3.
ほんの少し前まで、うちにはクリーム色の毛並みをした大型犬、ゴールデンレトリバーがいた。オスで、名前はゴールド。
わかりやすいというか、なんの捻りもない名前なんだけど、シンプルで俺は気に入っていた。子供の時分にも
もふもふした毛はあたたかい毛布のようで、抱きしめると心地よかった。
いつもひんやりしている黒い鼻も、べろべろ顔を舐めてくる涎まみれの舌も、垂れた耳も、アーモンドの形の瞳も、全部引っくるめて好きだった。
小さい頃からいつも一緒で、学校が終われば俺は一目散に家に帰ってゴールドと一緒に出かけた。俺は愛犬と一緒に野原を転げ回るような健康的な男子だった。
ゴールドは番犬としてはちょっと人懐っこすぎたけど、賢いやつだった。
俺がソファでうっかり寝たときには毛布をくわえて被せてくれたし、三つ違いの妹と喧嘩するといつも吠えて間に入って仲裁した。俺が寝坊した朝にはドアをカリカリやって起こしに来た。賢くて、温和な性格。
俺達は兄弟みたいに仲がよかった。
……俺はそう思ってたけど、ゴールドは、俺のことをどう思ってただろう。今となってはもう確かめる術のないことだけど。
幸せ、だったかな。それだけが今も気がかりで。
なんとなくテレビを眺めて去来した唐突な寂しさを誤魔化していたときも、友達と喧嘩して明日が嫌だなぁと気が重かった夜も、風邪を引いて寝込んだ一日も、テストを翌日に控えて気怠かった休みの日も。ゴールドはいつも俺のそばにいてくれた。
(ゴールド、お前は幸せだったかな)
俺が高校に入った頃から、足腰が弱って、長い時間散歩に行くことが難しくなって、散歩の時間はだんだんと短くなって、最後の方はおむつとかつけて家の中で過ごすようになって。
だんだん食が細くなって、毛艶もなくなって、あんなにふわふわでぬいぐるみみたいだったのに、気付いたらパサついて栄養の足りていないような毛並みになっていて。
餌皿を前にしても口をつけることが少なくなって。
痩せ細って、ついに何も食べなくなってしまったゴールドの口元を水で濡らす手が震えた。
せめて水だけでも飲んでくれと言っても、大きな舌でべろりと俺の手を舐めるくらいで、全然、飲んでくれない。
峠はこの二、三日でしょうと医者に言われて、俺は学校を休んででもゴールドのそばにいることを選んだ。
俺以外は自室で寝静まっていた、三日目の夜中のことだ。
ほとんど寝たきり状態になっていたゴールドがふいに頭を持ち上げた。
ゴールドのそばで小音量にしたテレビをつけてうつらうつらしていた俺は、こっちを見ているゴールドにどうした? と顔を寄せた。水がほしいのかもしれない、とペットボトルに手を伸ばした俺の顔をべろんと赤い舌が舐めて、その感触の懐かしさに目を細めたとき。ゴールドの頭は静かに床に落ちた。
ゴールド? どうした? と声をかけて、開いたままの口が息をしていないことに気がついた。
息をするのだってしんどそうだったゴールドが。最後の力を振り絞って頭を持ち上げ、俺の顔を舐めたんだと思ったら、涙腺は簡単に崩壊した。
夜中なんだってことを忘れて泣き叫んだ。
いくら呼んだって開いたままの目はもう俺を見ない。俺に鼻先を押しつけることはない。泣いてる俺の顔を舌で拭うこともない。
あいつは逝ってしまった。
老衰だった。いつかはくる別れだった。
人と犬では生きる時間の流れが違う。仕方がない。
そんな言葉はいくらだって聞いたけど、それで俺の寂しさや悲しさが癒えることはなかった。
(ゴールド。お前は幸せだったのかな? それだけが今も気になってる)
飛ぶ鳥にも、道を横切る猫にも、どこかの家で吠える犬にも、かつてのゴールドの姿を重ねては、お前は幸せだったかなって、そう考える。
老衰で逝ったゴールドにできるだけのことはしてやったつもりでいる。でも、もしかしたら、もっと別の道だって、とたらればのことを考えては、ゴールドにしてやれなかったことをしてやりたいと、見ず知らずの猫に餌をやったり、怪我をした犬を匿ったり…。
俺の声が子守唄にでも聞こえているのか、布団から顔を覗かせている黒い鱗のドラゴンの瞳は半分くらい閉じられて眠そうだった。
デジタルフォトフレームの中ではゴールドが空中でフリスビーをキャッチした写真が表示されている。これも、すごく練習したんだったな。ゴールドが、次こそは、って駆け出す姿、今も思い出せるよ。
「ま、そういうことなんだ。うん。だから俺は動物馬鹿だし、お前のことも助けたわけだよ」
一人頷いてフォトフレームをもとの位置に戻した。
……弱ってる命を放っておけなかった。
俺にできることがあるならしてやりたかった。
それが俺にできるのなら、幸せにだって、してやりたかったんだ。
そっと手を伸ばしてドラゴンの頭を撫でる。俺って人間に慣れてきたのか、ドラゴンは身動ぎすることもなくクルルル、と喉を鳴らしている。そういうところは、猫みたいだなぁ。猫は機嫌がいいとゴロゴロ喉を鳴らすんだよな。
ドラゴンが犬寄りなのか猫寄りなのか…気になるところではあるけど、まぁ、お前が元気になるならどっちだっていいか。
よし、ちょっと寝ようかな。腕も疲れたままだし。一時間くらいなら大丈夫だろう。枕に頭を預け直して「寝るよ。お前も寝るといいよ」とドラゴンの頭を撫でた。
起きたら、学校をサボった理由とか、ドッグフードが消えたことがバレた場合の言い訳とか、考えないと…。
温度のあるガラス細工のような繊細な手触りの黒い鱗を撫でて、指先を滑らせ、ざらざらした角を指の腹でなぞる。
No.014。
人工的に刻まれている数字のことを思えば、こいつがどこかから逃げ出してきたんだ、と仮定できる。さらに、逃げた理由を考えると、きっとそこが居心地のいい場所ではなかったからなんだ、とも思える。俺とこうして一緒にいる姿を見た限り、居心地のいいと感じる場所なら自分から外を目指そうとはしてないし。
じゃあ、こいつが『居心地のよくない』と思ってる場所に連れ戻されるようなことになったら…。それはとてもこいつの『幸せ』のためにはならないな、と思うわけで。
じゃあ、さ。こいつにとっての『幸せ』ってなんだろう。
ぼやっとドラゴンを眺めながら、俺にとっても、幸せってなんだろうなぁ、なんて考える。
よし、そこまでだ。
寝る前にこういうことを考えると寝れなくなるのは目に見えてる。思考をストップして、布団を被って、目を閉じて、眠ろう。
ちょっとうとうとするだけだからと、アラームも何もセットしないで寝たことが今日の俺の最大のミスだった。
ゴンゴン、と拳で扉をノックするような音に頭が揺さぶられて、ハッと目を覚ます。
「お
不機嫌。いや、棘があるだけで別段不機嫌ってわけでもないその声は我が妹のものだ。ヤバい。マズい。っていうか今何時。
枕元に放置していた携帯を掴んで目の前に持ってきて、ぼやけている視界で画面を睨みつける。……12時。お昼。学校のはずの妹がなんでうちに…。っていうか、ちょっと寝るつもりがとんでもなく本寝しすぎじゃない俺?
「メール見た?」
「あ? メール?」
なんのことかわからず携帯を確認し始めた俺に(面倒なので通知系はあとで一括消去するタイプ。俺の携帯はいつも通知で点滅しっぱなし)扉の向こうであからさまな溜息が吐かれる気配。「父さんから」「父さん? なんだって?」しかも母親じゃなくて父親からとはこれまた珍しい。
ようやく妹の言うメールを見つけた俺は短い文面に目を通した。『沖縄の支社への出張が決まった。急ですまんが、明日向かわないとならない。俺の荷物を簡単にでいいからまとめておいてくれ』……はぁあ?
がばっと勢いよく起き上がった俺に黒いドラゴンがぴょんと跳ねた。驚いたらしい。「ああ、ごめ…」言いかけて口を噤む。外には妹がいる。あいつはこういうことに敏い。隠し通さねば。
ゴン、と無遠慮なノックが繰り返される。妹は無言で開けろと言ってる。
布団から抜け出そうとするドラゴンを押し込み、厳重に布団を被せ直す。
さぁヤバいヤバい。マジでヤバい。さっそくのピンチだぞこれは。どうする。
「あーそれから、朝イミフに出てったっきりだから母さん心配してたよ」
「ちょっと用があったんだよ」
「学校サボるほどの?」
扉の向こうの妹の目がギランと光ったような気がする。きっと獲物を見つけた鷹みたいな目してるよあいつ…。どう切り抜ける?
妹は、なんでか知らないがこういう隠し事を見抜くのがうまい。
腹減りの猫にこっそり餌やってた俺から朝の食パンを没収したのは奴だし、ダンボールに入れて捨てられてた子犬を一日だけでも面倒見てやろうと部屋に入れたらその日のうちにバレた。お前には千里眼でもついてんのかって思うくらい妹は勘がいい。
まさかそこまでチェックしちゃいないはずだけど、棚にしまってあるドッグフードが箱だけ残して空になってることは否定できないぞ…。
なんとか会話を切り上げようと「たまにはサボっていいだろ。ほっといてくれ」と投げやりに言葉を投げつけるが、妹は引かない。
「高校三年生が何言ってんの。お兄はサボれるほど頭良くないし、大学行かないで就職するような意志だってないでしょ。
あたしは専門に進みたいけど、お兄はやりたいこともない。だったら素直に勉強して大学出て学歴だけでもキープしておきなさい。そのためには勉強。学校サボっていい理由なんて一つもない」
「うぐ…」
我が妹ながら正論で兄を看破してくる…。かわいくない…。
妹は、絵を描くのが趣味で、毎年季節ごとくらいにある? 同人活動のサークルとか、コミケとか、大きなものにも顔を出している。そっちの世界に俺は詳しくないけど、妹は真剣に絵を描きたいらしい。
暇があればペンタブ片手にずっと机に向かってるような趣味人だけど、妹はそれでも頭がいい。だから専門学校の進路も両親に反対はされてない。
そんな頭のいい妹に俺が言い返せることはそうないわけで。
頭のいい妹は機械にも強い。たとえば、この扉の電子ロックとか、朝飯前で解除してみせる。『セキュリティ反応あり』と告げた扉からの機械音声にヒヤリと背筋が冷たくなった。
俺が幾重ものパスワード(英数字)でロックしているこの部屋の扉、妹にかかれば十秒なしで突破してみせるぞ。
「あーわー勝手に入ってくんなっ!」
「だぁかぁら、父さんの荷物! 作るの手伝ってよ!
母さんまだ呑気にお茶してるらしくてメール見てないの。父さんが帰ってくるまでにあたしらで用意しとかないとなの。手伝って」
「わかったわかった行く、行くから」
電子ロックの施された扉は今にも突破されそうな感じでROCKの文字が点滅している。
俺はベッドを跳び下りて全力でドアノブを掴んだ。ここは通さん。
今お前に入ってこられたら困る。すごい困る。意地でも通さん…! 力なら男の俺の方があるはず!
と、意気込んだにもかかわらず、およそ十秒後には俺は妹に押し負けて部屋に侵入されていた。
…いや。これはほら。結構重いドラゴンを
そことなくショックを受けたけど早々に切り上げ、無遠慮にジロジロと俺の部屋を見回す妹の肩を叩く。「俺の部屋に父さんのものはないだろ」「そりゃあね。…お兄」「あんだよ」「何か、拾ってきてない?」ワントーン低い妹の声に背中にヒヤリと冷たいものが伝っていく。
反射で「ないない」と軽く返した自分、ナイス。
ベッドの方を、ドラゴンの様子を確認したい。ちゃんと布団被ってじっとしてるかどうかを。だがしかし、妹の視線に晒されている今このときにベッドを確認しようと意識を向けようものなら間違いなく勘付かれる。絶対に。それは避けなければ。
(イチかバチか…)
俺はなるべくダルさを装いながら、妹より先に部屋を出た。『父親の荷物作りに渋々付き合う兄貴』っぽく振る舞う。
「あー、父さんの黒いトランクどこだっけ?」
「……」
「おーい。思春期男子の部屋をジロジロ見ないでくれよ」
「………」
妹は、諦めたのか呆れたのか、どっちかよくわからない息をふっと吐くとくるりと背中を向けて俺の部屋を出た。パタン、と閉まった扉に自動でロックがかかる。
よし。成功だ。作戦は成功した!
妹は赤い長髪を鬱陶しそうに指で払いのけると一階を顎でしゃくった。「トランクと下着と寝間着一式は一階だと思うけど、スーツやら私服は二階でしょうね」「じゃあ俺トランクに適当に放り込んで持ってくるわ」「じゃ、あたしは部屋のロック突破して着替え出しておく」さらっと怖いことを言う妹に首を竦める。物騒だなぁ、もう。
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