていた日々が、当たり前のようにやって来ていた明日が、実はギリギリの綱渡りで続いていた奇跡の日々で。それが崩壊し奈落へ落ちた音だとしたら。奇跡の日々の、奇跡の世界の、悲鳴、だとしたら。


「お兄にさ、いておきたいことがあるんだけど」

「、あ? 何」


 思考に耽っていたところから顔を上げて妹の方を見る。妹はどうでもよさそうにかつてヒットしたドラマを眺めながら長い赤髪を頭の上の方で一つにくくっている最中だ。「お兄はさ、なんでそんなに動物馬鹿なの?」…真面目な顔と真面目な声を作って何を言うかと思えばそれか。

 ひっそりと息を吐いてろいろの頭に顎を乗せ直してテレビを眺める。画面にはもう東京タワーは映っていない。


「知らねぇし。つか、それ今更だろ」

「そ、今更。だからこそ言いたいわけ。

 動物は人間じゃないんだよ。どうやっても同じ時間は過ごせない。事実、ゴールドはお兄を置いて逝ったよ」


 置いて逝った、の言葉に部屋の中を走り回るかつてのゴールドを幻視して、ぎゅっと目を閉じた。

 そうだな。置いていった。置いて逝った。

 それは悲しいことだった。辛いことだった。

 世界からゴールドが失われたことが、自分からもゴールドが失われたことのように思えて、悲しくて、苦しくて、辛かった。

 いつも一緒にいた。友達と遊ぶよりもゴールドと遊ぶことが好きだった。馬鹿みたいにはしゃいで駆け回って芝生の上を転げ回った。

 ゴールドとの間に通じる共通の言葉がなくても、

 心で、

 通じている気がしていた。

 そんなゴールドが世界から失われたことは今もまだ悲しい。もうゴールドには会えない。思い出を振り返ることでしかあいつに会うことができない。もうあいつに触れられない。赤い舌で顔をベロベロに舐められることもない。ワン、と吠える声を聞くことも二度とない。

 …だけど。だからって、俺はゴールドを忘れようなんて思ったことは一度だってない。

 ゴールドにもう会えないことは悲しいけど、だから忘れよう、なんて思ったことはないんだ。

 ゴールドは確かに俺を置いていって、

 そこには悲しみや寂しさもたくさんあったけど、

 それ以上に、ゴールドと過ごした時間の眩しさと、一緒に作った思い出達が、輝いているんだから。忘れるなんて、できるわけがない。


「人間だって、同じだろ。人によって寿命は違うし…事故とか、病気で死ぬ可能性だってある。人間だから同じ時間を過ごせるってわけじゃない」

「そうね。でも、相手が動物だったら、『絶対に同じ時間は過ごせない』って仮定ができる」


 いやに否定的な妹にちょっとイラッときた。ゴールドのことといいお前はドライすぎる。生き物に対してもうちょっと愛情とか持てよ。

 睨んでやると、妹は肩を竦めてリモコンを手にテレビのチャンネルを切り替えていく。そして、しみじみとこう言った。


「お兄、あたしはね、心配してんのよ」

「何を」

「お兄を」


 は? と顔を顰めた俺に妹は軽く溜息を吐いた。バラエティ番組の再放送でボタンを押す手を止めてリモコンを置く。


「別に、お兄が動物馬鹿で生きたっていいのよ。でもね、それは辛い道だと思う。

 だって動物に言葉は通じないのよ? お兄の考えてることがそのまま伝わる、なんてありえないし、何より、どれだけ通じ合ったと思っても、相手は結局お兄を置いていく」

「…だから?」

「だから、お兄の心はいつも置いていかれる。置いていったものに心を引きずられて、ずるずる地面を這って、気付かないうちに傷だらけになって……このままそんなことを続けてたら、お兄はさ、いつか立てなくなるよ」


 断言した妹が二つの目でじっと俺を見つめてくる。いつになく真剣な眼差しだ。いつもの不機嫌顔とも違う。「だからお兄。人を好きになりなよ。それがいいよ。動物じゃなくて人間を好きになるの。それがお兄のためだよ」と言ってくる妹に、テレビから場違いな笑い声が響く。

 茶化してるわけでも、馬鹿にしてるわけでも、見下してるわけでもない。

 それがわかって、俺はなんとも言えない苦い思いで妹から視線を逃した。中身のないテレビに目を向けてろいろの墨色の髪を指で梳く。


(そうだな。同じ人を好きになれたら、どんなに)


 別に、人が嫌いってわけじゃない。けど、彼女ができたとか、親友がいるとか、そうやって大きく出られるほど好きな奴がいるわけでもない。

 思い返してみても、頭の中に浮かぶのはゴールドと過ごした日々と、最近じゃろいろのことばかりだ。

 致命的な動物馬鹿。

 このまま生きていけば、妹の言うように、先に逝ってしまうものに心を引きずられて傷つくのかもしれない。輝く思い出達よりもう触れることのできないぬくもりに涙を流すのかもしれない。そうやっていつか、立てなくなる日が来るのかもしれない。

 それでも。



 まるで人間の笑顔みたいにふやけた顔をしているゴールドがワン、と吠えて尻尾を振る。

 一緒に芝生を転げ回った。

 河原を走り回った。

 朝起きてから夜眠るまで、いつでも一緒だった。


 ぷすー、と寝息を立てて寝入っている黒いドラゴンがいる。

 歯ブラシを噛み砕いたり、ビビンバの皿に顔を突っ込んだり、風呂場で俺の手から逃げ回ったり。

 世話の焼けるドラゴンは虹色に瞬く瞳でこっちを見ている。


 たとえ、いつか、きらめく思い出達に殺される日がくるのだとしても。


「…それでもいいよ」


 いつか、思い出が傷になって俺を抉るのだとしても。俺は忘れたくないし、いつまでも憶えていたい。確かにあった時間を。そこにあった思い出を。何とも変えられないあの日々を。

 だって、好きだから。

 自分が傷ついても構わないと思うくらいには、ゴールドのことが大好きだったから。

 大げさに言えば、愛してたから。…愛してるから。傷ついたっていいんだ。それが愛するってことなら、受け入れるよ。すべて。

 


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