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「どうして…」


 そうこぼした自分の唇が震えているのがわかった。

 重力制御の力で夜の中に浮かび上がり、首を伸ばしてこちらを見ているのは、逃したはずのドラゴンだった。クルルル、と喉を鳴らして瞳をきょときょと動かしている。


(お前。理解してるのか。いや、理解なんてしていないんだろうな。現状なんて、状況なんて。お前がそれだけ賢ければ、処分命令なんて出なかったさ)


 私を含めた全員が、逃げたものだと思っていたNo.014という子供ドラゴンの登場に一瞬でも我を忘れた。一番に現実に立ち返ったのは私で「何してる、逃げろ。早く行け!」と声を上げるが、知能数の足りていないお前には通じない。小さな頭で首を傾げてみせるだけだ。

 予想もしていなかった事態に私は唇を噛んだ。まさかまだ手の届く場所にいたとは思わなかった。

 なぜここに来た。なぜ逃げなかった。檻の電子ロックを解除してからまだ数分とたっていまい。まるで私を探してやって来たかように時間に無駄はなかった。

 …まさか。私を探したのか? 暗闇も見通せるようになったその目で。生体反応を識別できるようにと私が手掛けたその目で、私を探したのか。

 なんのために。

 ……いや。動物並みの知能しかないお前には無粋な問いかけ、か。

 この子供ドラゴンは、私のことを、探したいから探したんだ。私が小さくはない覚悟をもってお前のことを逃がす選択をしたっていうのに、お前はなんて馬鹿なことを。

 まぁ、上に逆らってお前を逃した私にこんなことを言う資格はないのだが。


『捕らえるんだ。それが無理なら殺せ』


 警備員の無線から慈悲のない冷たい声が響いた。モニター室に詰めかけているだろう上の連中の顔が思い浮かぶ。誰も彼も機械のような人間で、私は役職上彼らに付き合ったが、彼らが血の通った人間だとは一度も思えないままだった。

 呆けていた警備員二人が私からドラゴンと銃口を向ける相手を変える。

 ち、と軽く舌打ちする癖がこんな場面でこぼれ出た。

 行儀が悪いと何度となく注意されてきた癖。意識して抑えていたんだが、最後のこのときくらいはよしということにしよう。



 小さくはない覚悟でもって、私はお前のことを逃がす選択をした。

 今もその思いは変わらない。

 お前は生きるんだ。

 この研究所にいるほぼ全員が『仕方がない』とお前の処分の決定を受け入れた。

 だが、私は、それを認めない。私だけはそれを認めない。

 なぁ。そうでもしないと、あんまりだろ。

 一人くらいお前にも味方がいなくちゃ。



 目の前に浮かぶドラゴンに慎重に近づきながら銃を構えている警備員、その一人に、私は肩から体当たりをかました。ドラゴン相手に集中していたんだろう、私の不意打ちに対応しきれなかった警備員が姿勢を崩す。私はもろとも倒れ込むように警備員の一人にしがみつくような形で屋上に転がった。

 手首を拘束されているせいか迅速な行動ができない。すぐに起き上がるつもりが腕をつくので精一杯で、一呼吸、行動が遅れる。

 子供ドラゴンがぴょこんと頭を上げた。忙しなく瞳を瞬かせている。

 もう一人の警備員が私に抵抗の意思があると取りこちらへ銃口を向ける。

 黒い穴。

 夜の中に溶けているその穴から私は地獄へと誘われている。


片桐かたぎりっ!」


 まるで悲鳴のような声が聞こえた。吉岡よしおかだ。今にもこちらに駆け寄らんばかりに必死な顔をしている。

 ここで私を庇えば吉岡まで反乱者の仲間入りだ。

 仲良くあの世へ、なんて仲でもないだろう、私達は。

 来るな、と睨む私に吉岡はかろうじて踏みとどまった。本当にかろうじて、状況を思い出す冷静さを取り戻した吉岡が「片桐、投降しろ」と言う、その震えている声に唇の端で笑って返してやる。

 もう、遅いよ。全部遅いんだよ、吉岡。…悪いな。

 ヴー、ヴー、とうるさい音がずっと鼓膜を叩いていて、耳がどうにかなりそうだった。

 私は倒した警備員を踏み越えるようにして子供ドラゴンのもとへ一歩踏み出す。

 この騒ぎだ。早くしないとドラゴン達まで投下されるかもしれない。そうなったらもうお前を逃がすことは難しい。少なくとも、私にできることはなくなる。あとの味方は今夜の暗闇くらいだ。お前の夜色の鱗がこの闇に紛れてくれれば。

 さっさと行け、と願う私は、子供ドラゴンを警備員の銃口から庇える位置で駆け出した。

 ドラゴンを殺すのならまず私を撃たなければならない。

 私はただの人間だが、肉の盾くらいにはなれる。

 ドン、という銃声が警報の音を一瞬だけかき消した。

 脇腹の辺りが燃えるように熱くなったが、無視した。まだ走ることはできた。

 クルッと鳴いて走り寄る私に瞬きを繰り返す、馬鹿で子供なドラゴン。なんの罪もないのにその生をグチャグチャにいじられた、生き方も、未来も奪われた、かわいそうな子供。


 誰もがお前に死ねというのなら、

 私だけは、お前に生きろと言おう。呪いのように、そう願い続けよう。


 再び響いた銃声は、今度は私の太腿を貫いたようだった。ガクリ、と足に力が入らなくなり転びかけたがなんとか堪え、歯を食いしばり、私を案じているかのように小首を傾げてこちらを見ている子供ドラゴンの体に腕を回す。

 発砲音。私が倒した警備員も起き上がったのだろう、何発もの銃弾が私を壊していくのがわかる。あまりの痛みに呼吸が止まる。だが、意地でも、研究員として、人間として、思考だけは止めない。

 空は相変わらず暗く、光はない。

 私は急速に壊れていく体で屋上の鉄柵に身を乗り出し、ドラゴンを抱きしめたまま落下した。

 …このドラゴンは本当に子供で、馬鹿だから。私と一緒にいられるこの一瞬に喜んでいるようにさえ見えた。


(バカだなぁ。本当に)


 お前は自分以外の体重を支えて飛ぶことなんて知らない。私はこのまま地面に激突するだろう。お前はきっと無事でいられる。だが私は。壊れかけたこの体ではもう。

 落ちながら、思った。じっとこっちを見ているお前に、ふいに納得した。

 ああ、そうか。

 お前。私と一緒に行きたくて、私を探していたのか。それで、私と一緒にいるこの今に、少し嬉しそうな反応をしてみせたわけか。 

 ……馬鹿だなぁ。本当に。

 どう足掻いても、私は、お前と一緒には。いけないよ。




✜  ✜  ✜  ✜  ✜




 ドン、か、バン、か、あるいは二つを合わせたような鈍い音が狭い敷地内に響いた。

 小さくはない音だったが、ヴー、ヴー、と警告音を発し続けているその中では掻き消されてしまうような音。

 一匹のドラゴンを庇って多くの銃弾を受け、さらに落下の衝撃からも庇った青年、片桐の体は砕けていた。

 彼にすでに息はなかった。夜色のドラゴンの目にはそれが映っていた。

 だが、ドラゴンはぎりぎりまで動かなかった。


 いきろ


 最後にそうこぼして息絶えた片桐をじっと見つめて、力のないその腕の中から一ミリも動こうとしない。

 しかし、施設外へと出てきた警備の人間と白衣の人間の姿を認め、おののいたように夜の中に飛び上がる。

 夜の中へ、夜色の肌が舞い上がれば、人の目では見分けることは難しかった。それでも逃がすものかとばかりに銃が乱射され、そのうちのいくつかが身体を掠めたが、ドラゴンは飛ぶことをやめずに施設から遠ざかっていく。

 最後に名残惜しそうにクルルルと鳴いて円を描き、決して好ましい場所ではなかった建物を振り返って。確かにそこにいた青年を思い出して。ドラゴンは今度こそ光に背を向けて夜の中を舞う。

 子供ドラゴンには、行く宛もなく。

 寄る辺をなくした子供に、生きる目的もなく。

 ただ、生きろと遺した、彼の意志を汲むために、名前もないドラゴンは夜を行く。



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