世界が鳴る日

1.


 朝。珍しく目覚ましに叩き起こされる前に目が覚めた。

 眠いと訴える瞼を押し上げると、俺の横には黒いドラゴンがいた。一瞬思考が固まって、すぐに解ける。「ああ…」そうだった、とぼやいて小さな頭を指で撫でる。警戒心のないドラゴンは俺に撫でられても目を覚ますことなく眠っている。

 つるつるしたガラスのような肌触り。繊細なガラス細工のような手触りなのに、あたたかい。

 …そうだった。昨日はなかなかに激動の日だった。


(ドラゴンを拾って、父さんの急な出張が決まって…父さんが帰ってきてからの家族会議は手短に、希望通りに……)


 俺と妹はこの高山たかやまに残って学生生活を送る。両親は異動先の沖縄へ行く。

 週末は必ず家族揃ってのビデオ通話の時間を作り、近状などを報告する。

 生活に必要なお金はとりあえず『仕送り』という形で俺の口座に送金されるらしいから、考えて使うこと。高校生なんだからそれくらいのやりくりはしなさい、とは父さんの言葉だ。今後もしかしたら一人暮らしとかするかもだし、そのときにお金のやりくりの経験は役に立つだろう…と思う。将来的に一人暮らしするのかは別問題として。

 枕元に放置していた携帯端末を掴んで目の前に持ってくる。今日の天気は晴れ、と。

 まだ七時前だったけどもそもそと起き上がってベッドから下りて着替えていると、もぞり、とベッドの膨らみが動いた。ドラゴンが眠そうな半目で布団から首を出してこっちを見ている。「寝る子は育つ。ほら、寝なさい」制服のズボンのベルトを締めつつ布団を被せ直す。ドラゴンは眠そうな目でこっちを見上げていたけど、眠気に負けたのか、枕に顔を埋めるようにして静かになった。

 本当に、子供なんだなぁ、と思う。

 ぽん、ぽん、とリズムよく布団を叩いていると、ドラゴンの呼吸が眠っているときのゆっくりとしたものに変わっていった。

 ………いくらビデオ通話がある現代とはいえ、面と向かって話をするのは今日限りだろう。次に会えるのがいつになるかはわからない。

 別に、特別話したいことがあるわけではないけど。早めに飯でも食おうかな。父さんと母さんは出発の準備で忙しいだろうし。

 今まで生きてきて、俺にとって一番近しい人間っていうのは家族で、父さんで、母さんだったわけで。そういった人達が自分のそばからいなくなるという現実は、思っていたよりも心細さを運んでくる。きっとゴールドのことがあったからだろう。ゴールドのようにもう会えなくなるわけじゃないのに、余計なことを考えて、胸が苦しくなる。

 その感覚を振り払うように頭を振ってそっとドアノブを掴んで、ドラゴンを起こさないよう気をつけながら部屋から出た。ロックはしっかりと、忘れない。その気になればまた妹が突破してくるだろうけどそこは考えない方向で。

 階段を下りて階下に行くと、父さんは食卓に置いた端末で書類やらファイルやらをチェックしているところだった。仕事に必要なものの確認だろう。母さんはといえば、冷蔵庫を覗いたり棚を確認したりと忙しなく動き回っている。


「おはよ」

「あら、早いのねかいり。おはよう」

「珍しいな」

「たまにはね」


 苦笑いしながら冷蔵庫を開けて、卵と納豆を取り出す。食器棚から茶碗を出して、しゃもじ片手に炊飯器の蓋を開けるとほっこりとした白米が炊き上がっていて、そこだけ見れば、いつもどおりの朝のように思えた。納豆と卵と、今日は梅干しも入れよう。で、ご飯。いつもの朝食風景だ。

 梅干しの入ったタッパを用意して食卓につく。

 卵、納豆、と順番に白米と合体させていき、最後に梅干しをのっける。うむ、うまそう。

 玄関には旅行用の大きなトランクが二つ鎮座している。最低限必要な衣類を詰めたんだろう、結構パンパンそうだ。あれを持って空港まで行くのか。大変だろうな。

 確認が終わったのか、端末をオフにした父さんが席を立った。忙しなく動き回っている母さんとは違い、父さんはいつもどおり、自分でインスタントコーヒーを入れて戻ってくる。


「かいり」

「ん」

「何事も前向きに捉えよう。セミ一人暮らし。そんな感じで、自分でやってみなさい」

「セミ一人暮らしって、何それ。妹も一緒なんだから、それを言うなら二人暮らしじゃないの?」


 笑った俺に父さんは肩を竦めた。ご飯をかきこむ手を止めて「まぁ、上手くやるよ。仲悪くはないんだから」不機嫌そうな顔でこっちを一瞥する妹を思い浮かべると、今部屋で眠っているだろう黒いドラゴンのことも連想した。

 今日からこの家には、妹と、ドラゴンと、俺。か。二人と一匹かぁ。

 上手く……やれるといいなぁ…。

 あらゆる意味で俺は妹がおっかないというか、頭が上がらないというか。あいつの方が頭いいし、あいつの方がなんでもできるからな。本当、なんでこんなことになったのか…五分の一でいいからその賢さを俺に分けてくれ。



 いつもよりさらに不機嫌そのものの顔で起きてきた妹は、玄関先で両親を見送るってときには多少マシな顔つきになっていた。

 何がそんなに不機嫌だったのか知らないけど、眉間に皺を寄せて射殺さんばかりの目つきの悪さで睨まれる俺の身にもなるといい。


「道中気をつけて。向こうは暑いだろうから、体調管理しっかりね。スケジュールには時間の余裕を持って動くんだよ」


 妹が父さんのネクタイを締め直しながらそう言って手を離した。

 娘にネクタイを締め直してもらうっていうのは父親としては気分がいいのか、父さんは少し機嫌よさそうに「そうだな。気をつけるよ。そっちも、気をつけるんだぞ」「火のつけっぱなしはくれぐれも注意してちょうだいね。とくにかいり、あんたは無理に包丁握っちゃダメよ」「はい、はいはい」夕食の手伝いのときに手が滑って包丁で指を切ったことを言ってるらしい母さんに参ったと両手を挙げる俺。

 大きなトランクを積み込んだタクシーが両親を待っている。長いこと引き止めるわけにもいかない。

 俺は、笑った。笑顔を作った。そういう努力をした。

 地方にはなるけど、父親の事実的な昇進で、これは、祝うべき門出ってやつだ。しみったれた空気は似合わない。

 だから、笑え。


「じゃ、週末にビデオ通話でまた。ほら、運転手さん待ってる」


 俺がタクシーを指すと両親は視線を合わせ、どちらからともなく歩き出した。

 妹はいつものように不機嫌気味な顔で両親の背中を眺めている。

 俺は作った笑顔で二人を見送る。それが一番いいと思ったから。


「おにい

「ん?」

おぼえておきなよ。この日を」


 小さな声に首を捻る。どういう意味だ、と問うたつもりだけど、妹はそれ以上何も言わずに口をつぐんだ。

 両親を乗せたタクシーは滑らかに動き出し、窓の向こうで手を振っていた二人の姿はあっという間に見えなくなっていった。

 なんともいえない空白の時間が訪れる。

 けど、それも一瞬のことだった。妹は起きがけと同じすさまじく不機嫌な顔で眉間に皺を刻むと赤い髪を手で払いのけた。その動作も不機嫌を表す乱暴さを持っている。「さて」「ん」「あたし、学校行くわ。今日の買い出しはお兄で」「うっ」さっそく現実的なお題を突きつけられて怯む俺。そんな俺を不機嫌そのものの顔で睨む我が妹の目つきの恐ろしいことよ。「め、メニューは…」「……カレーでいいよ。カレーくらい作れるでしょ?」カレー。前回挑戦してシャビシャビのスープカレーになったアレか。うん、普通に作れる自信がないぞ。


「た、たぶん…」

「………材料くらいはわかるでしょ? ルーの箱の裏に作り方が書いてある。具材も載ってるからそれ買ってきて」

「へい」


 携帯端末のメモ帳に『今晩はカレー。材料とルーを買うべし』とメモした俺をジト目で見ていた妹が玄関に置いていた鞄を掴んだ。「じゃ、帰ったらね」「おう」ひらりと片手を振っていつもどおりに出ていく妹をなんとなく見送ってから家に戻った。バタン、と扉がしまってロックがかかる。

 とりあえず俺にはすべきことがあるのです。それは何か? そう、まだ寝てるだろうあのドラゴンの朝食の準備!

 キッチンまで駆け抜けると冷蔵庫の扉を開け放ち、隅から隅まで眺めて、どうせ俺が買い出ししてくるんだしバレないバレない、とササミのパックを拝借。ゴールドの餌皿に全部ドサッと入れた。

 人間の味付けは動物には濃すぎてよくないって聞くし、ササミオンリーっていうのは味気ない気もするけど、このままがいいだろう。

 ササミオンリーの餌皿を持って二階に行くと、俺の部屋の扉からガリガリと嫌な音が。「ちょっと待ったステイ、ステイ! 扉引っ掻くなってっ」俺が声を上げるとピタッと音が止んだ。

 ロックを解除して開けてみれば、すぐそこで背伸びしてこっちを見ているドラゴンがいる。餌皿を見ると前足を伸ばしてくれくれと制服のズボンを引っ掻いてくる。「はいはい…」しゃがんで餌皿を置くとさっそく食らいついた。もっちゃもっちゃとひじょーに汚い食べ方で、口からササミをこぼしながら目線は俺に向けようと頑張っている。

 あのね。見てなきゃ俺が消えてなくなるってわけじゃないんだから…。

 その場にあぐらをかいて、携帯端末を掲げる。

 八時十分。そろそろ学校向かわないと遅刻確定だ。が。

 俺はササミをもちゃもちゃ頬張っているドラゴンに怪我がないかを改めて確認した。それこそ足の裏まで確認した。怪我らしい怪我はなかった。つまり、俺がこのドラゴンを保護する目下の理由はなくなった、ということだ。

 あたたかい寝床とご飯をあげた。雨に打たれて冷たかったドラゴンはあたたかさを取り戻した。


(この子を自然に帰さないと)


 こいつが俺に慣れてしまう前に。

 俺が手を離せるうちに。

 それがお互いにとっての最善だと信じて。

 

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