4.


 文芸部に入っている妹が帰宅するのはいつも夕方と決まっている。

 それまで頭を捻りに捻って考えてみた結果、見事、何も思い浮かばなかった。そんな自分に軽く落胆する。

 頭のよくない俺が苦し紛れに思いついた嘘なんて奴はすぐに看破する。それはそうなんだけど。重要な場面に必要だろう嘘一つくらい、なんとかならないものなのか。

 前回の教訓から水の量を減らしたカレー(ちょっと具が大きすぎた)を作成し、晩御飯の準備をすませた頃、妹が帰宅した。「ただいまー」と気怠そうに玄関から響く声にごくりと生唾を飲み込む。

 部活に入ってない俺が妹より早い帰宅であることは間々あるので、そこはツッコまれなかった。が、鞄をぶら下げてリビング兼ダイニングに入ってきた妹はソファでせんべいをかじっているろいろを見つけると動きを止めた。「……………」たっぷりとした沈黙が痛い。


「おにい?」

「はい」

「誰、あの子」

「はい。えー、事情を話せばとても長くなるんですが、犯罪ではないです。迷子保護…のようなものです」


 思わず殊勝な言葉遣いになる俺を妹がこれでもかと睨みつけてくる。不機嫌顔に気のせいか青筋が浮かんでいるような。いやきっとそれは気のせいだ。気のせいだと言ってくれ。

 俺達の空気のピリつきを完全スルーのろいろはバリボリとせんべいを食べ続けている。せっかく買ってきた新品の徳用せんべいがもうなくなりそうだ。

 凄まじい目つきで俺を睨んでいた妹だったが…。しかし。妹はふっと肩の力を抜くと鞄をテーブルに置いた。胡乱げな目つきでせんべいをかじり続けるろいろを見ているだけだ。

 おや?

 これはもしや、我が妹は俺が思っているより広く深い心をお持ちなのか…?


「犯罪ではないと断言するということは、同意の上なわけだ?」

「え? ああ、たぶん」

「たぶん?」


 ギロリと睨まれて首を竦める。「一度は帰そうって置いてきたんだけど、ついてきちゃったというか…」嘘は吐いてない。妹の追求にもそもそ返しつつ平皿にご飯をよそい、カレーをかける。水っぽいカレーからは卒業できたけど、具がでかすぎた。今度はこの半分にしよう。

 新たな食べ物のにおいに空になったせんべいの袋を振っていたろいろが顔を上げた。ソファから下りるとキッチンまでやってきてくれくれと手を伸ばしてくる。「待ちなさい」まずはご機嫌を取らねばならない妹の分を食卓に置いた。重たいろいろを椅子に座らせ、「持ってくるから待ってなさい」通じないだろうけど言葉を投げてから手早く俺とろいろの分をよそって食卓に用意、展開。顔を突っ込んで食べるだろうろいろの世話を焼くため隣に座ってスプーンでろいろの口にカレーを流し込む作業開始。

 頬杖をついて俺達の行動を観察していた妹がようやくカレーを口にした。「65点ね。具がでかすぎるし水の量守ってないでしょ」「うっ」図星である。「それから、カレーなら市販のサラダセットでも買ってくるべきね。野菜が少なすぎ」「はい…」肩を落とす俺を鼻で笑った妹はこっちを観察しながら黙々とカレーを片付け始める。

 両親のいない夕食というのは静かなものだ。テレビのバラエティ番組の音がやけに大きく聞こえる。

 妹は自分からいらんことを喋るタイプじゃない。俺も、自分で話題を作って会話を盛り上げようって気は起きない典型的男子だ。ろいろは喋らないというか、喋れないというか。このメンバーでは自然と会話は発生せず、音はテレビからがほとんどになる。

 ろいろを食べさせて満足させてから自分の分を食べ始めたから、妹が先に食べ終わる形になった。


「ごちそうさま。お風呂入れるのと洗い物、どっちがいい?」

「あー」


 どっちも嫌だ。という主張は通りそうにない。「じゃあ、洗い物で」「じゃ、あたしはお風呂入れてくるわ」シンクに食器を置いた妹が鞄を掴んでさっさと二階の自室に引き上げていった。まずは着替えてくるんだろう。

 妹が視界からいなくなったことで俺はようやく肩の力を抜くことができた。

 ろいろのこと、とくに、どうこう言われなかったな。俺だったらどうだろう? 妹がちっさい男の子を連れ込んで『同意の上で連れてきた』となったら………。

 妹に限ってそんなことはないと思うけど、想像しただけでも、ないな。それはありえていいと思えない。…あれ。じゃあなんで妹はろいろのことを容認したんだ?

 カレーを口に運びながら考えていると、階段を下りてきた妹が洗面所の方に消えた。さっそく風呂を入れるようだ。

 せんべい一袋にカレーも大人と同じ量を食べたろいろは、さすがに腹が膨れたのか、椅子に座って足を揺らしているだけで俺の分を物欲しそうに見ていたりはしない。

 妹の態度に腑に落ちない部分はあれど、それがこっちにとってありがたいことであるのは事実なので、甘んじて受け入れることに決定。

 下手に嘘吐かなくてよかったなぁなんて思いつつカレーを食べ終え、妹が先に風呂に入り、その間に食器を洗ってキッチンをきれいにしておく。

 お次はと部屋に戻った俺に、ろいろはついてきた。階段の段差で頭からずっこけていたので途中からは抱っこして連れて行った。

 部屋のクローゼットをあさり、俺が中学生だった頃着ていた服がまだとってあるダンボールを発見。ビリビリと封のガムテームを取って箱を開ける。


「うーん…」


 色褪せたTシャツ、半ズボンなどなど、まぁ使えないことはないか? と思うものをいくつか出した。ろいろの肩にシャツを当てたりしてサイズを見る。ずり落ちるとかしないなら着れるだろう、うん。中学一年の頃は俺の背も小さかったのだ。これならいける。

 ろいろの着替えを見繕っていると、風呂を出たらしい妹が髪を乾かすドライヤーの音が聞こえてきた。

 そろそろ試練の時間がやってくる。そう、風呂のことである。

 俺が風呂に入ることは問題ない。問題なのはろいろのことだ。


「お兄、お風呂」

「へーい」

「残り湯は流しておいて。浴槽はシャワーで汚れ落としておいてよ」

「はいはい」


 細かい妹に生返事を返しつつ、ろいろと自分の着替えを持って、いざ、試練の場へ。

 ろいろは基本的に俺の後ろをついてくるが、風呂場を見るや否や洗面所で逃げ場を探してあろうことか洗濯機の中に入り込んだ。「こら、何してんだよ」タオルを腰に巻いた状態で格闘の末、ろいろを捕まえて風呂場に閉じ込めることには成功したけど、この拒絶のしようといったら。とても『湯煎に浸かって汚れを落とす』ってことはしてくれそうにないので、仕方なく、タオルを濡らしてからだを拭いていくことにした。風呂の意味よ。

 いつになく疲れた一日になってるなぁと溜息を吐く。

 その頃のことは小さくて憶えてないけど、ゴールドがうちにやってきた当初っていうのも、こうやって苦労したのかな。お風呂とか、ご飯とか。散歩とか。

 なんとか風呂をすませてろいろに俺のお古の服を着せることに成功。

 歯磨きもなんとかと思ったけど口に入れた歯ブラシを噛み砕かれたので、こっちは諦めた。無理です、無理。虫歯になるなよ。

 夕飯、風呂、という日常タスクをこなせば、あとは寝るだけだ。

 戸締まりを確認してから電気を消して二階に上がる。

 慣れないことをして疲れた一日だったな、と思いながらベッドに転がって携帯端末を掲げた。メールがいくつか来てるけど返信が面倒だ。

 今日もサボったからなぁ。そろそろ先生に呼び出し食らいそう。

 ろいろがベッドによじ登って俺の上にもよじ登る。重い。「…俺はね、クッションとかじゃないんだよ……」俺の上に座ってどことなく満足そうなろいろにぼやきつつ端末を枕元に放った。

 ベッドに転がったら知らず知らずのうちに寝こけていたらしく、はっと目を開けて時刻を確認したときには23時55分だった。

 あと5分で日付が変わる。明日になる。

 5分後には当たり前のように息をする明日が今日となって横たわっている。

 明日が来ることを誰も疑わない。そうやって世界は回っている。

 ぷすー、と音が聞こえて視線をずらすと、俺の上から横に移動したろいろが黒いドラゴンの姿で寝ていた。ぷすー、という音は寝息だ。「…、」手を伸ばしてしわくちゃになっているTシャツと半ズボンを床に落とす。

 ろいろのことは、とりあえず、家にいる分にはどうにかなるだろうけど。その先をどうするのか…そこのところは具体像が浮かばないまま宙ぶらりんになっている。

 どうするかな。俺はどうしたいのかな。ちゃんと考えないと。

 ベッドサイドのテーブルに手を伸ばして、映像がオフになっているデジタルフォトフレームに触れる。人の温度を認識したフォトフレームに再び映像が灯り、在りし日々の俺やゴールド、家族を映し始める。

 フォトフレームの右下に表示されている時刻は23時59分。

 と、それまで寝入っていたろいろがぱちっと唐突に目を開けた。あまり大きな音は立ててないはずだけど起こしたろうか、と思う俺の視界でろいろが今までにない俊敏さで跳ね起きた。「え? ろいろ?」窓まで飛んでいったろいろがカーテンの向こうへと潜り込む。

 なんなんだ、と仕方なく起き上がってカーテンを開けた。

 夜の闇に抗う人工的な光と微かな星空。いつもの夜の風景だ。俺にはそう見える。けどろいろの瞳はどこか睨むように外を見据えたまま、虹色の瞳がチカチカと瞬いている。

 首を捻ったとき、時刻が変わった。フォトフレームの写真が消えて、昨日の日付がペラリと日めくりカレンダーのようにめくられて今日になる。




 00:00。




 日付が変わったその瞬間、世界が鳴った。

 悲鳴を上げるかのように声高に、やめてくれと誰かに訴えかけるように、大きく叫び声を上げた。

 その声は空でも海でも大地でも、どこまでも響き、どこまでも浸透していく。

 世界が内側から裂けたその音は、確かにこの耳にも届いた。




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