虹の麓にいる君は
1.
ワン、という懐かしい声に振り返ると、クリーム色の毛並みが見えた。黒い鼻。大きな垂れ耳。ふわふわの尻尾がパタリと揺れる。
俺の家族だったゴールデンレトリバーが、ゴールドが、あどけない顔で舌を出している。
たったそれだけの夢から覚めて起き上がると、視界が滲んでいた。ぐい、とパジャマの袖で目元をぞんざいに拭う。
ピピピピという電子音を鳴らし続ける目覚ましを止めてのそりと起床、ベッドを出て、軽く頭を振った。…久しぶりに夢に出てきたな。元気そうでよかった。それで、そんなことを思う自分が我ながら馬鹿だなと思ったりする。
部屋にある鏡で自分の顔を覗いてみると、少しだけ目が赤かった。このくらいなら妹に見咎められたとしても寝不足って言い訳でとおりそうだ。
気分を変えるために陽光を取り入れようと窓を覆うカーテンを開けると、雨が降っていた。
んー? と首を捻って携帯端末に触れて天気予報の画面を呼び出す。本日の岐阜県飛騨地方の天気はお陽様マークだった。
今日は晴れのはずだけど、天気予報が外れるとか珍しい。近年になって精度が上がった天気予報はほぼ外れなくなって久しいのになぁ。
陽射しが入らないなら開けてっても意味ないな、と青い水玉のカーテンを閉ざそうとしたとき。しとしとと弱い雫を降らせる雲間から黒いものが落ちたのが見えて、閉じかけたカーテンをばっと開け放った。ついでに窓も開けて身を乗り出して外の景色に目を凝らす。
(なんだあれ)
保存のために自然林が残してある地区に黒いものは落下、すぐに視界から消えてしまった。
空から何かが落ちた。でも何が? 雨でも雪でも雷でもないぞ。可能性として高いのは、鳥、か? たとえば、翼を痛めた、とか。
そうだ、可能性としてはそれが大きい。何か生き物が落ちたんだ。
今朝の夢で尻尾を振ってこっちを見ていたゴールドを思い出すと、いてもたってもいられなくなった。救える命があるかもしれない。そう思うと自分でもどうしようもなかった。部屋着のスウェット上下を脱ぎ散らかして手早く制服に着替え、ブレザーを羽織って部屋を飛び出し、リビングではなく玄関へ直行。
「かいりご飯は?」
「いらないっ!」
母さんの声に大きな声を返してスニーカーに足を突っ込んで家を飛び出した。
携帯で自然林保護区までの近道と抜け道を表示させ、ナビに従って少し濡れたアスファルトの舗装路を疾走する。
天気予報が外れたことと、空から何かが落ちてきたってことを除けば、いつもと同じ朝だった。眠そうな奴、ダルそうな奴、友達と朝から盛り上がってる奴。今日はそこに色も柄も様々な傘の色が咲いていつもより目に賑やかだ。
学校へ向かう生徒の中に突っ込んで逆走してるのがアホらしいと気付いて、途中で一本中道に入った、ところでばったり学友に遭遇した。「おう
自然林保護区、という名前で立ち入りが制限されているここは、
すっかり息が切れてしまったので、膝に手をついてゼーハーと肩で大きく息をすること数回。少し胸が楽になって、ゆっくりと顔を上げる。
普段なら用なんてない白樺の白い幹が並ぶ景色を前にもう一度前後左右を確認して、動物避けの鉄線の柵を跨いで乗り越えた。人に見つかる前にと足元に注意しながら伸び放題の草をかき分けて進む。
監視カメラがあるわけでもない、あまり人の手が入っているとも思えない、伸び放題の草達。唯一少し手がかけられている白樺の樹林。その林の中に黒いものの姿を探して目を凝らす。
視界がどこか薄暗いのは、この自然林の枝葉と、今日の天気が薄曇りで、小雨が降っていて、陽射しがないからだろう。どうして予報どおり晴れなかったんだ。晴れていたらもう少し探しやすかったのに。
雨のせいで額にくっつく前髪を払いのけながら、黒いものを探して樹林の中を奥へ奥へと踏み入っていく。
ガサガサと草を踏みつけて分け入りながら、翼を痛めて飛べなくなっている鳥を想像した。
早く、手当てしてやらないと。
まだ春も始まったばかりで、今日の雨は冷たい。ただでさえ弱ってる鳥が雨で体温を奪われたらもっとマズい状態になる。その前に保護を。
…学校で授業を受けるときよりも、体育で
ぽた、と額から落ちた雫が雨なのか汗なのかわからないまま、目を凝らして黒い色を探し続けた。
途中で携帯が鳴って着信を知らせたのでポケットから引っぱり出すと、画面には『
再び携帯をポケットに押し込んだ俺は、早く見つけてやらないと、思う。気持ちが焦っていた。このまま見つけられなかったら、弱った鳥は雨によって衰弱死するだろう。冷たい雨に濡れて力尽きる命を思うと唇を噛まずにいられない。
「生きろよ。生きてろよ」
そう声をこぼしたのは無意識だった。
ポツポツと草木を打つ雨の音と、俺が草をかき分ける音。それ以外の音がした。何か、声のようなものが聞こえた。
その声が上から降ってきたように思えて顔を上げる。
下ばっか見て探してたけど、木に引っかかっているかもって可能性を考えてなかったな。もしかしたら、と白樺の林の中に視線を巡らせていくと、少し向こうで、枝と枝の間に引っかかっている黒いものを見つけた。
けど、それは鳥じゃなかった。
カラスじゃない。もっとでかい。ワシ? トンビ? そういうのでもない。
鳥じゃない。鳥じゃなくて、あれは。
「ドラゴン…なのか?」
ぼやいた自分の声が雨の中に消えていく。
ごくり、と生唾を飲み下した俺は、予想もしていなかった展開に固まってしまった体でゆっくりと拳を握り、開いた。よし、深呼吸、と大きく息を吸って、吐き出す。
雨の湿っぽさと緑臭い空気。白樺の林。伸び放題の草。俺は現実に立っている。
そう、これは、現実だ。
枝と枝の間に引っかかってるドラゴンは、全身黒っぽい色をしていた。頭の左右に角があって、ドラゴンと言われて浮かぶ象徴的な翼はない。それから、瞳が、不思議な色だ。何色にも見えるし、ときどき色が変わってる気もする。
俺にとってはゲームや漫画の中の存在だった『ドラゴン』って生き物がそこにいる。
近年になって空想上の生物ではないと認められたけど、個体数が少ないのか警戒心が強いのか、一般人が目にする機会はないに等しい。俺もニュースや特集番組、雑誌でドラゴンを知ってるくらいで、現物を見たのはこれが初めてだ。
じっと俺を見つめて動かない黒い色のドラゴンに翼はないけど、四足歩行の動物みたいに見えなくもないけど…たぶんドラゴン。だよな。うん、たぶん。
よし、もう一つ深呼吸しようか俺。
スー、ハー、と息を整えた俺は、一歩、木に引っかかっているドラゴンの方へ歩みを進めた。ぴょこ、と首を伸ばしたドラゴンの瞳がチカチカしている。
とりあえず、引っかかってるなら下ろしてやりたいところなんだけど、手を伸ばしたくらいじゃ届かないな。木に登ったとして俺の体重までかけたら白樺の枝が折れそうだし。そんなに接近したらドラゴンが警戒して火を吐く? とかするかもしれないし。
どうすべきか、と考えていると、ぱた、と視界の上から下へ何かが落ちた。
色がある。雨じゃない。血だ。このドラゴン、翼はないけど、怪我をして空から落下してきたみたいだ。
「お前、怪我してるんだろ? なぁ、俺の言葉わかる?」
物語の中の賢いドラゴンは人の言葉がわかったりするもんだけど、と考えて、枝に引っかかってるドラゴンに声をかけてみる。…うん、じっとこっちを見てるだけでピクリとも動かない。そう都合よく人間のドラゴン像が通じるわけないか。
負けじと見つめ返し、何色とも言いがたい瞳を見上げて考えに考え、「じゃあ、この腕の中に飛びこんでこいって、これでわかる?」ドラゴンに向かって腕を広げてみせる。ドラゴンは一つ瞬きしたくらいで、相変わらず俺を見下ろしているだけだ。
うん、反応がない。だよなぁ。わかるわけないよな。あのドラゴン見た目的に動物っぽいし。
さて、どうしよう。
怪我をしてる。手当てをしてやりたい。それにはまず枝から下ろさないとならないけど、手が届かない高さだ。
(一度ここを出て脚立か何かを持ってくるしかないか…。家の倉庫に適当なのがあったはず)
怪我しているドラゴンを見つけた、保護してやってください、と警察や自治体に届け出る、大人に頼る、っていうのは却下だ。
なぜか。
これは残念だなって思う現実だけど、人は、自分より優れたものに優しくできない。
ドラゴンは今その秘めた可能性故に人類の上に位置づけられ、狙われている。大人達にこのドラゴンの存在を知らせようものならどうなるかわからない。
人類とドラゴン、食物連鎖を支配するのはどちらなのか? そんな見出しの記事が踊ったことも一度や二度じゃない。
俺だって人間だ。物語の悪役のような凶暴で残忍なドラゴンが現れた日には、勇者が必要だとも思う。
でも、少なくとも、今目の前にしている初めての『ドラゴン』って生き物は、凶暴でも残忍でもない。むしろただの動物だ。怪我をしてるんだ。雨に打たれて弱ってもいる。助けてやりたい。
大人は大人の事情故にこのドラゴンを助けないかもしれない。それならまだ子供の俺が、大人の事情に知らん顔をできる俺が、俺のエゴのもとにこのドラゴンを勝手に助けて勝手に逃した、ってあとから怒られる方がずっといい。
「……生きろよ。いいな」
身動き一つしないドラゴンにそう声をかけ、来た道を振り返って脚立を持ってくる算段をつけ始めたところで、ガサリと頭上の木の葉が揺れるような音がした。ん? と顔を戻すと、盛大なジャンプをしたなめらかな黒い肢体がある。
え、嘘、と思ったときには黒い体はもう目の前で、俺は胸に全力アタックを受けて背中から派手に草の中に倒れ込んだ。
……今初めて鬱陶しいとしか思ってなかった伸び放題の草に感謝。おかげで地面に背中を打ちつけずにすんだ。「うー、いて…つか重……」衝撃に止まっていた息を吐き出して、頭だけ持ち上げて重いものが乗っかっている自分の体を見てみる。胸から腹にかけて黒いドラゴンが乗っかっている。ちゃんと鱗が生えてる。角も。…さ、触りたい。
そろーりと持ち上げた手をひらひらとドラゴンの前で振ってみる。リアクション、特になし。
そろそろ手を持っていって、ちょん、と鼻先に手の甲をくっつけた。リアクション、特になし。寄り目になって俺の手を見つめてるだけだ。
よし。いける。
そろっと指を伸ばして黒い鱗を撫でた。雨のせいか、それともドラゴンって生き物がこうなのかはわからないけど、ひんやりと冷たい。つるつるしてるな。ガラスみたい。
頭、撫でてもいいかな。角も気になる。
そろりそろりと手を伸ばしていって、特にリアクションがなかったことをイエスと受け取り、鼻梁を伝って頭に到達、耳の代わりみたいに生えてる角に触れてみた。こっちは木の枝みたいにざらっとして…。「なんだれこれ」不自然にでこぼこしてる部分を指でなぞる。なんでここだけ歪なんだろ。
ドラゴンが驚かないように、ゆっくりめの動作を心がけて上体を起こした。
ちょっと横向いて、と顔に手を添えて右に向かせて目に入ったのは、焼印。
角の左側、根本に近い部分に『No.014』って焼印が押してある。これは、明らかに人工的なものだ。
首輪とか足輪みたいなものは見当たらないけど、怪我のこともある。こいつはどこから逃げ出してきたドラゴンなのかもしれない。
ぷるぷると頭を振ったドラゴンにぱっと手を離した。角、重そうだけど、そういう仕種は犬猫と一緒だな。
「怪我。怪我だったな。よし」
肝心なことを思い出して、ブレザーを脱いで黒い体に被せた。ぱっと見たところ大きな怪我はないけど、冷えてるだろうし、誰かに見られるとまずいし、くるんだままでいこう。
よいしょお、と気合いを入れて持ち上げたのにふらつく。
このドラゴン、けっこー重い。決して俺がモヤシなせいじゃないぞ。こいつ、中型犬くらいの大きさで大型犬くらい重い。
気合いだ、頑張れ俺ぇ、と自分にエールを送りながら、えっちらぼっちら、小雨の林の中を町の方目指して歩いていく。その間ドラゴンはブレザーの間から鼻先を覗かせてこっちを見ていた。
大人しいな。ドラゴンってもっと手に負えないものなのかと思ってたけど。ああ、怪我で体力がないのかもしれないな。「別に、怖いこととかしないよ。手当て、したいだけ」言ったところでお前にはわからないだろうけど。
よいしょ、とドラゴンを抱え直して草を踏みしめ、ずっしりしたものを抱えながらアスファルトの舗装路まであと少しところで草むらに身を潜め、車や人が行き過ぎるのを待った。人の姿がないのを確かめてからえっちらぼっちら、鉄線の向こう目指して歩く。
……ここから家までどのくらいだろう。考えただけで腕が死にそうだ。
「お前、もうちょっと軽く、なんないのか…っ」
この重さに思わず唸りたくもなる。唸ったところで軽くなるわけはないんだけど。
よいせ、とブレザーでくるんだドラゴンを抱え直して、しとしとと雨の降り続ける灰色の塗装道を歩いていく。
なぜか、黄色いカッパを着てゴールドと散歩した懐かしい光景が目の前を過ぎった。それでなんでか少し力が湧いた。
もう後悔はしたくない。気になったことには全力で取り組む。そう決めた。だから、米袋のような重さを抱えて歩くことくらい、なんのその…と思いたい。
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