2.


 可能な限りの全力疾走で学校に着いたとき、ちょうど一限目が終わる鐘が鳴り響いたところだった。

 走ったことでうるさい胸を押さえながら深い呼吸を繰り返し、ゆっくりと階段を上がる。

 一限目の英語の先生が教室から出たのを確認してから、後ろの扉から教室内に滑り込んだ。よしよし、先生には見つからずにすんだぞ。セーフ。

 ふっと息を吐いたのも束の間、俺に気付いたクラスメイトの八坂やさかが端末を持った手をこっちにぶんぶん振ってくる。

 ちなみに八坂の髪はまた色が変わっていた。昨日は淡い黄緑だったけど今日はコバルトブルーみたいな色をしてる。

 あんな頻繁に染めてたら相当傷むと思うんだけど、あいつは一週間置きくらいに髪のカラーが変わる変人(?)で有名だ。

 最近の流行が『髪のカラーを派手にすること』なもんだから、だいたいみんな派手な色の頭をしていて、教室は今日もカラフルだ。俺は無難な金髪で周りに適当に合わせてる感じ。


「おー葉山はやま、重役出勤~」


 その八坂の声に何人かがこっちを見た。せっかくそっと入ってきたっていうのに、八坂め。

 ここで誤魔化すのは上手い手ではないだろうからノっておこう。


「どーもどもー。重役です。理事長とかかな」

「嘘つけよ」


 笑いが起こる教室でヒラヒラ手を振って自分の席につく。

 机の中にはプリントがいくつか突っ込んであった。昨日の授業で使ったやつだろう。

 おざなりに眺めていると、肩を叩かれた気がした。首を巡らせると後ろの席の女子と目が合う。大人しめの黒よりの紫っぽい髪をしてる。彼女はどうやら俺の制服についていた葉っぱを払ってくれてたらしい。「あ、ごめん。気になって」「いや、ありがと。払ったんだけどなぁ」上着のブレザーを脱いでバサバサさせる俺を女子が不思議そうに見上げる。「どこ行ってたの? 公園?」公園。ではないけど。近い。「まぁ、そんなとこ?」曖昧に笑って叩いたブレザーを着直した。

 公園、ではない。もっと緑があって、もっと無秩序な場所に行ってきた。

 話題を逸らすために「次の授業、なんだったっけ」と口にする。女子は素直な子のようで机の上に次の授業の教科書を置いた。「古文だよ」「あー……」古文。苦手…何度やっても意味がわからなくて…。

 仕方なく次の授業の準備をしつつ、欠席した間に配られたプリントをつまんで掲げる。

 活字力というか、字を書く力が衰えるといけないからって、この学校はこうして紙媒体をたくさん使う。

 中身が入ってこないプリントを眺めながら、俺は違うことを思い出している。

 クゥ、クゥ、と鳴く声は、まるで俺を呼んでいるようだった。


(そういうわけなので、俺は黒い子供ドラゴンを、拾った白樺しらかばの林に置いてきたのです、と)


 拾ってきたときと同じように、あの子供ドラゴンをブレザーでくるんで運んで、置いてきた。あの場所に。そうして全力で学校まで来た。まるで逃げるみたいに、置いてきた。そうでもしないとあのドラゴンはきっと俺についてくるから。

 昨日の無断欠席と今日の遅刻は『体調が悪かった』ということで押し通し、職員室にお呼ばれしたときも頑なにそう説明して、呆れるような形で受理してもらい。弁当の用意なんてあるわけないから、昼休みになったら財布と端末片手にブラリと学校の外に出た。コンビニ弁当でいいかなぁ。

 …昨日、今日と慌ただしかったけど、ようやく日常が戻ってきた。そんな気がして、空を見上げてふっと息を吐く。

 行き交う車も。遠くて青い空も。山に囲まれたこの風景も。当たり前のものを当たり前として見たのが久しぶりな気がする。

 俺は平々凡々なただの高校生だ。ちょっと動物馬鹿ってだけ。うん。

 俺にはあの子供ドラゴンは身に余りすぎる。そんなことわかってたはずだけど。

 コンビニで味噌カツ弁当とペットボトルのジュースを購入して、袋片手に近場の公園に向かう。直射日光バリバリの公園には人の姿はまばらだ。

 適当に空いているベンチにどかっと腰かけて膝の上に弁当を広げ、まずはジュースを一口。それから箸でつまんだとんかつを食べようとしたときだった。俺がかぶりつくよりも早く俺のとんかつにかぶりつく黒い姿が。

 黒い。姿が。


「だーっ」


 俺は一瞬で自分がすべきことを理解した。

 脱ぎ捨てたブレザーでその黒いモノを掴むようにして包む。弾みで弁当が膝から落ちておかずご飯その他が無残に地面にばらまかれたけど、そんなことはどうでもいい。

 黒い。髪に。人らしい顔に。そこまではいい。そこからがダメだ。胴体は黒いドラゴンのそれなのに手足が人間のものとか化物でしかない。

 もう、心臓が。全力疾走よりもバクバクしてるぞ。


(お前っ、俺が置いてきたっていうのに、何してんだっ。っていうかなぜそんな格好になって! もう意味がわからんっ!)


 ドキドキと弾みまくる心臓で辺りを窺う。

 工事現場労働なんだろうおっさんはこの休み時間を有効活用しようとベンチで頭に新聞紙を被せて寝こけているし、サラリーマンらしい男は気難しい顔でずっと携帯を睨んでいる。変な声を上げた俺にチラリと視線を寄越したものの、とくに興味もないって顔ですぐに携帯に目を落とした。…よし。セーフ。まだ、セーフ。

 いや、ここではセーフとして、他で目撃されてたらどうする? 

 さっきの姿はとにかくありえん。人かドラゴンかどっちかにしてくださいマジで。

 意を決して、ブレザーの中をそぉっと覗く。

 小さな女の子、のような顔つきのドラゴンは地面に落ちて散らばったご飯やおかずをじっと見ている。今にもブレザーから飛び出して落ちたものに飛びつきそうだ。「ちょっと待て。マジで待って。その格好マズいんだって」囁く俺にドラゴンは首を捻った。何がいけないのか、とでも言いたげだ。

 手早く端末を操作した俺は、画面に一枚の写真を表示させた。十年前の日付の、家族全員が写っている写真だ。そこにはゴールドも、幼い妹もいる。妹はこの頃から眉間に皺を寄せた難しい顔をしていた。


「人の姿、取るならこういう感じで。なんとかならない…?」


 写真の中の妹を指してそう言ってみるも、無理難題だ、と自分で思った。そんなことができるほどこの子は賢くはないだろう。子供なんだから。

 案の定、端末に表示させた写真に、幼い少女は虹色の虹彩の瞳を瞬かせただけだ。

 せめてなんとか、もうちょっと不自然じゃない人間になってくれないと困る。そういう変身? とかできるならもうちょっと頑張って。お願いします。



 あーでもないこーでもないとブレザーの中の中途半端に人間なドラゴンに言い聞かせること、一時間。

 黒いドラゴンはなんとかそれらしい少女の格好をしてくれて、俺は本気で脱力してベンチに転がった。

 服なんてなかったので、俺の制服のシャツを着せたけど。袖を折ってなんとなくワンピースのように見えなくもないけど。限りなくアウトだな。服を買わないといけない。俺も、シャツがなくなって素肌にブレザー羽織ってるだけのちょっとアウトな格好なので、服を買わないといけない。


「はぁ……」


 けど、これで人から見られてもセーフのはず…とほっとしたのも束の間。やっと人間の格好になれたドラゴンは手を伸ばすと地面に落ちた味噌カツその他を地面の砂ごと掴んで口に放り込んだ。「あっ、こら」慌てて起き上がるも、バリ、ボリ、という砂を噛み砕くような音をさせてごっくんしたのがわかったので、諦めた。「本当、なんでも食べるなぁ…」しみじみぼやきながらぶちまけた弁当を素早く回収し、少女になったドラゴンの手から回収する。落ちたものは食べたらダメです。これはゴミ。


(服、買いにいこう。理屈とか原理とかは置いといて、あの子供ドラゴンは人の形になれるんだ。服はいる)


 衣類も置いてあるスーパーの位置を端末に表示させ、歩き出そうとして、考えて、手を差し出した。黒髪の少女は丸い瞳でこっちを見上げている。「手」と言ったところでわからないんだったなと思って、短い腕を取って小さな手と手を繋ぐ。

 ちゃんとあたたかい。

 俺が歩き出すと、少女姿のドラゴンもちょこちょことついてくる。何も疑いもせず俺を追いかけてくる。

 …妙な感じだ。

 自然に返すことに失敗したのに。なんで少し嬉しいんだろうな。

 小さな歩幅が無理なくついてこれるようにゆっくり歩いて十分。目的地のスーパーが見えてきた。

 途中で、小学生くらいの少年が柴犬とかけっこをするように俺達のそばを通り抜けた。一人と一匹。かつての自分とゴールドを重ねて、俺は自然とその姿を追いかけている。「まめーほらタッチしてみなよ! ほーら!」少年と、まめ、というらしい柴犬は、わう、と吠えると全力で少年の足にタックルしていった。

 一人と一匹が笑っている。犬が笑うのかどうか俺は知らないけど、たぶん、笑ってる。

 仲がよさそうな一人と一匹から視線を外して、そうか、と思う。

 置いてきたのに俺を追いかけてきた黒いドラゴン。

 その存在に確かに求められた、ということが、嬉しいんだろう。…本当、馬鹿だなぁ。俺は。


「ろいろ」


 小さく口にして、しっくりきた。

 ろいろっていうのは『呂色ろいろ』って書いて、黒漆くろうるしの濡れたような深く美しい黒色のことを言うらしい。っていうのは美術の教科書をパラパラしててたまたま目に入った色の説明だったんだけど、この黒いドラゴンの肌はまさにそんな感じで、ぴったりだなって思ったんだ。

 隣を歩いている少女姿のドラゴンが俺を見上げている。チカチカと明滅する虹色の瞳で。

 俺は少女の、ろいろの黒髪を撫でた。本物の人間と何も違わない肌触り。

 今はない角に刻まれている『No.014』という焼印を思い出す。

 ……これは、俺の勝手だ。


「ずっと名前を考えてたんだ。

 俺、バカだから、名前を与える、って行為がお前にとっていいことなのかはわからないんだけどさ。ろいろ」


 でも、逃げないよ。お前から。お前が追われているものから。一度置いてきた俺が言っても信じてもらえないかもしれないけど。

 ろいろ。そう呼んだ俺に、少女の唇は僅かに笑みを浮かべた。気がした。

 


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