5.
「お前は純粋だな」
あるとき、しみじみと、
その頃、俺は今よりも頭を空っぽにして『研究』と言う名の仕事に取り組み、自分より立場が上の人間から指示されたことをすべて片付けてみせる、機械のような人間だった。
そうして自分がすべきことをこなしていれば、未来は明るい。展望が開ける。社会人になっても俺はそんなことを信じていた。信じなければ実現しないと、
そんな俺を『純粋』だと言った片桐は俺と同期の人間だ。同じ春に同じ研究所の所属になった。
最初は『同期』というだけの縛りで親しくしようと社交辞令的なことも努力したが、片桐はそういうのを面倒くさがるタイプで、最初の一ヶ月で社交辞令なやり取りも終了。片桐は所属して数ヶ月で階段を段飛ばしで駆け上がるように上に行き、俺はその場に残り……まぁ、そんな感じだ。あいつは根っからの天才だった。
だから、正直な話、俺は片桐が好きではなかった。
俺と片桐は対極にいるような存在だった。片桐という天才と比べれば、俺の能力など凡人のそれと変わらない。
片桐
名前だけ見れば一瞬女かと思うが、性別的に片桐は男で、見た目はといえば中性。日本人らしい黒髪を切るのが面倒だとばかりに無造作に伸ばしていて、それを適当に一つにくくっている。街ですれ違ったなら男か女かと考える程度には整った顔立ちをしていて、奴が口を開いて気怠そうに一声発するのを聞いて、ようやく男かと思い至る。
ウケのいい中性的な見た目と、その天才を疎む、または妬む連中から所属した頃は『由比ちゃん』とからかわれることもあった片桐だが、そういったことを気にかけない奴は誰にどう呼ばれようが薄い反応しか示さない。そのうち由比ちゃん呼びも廃れ、今では食堂のおばさんとか親しみを込めたい女連中がそう呼ぶ程度だ。
…話が少し逸れたな。
そういうことで、凡人な俺は、天才の片桐のことが好きではなかったわけだ。
自分と片桐を並べたとき、凡人である俺は、才能のない俺は、容姿にも優れ才能にも溢れたあいつに引け目や負い目を感じてしまう。
成績や技能を比べられて育った人間なのだから、そんなことを考えてしまうのは仕方のないことなんだろうが。常にそうやって考え、他人より上に行くことだけを考えるには、俺はもう伸び盛りのピークを過ぎてしまった。
なぜ片桐由比という男はあんなにもすべてのことができて、優れていて、俺は、こんなにも凡人なのか。
「お前は純粋だな」
研究所の隅にある自販機が数台ある一角。そこで缶コーヒーを買い、簡素でクッション性のないソファに腰かけて休憩を取っているときに、休憩時間が被ったんだろうか、片桐がやって来て、ふいにそんなことを言ってのけた。小さく区切られたこの場所には俺と片桐以外に人の姿はない。つまり、その言葉は俺に向けられたもの、ということになる。
俺は眉根を寄せて砂糖入りの甘いカフェオレの購入ボタンを押した片桐を見た。念のため、「誰が」とぼやくように確認しておく。ガタン、とカフェオレを吐き出した自販機から缶を取り出しながら「お前だよ、
屈んだことで一つに緩くまとめられている髪が肩に垂れ下がり、造り物のような手が気怠そうに髪の束を背中へと払いのける。それからカフェオレ片手に俺が座っているソファの方へ来ると断りなく腰を下ろした。
…同期である、という以外で、俺と片桐に共通の事項などない。当然、会話だってない。
早々にコーヒーを飲み干した俺は自販機横のゴミ箱に缶を投げ入れた。
片桐はいつでも気怠そうな表情で、今も、気怠そうにカフェオレを飲んでいる。それでも様になるというのがこの男のズルいところだ。
素直にその容姿を活かせるモデルでもやってればよかったんだ。吐き捨てるようにそう思いながら、俺は片桐から逃げるようにその場を離れた。
俺は昔から『一定の決まりごと』を憶えることが得意だった。
1と1を足せば2になり、2と2を足せば4になる。
小学生から教えられる、これはそういうものだ、という決まりごと。これを覚えれば、この決まりごとが適用されている世界の中で生きるのに不自由がなくなる。なくなるとまではいかずとも、不自由だと感じる場面は少なくなる。
一定の決まりごと。この世界での決まりごと。それについて教育を受け、机に向かう皆が同じことを学び、同じことを競わされる。
こういうもんだ、と割り切れれば思考は早い。
俺はそのうちどんな数式も抵抗なく頭に入るようになった。
1+1はどうして2なんだろう。そんな疑問持たなければいい。1+1は2になるんだよ。3にはならないし4にもならない。1は1で1が2と表記されることはない。どうして、なんて疑問を持つ頭は殺せ。
すべてはその繰り返し。繰り返し。繰り返し。
そうやって生きていたら、ひどく退屈だという現実に気がついた。
目の前のすべてが、人間でさえ、この目には数式の塊に見えていた。
何か面白いことはないのか。そうやって余分なことに手を出したのは大学に入ってからだった。
この世界に最近になって参入した未知の不確定要素、生物としてのドラゴン。俺が興味を持つのに充分な対象だった。調べていくうちにドラゴン専門の研究機関まであると知り、大学卒業後の進路をそこに定めた俺は、ドラゴンについて、没頭するように学んだ。
学ぶことは昔から得意だった。そういうもんだと受け入れることは昔からやってる。今更抵抗感はない。どんなことでも憶えてみせる。
「お前は純粋だな」
…また、その言葉か。
顔を上げると、山のように積み上げた本と資料に囲まれただひたすら勉学していた自分がすうっと消えていった。
気付けば俺はあの研究所で白衣を羽織り、規定からはみ出ることのない服装で、規定からはみ出しまくっている片桐に相対していた。ズボンにシャツは入れないし、ネクタイもしないし、そもそもその髪が規定外だ。しかも足元、なんだそれ。サンダルじゃないか。靴を履け靴を。
規定からはみ出しまくっている片桐はいつもの気怠そうな表情をしている。それで少し首を傾げるようにしてこっちを見ている。その手には一冊の本がある。「なぁ吉岡。ドラゴンはなぜ表に出てきたのだろう」「…は?」これも気怠そうに発せられた一言に、俺は顔を顰めた。
休憩時、缶コーヒーを買いに行くと遭遇するようになった片桐は、あの狭く薄暗い、自販機しかない場所で、よく本を読んでいた。今も手にしているその本の題名は『ドラゴン学』といい、ドラゴンについて友好的にいこうと記された本…らしい。
読んだことはないが、研究所にある蔵書で誰もこれを勧めないんだ。大して中身のある本じゃないってことだろう。ありもしない希望や理想を語ったような。
「カモノハシだって、最初に発見されたときは鼻で笑われただろ。そんな生き物いるはずがないって。ドラゴンの発見だって同じだよ。物的証拠も映像も、実物もいるんだ。お前も毎日見てるだろ」
「そういうことじゃない」
「…じゃなんだよ」
何が言いたいのかと睨みつければ、パタン、と本を閉じた相手が立ち上がる。
自販機が並ぶだけの薄暗く何もない空間で、片桐はのっそりと、静かに、音もなく。自販機の光に照らされた横顔は白く、まるで生気がないようだ。
こいつはいつもそうして一人で本を読んでいる。片桐に相手にされたい人間は男でも女でもいくらでもいる。話す相手もつるむ相手も、そうしようと思えば選り取りみどり。それでも片桐は一冊の本を手にこの薄暗い場所で一人で本を読むことを選ぶ。そして、休憩時間、ほんの少し一緒になるだけの俺にこうして声をかける。
「あいつらは賢い。それなのにどうして表に、社会に出てきてしまったのか。私はそれが不思議でならない」
「ああ? だからそれはカモノハシの発見と同じでだな」
「お前は不思議じゃないのか?」
「何が」
「今や世界のどこにでも生きている人間の中に、自分達が飛び出していったら、どうなるか。わからなかったはずがない、と」
俺は片桐の言葉に顔を顰めるばかりだった。
片桐、お前はドラゴンって存在を高く買いすぎていないか。まるで人間と同じ思考能力を会得している生物だと思っているみたいな言葉だぞ。
俺からすれば、ドラゴンがそこまでのことを考えられる頭を持った生物かどうか怪しいもんだ。
今のところ研究所内にいるドラゴンは動物の域を出ない。飛行能力や個体の能力だけでも充分な研究対象にはなるが、海外のように実害が出たわけでもない。日本では伝承やお伽噺以外にドラゴンが確認されたわけでもない…。
(ドラゴンが、なぜ、発見されたのか?)
発見されるべくしてされた、それだけだろう。カモノハシと同じだよ。新しい元素が発見されたのと同じだ。そのどこにも疑問なんて持ちようがない。
疑問は殺せ。
これまでの習慣が俺の思考に命じることで、片桐の台詞は俺の中から消去された。「そういうもんだろ、世紀の大発見ってのは。起こるべくして起こった。運命、みたいなヤツだ」最後は投げやりに返した俺に片桐は首を傾げたままだった。その顔は白く、まるで死人のようだ、とぼんやり思う。
死人。
生きていない顔色をしている片桐を見ていると、何かが頭に引っかかる。
その感覚がどうにも気持ちが悪く、俺は指で上を指した。「続きは屋上で話そう。普段から屋内なんだ、休憩中ぐらい陽射しを浴びた方がいい」と提案してみるが、片桐は動かない。ぼんやり立ったままぼんやりと俺を見ている。そして、ぼんやりと口を開く。
「私は、ドラゴンを刻みたかったわけじゃないんだ。
少しでも彼らを理解したかった。なぜ表社会に出てくることになったのか。今までどうやって暮らしていたのか。人間のことをどう思っているのか…」
……思考を閉じ、生じた疑問を殺すことで楽に生きていた俺に対して。片桐はいつも考えていた。自分のしていることの是非や、この研究の是非や、ドラゴンと人間の行き着く未来も、ずっと考えていた。
片桐は俺が忘れたものを今も忘れず持ち続けていた。
なぜ。どうして。あいつはそれを忘れていなかった。
なぜ? どうして? そんなふうに考え始めたらすべてのことに疑問を持ってしまう。納得のできる答えを探してしまう。数式の問いかけとは違いそう簡単にはない答えを求め続けるなんて、そんなのは、しんどいだけだ。だから、何も、考えない方がいい。その方が楽だ。俺はそうやって思考を閉じた。その方が楽に生きられるから。
考えても答えのでないことについて思考を割くな。そんなことは無意味だ。俺は黙って目の前の数式を解いていればそれでいい。
毎朝の会議で語られる『ドラゴンの危険性』『人類にとって脅威となる個体能力』…。そういったものを繰り返し聞かされているうちに、1+1は2であるという常識のように、俺の中で『ドラゴンは危険な生き物だ』という式が出来上がっていた。
片桐。問われればテンプレのごとくドラゴンの危険性について答え、暴れるドラゴンに麻酔を打つ手にも迷いのなかったあいつは、それでも疑問を持つ思考を忘れてはいなかった。
だからこそ。完成形でありながらもNo.014という処分体が出たときに、まだ生きられるそいつに殺処分の命令が下ったときに、一人だけ顔を顰めたんだ。
そのときから、嫌な予感はしていた。
そしてそれは最悪の形で当たってしまった。
「吉岡」
呼ばれて意識の焦点を合わせると、そこは屋上だった。片桐はそこでいつからか吸うようになったタバコを吹かしていた。
風はなく、天気がいい、と感じるのに空はどこか白く、陽射しというやつも遠い。
ふう、と煙を吐き出した片桐が気怠そうにこちらを一瞥する。その白衣の一部に赤い色が付着していた。
おい、汚れてるぞ。白衣は汚れが落ちにくいんだからすぐに洗え。そんなことを言おうとして、その汚れが次々と白衣に飛び散っていくのを見て、憶えのある光景に、頭に手を添える。
片桐の白衣がどんどん赤くなっていく。そう、血で。
「これは夢だよ。私は死んだんだ」
タバコを落とし踵の裏でもみ消した片桐は気怠そうに言って、赤く染まった白衣姿でこちらを振り返る。きれいな顔は死人のそれで温度などない。「死人を夢に見るほど弱ってるのか」片桐はそうぼやいて肩を竦め、汚れた白衣のポケットから、まったく汚れていない一冊の本を取り出した。『ドラゴン学』だ。
死人。
言葉が出てこず、俺はしばらく本を眺める片桐を見つめていた。
いくつもの銃弾を受け、三階からの落下の衝撃に、砕けた
「…お前。死んだのか」
「ああ」
ゆるりと頷いて肯定され、俺は脱力した。
そうか。夢か。そうだよな。これは俺の都合のいい夢…。死んだお前に言いたいことがありすぎて、訊きたいことがありすぎて、夢にまでその姿を見てるに違いない…。
俺達の間に空白が訪れた。
俺は自分の言いたいことを頭の中でまとめていて、片桐はといえば、どこか白んだような空を眺めていた。その時間は随分長かった気もするし、ほんの数秒だった気もする。
「あいつ、逃げたろうか」
ぼそっとした声に、片桐が死んでまで逃した黒いドラゴンを思い起こす。確か
雷竜は翼もないのに空を飛ぶ。そのことから重力を制御してるのだろうと、研究対象としては取り合いだった記憶がある。もし人間が同じことをできるようになれば、翼もなしに空を飛べるようになる。そうなれば世界の常識を引っくり返す大発見になると、誰も彼もが語っていた。
だが、あの子供は埋め込んだ人工知能が上手く作用しなかった。「No.014か」殺処分が下された、最初の個体。
片桐が「そう言ってやるなよ」と薄く笑む。「名前もやれなかった。子供なのに、愛情もやれなかった。かわいそうなことをした」そう続ける顔から笑みが消える。僅かに眉間に皺を寄せた顔は、過ぎた過去を悔いているのだろうか。
俺はそんな片桐に少なからず驚いていた。まさか、自覚がなかったのか。
「お前、あいつのこと好きだったろう」
「…私が?」
「ああ。で、あいつもお前のことが好きだった。だから檻の外に出てもお前のもとにやって来たんだろ」
というか、それくらいしかないだろう。身を挺してお前があいつを守った理由。
お前はドラゴンのことが好きなんだよ。
愛情をやれなかったとか言ったが、愛なら、お前が充分与えたろう。少なくともあいつには伝わってる。あのときあいつが逃げずにお前のもとへ行ったのが答えだろう。
片桐は珍しく気の抜けた顔をしていた、ふ、と吐息するとくつくつと笑い出した。「そうか。そうだったか。気付かなかった」そうぼやくようにこぼすと息を吐き出し、白んだ空へと手を伸ばす。そこに別の世界の入り口があるように、片桐の姿が空の中へと消えていく。「おい…っ、片桐!」ちょっと待て。俺はまだ言いたいこと訊きたいことの一つも言えてないっ。
「あいつを。いや、ドラゴンという存在を、頼んだ」
ぼんやりとした声が、すぐそばで耳打ちされているようにこだまする。
屋上の淵まで走ったところで、片桐の姿はすでに空の中に消えていた。伸ばした手は虚しく宙を掻くだけで、何も掴めやしない。ましてや同じ場所に行くことなんて、できるわけもない。
「片桐聞かせろ! 俺はどうしたらいいっ?」
もうすぐこの空間も崩壊する。そんなことを悟った俺は、叫んでいた。死者に、もういない人間に、応えてくれるはずのない相手に、答えを求めていた。
「俺は、お前みたいにかっこいいことはできない。何かのために生きるとか、愛するとか。死ぬとか。頼むってなんだよ。なぁ、俺はこれからどうしたらいいんだっ!」
もう、何も考えず、研究に没頭することはできない。
片桐由比。お前は死んで、俺に目を覚ませと囁いた。容赦ない現実を叩きつけてまで俺の閉じた思考をこじ開けた。数式で割り切れないもので溢れている世界から俺を守っていた天井には風穴が空き、もう、見ないフリはできない。
はは、と笑った片桐の声が遠い。
ただでさえ白かった世界が完全な真白に染まろうとしている。
なんだ。本当に弱ってるな。死人に指針を求めるとは
私が決めていいのか? お前の未来だろう
だが、まぁ、それでも私が決めていいと言うのなら……
吉岡
お前は、私の代わりに、ドラゴンという存在を
肝心なところで言葉は途切れ、夢は終わった。
白んだ夢の世界は現実世界の陽射しの強さを表してのようだ。閉ざすことを忘れた窓からの陽射しが顔を直撃している。
ああ、俺の部屋だ。規定からはみ出すことのないものだけが置いてある、規範、みたいな部屋。つまらなくて面白みのない部屋。
陽射しから視界を庇って腕を伸ばし、そのままタブレットを掴んで引き寄せ、画面を点灯させる。まだ寝起きで霞んでいる視界で文字を綴る。
あいつの言葉を、忘れないように。憶えている限りのすべてのことを。
(最後まではっきり言っていけよな。だいたい想像つくけど)
トン、と画面に触れた指を離す。
自分の都合のいい夢でこの先を決めた俺を、お前は笑うかな。
けどな。もう決めたんだよ。
お前のやりたかったことは俺がやる。お前の意志は俺が継ぐ。
具体案? さっぱり浮かんでこないな。まぁ、なんとかなるだろ。…なんとかするよ。やれることをやってみる。
じゃあ、またそのうち。
また都合のいい夢を見たときにお前が笑えるように、ちょっと頑張ってみるよ。
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