カルミアの追想

アリス・アザレア

プロローグ 

生きろ、という呪いの言葉を君へ


 自分で思うに、私は、罪を犯し続けることに、疲れてしまったのだろう。


(ああ、そうさ。こんなバカげたことを思うのは疲れているからに違いない。私が心身ともに健康で、何事もなかったなら、きっとこんなことはしなかったろう…)


 時刻は午前二時を少し過ぎたところだ。

 現在地は、人気のなくなった深夜の研究所。

 閉鎖的なこの場所には窓らしい窓もなく、廊下はただのっぺりとした壁が続くだけ。

 つまらない景色しかない研究所の廊下を歩き、階段を上がり、屋上へと出ると、まだ肌寒さの残る風が白衣の裾を揺らしていった。

 白衣のポケットに手を突っ込んでタバコの箱とライターを取り出す。

 付き合いとして上の人間とタバコの煙の中で話をする機会が多く、その場にいなければならない身としてはどうにも手持ち無沙汰だったので吸い始めたのがきっかけだが、すっかりこの薬物が手離せないからだになってしまった。

 三大有害物質。ニコチン、タール、一酸化炭素をたっぷりと含んだこの毒物は、がんや心筋梗塞、気管支ぜんそくや糖尿病、その他もろもろの病気を誘発するとも言われている。

 人体にとって毒でしかないものが現代でも嗜まれ続ける理由は、タバコにはストレスを軽減する効果があるから、らしい。科学的な証明がされたかどうかまでは私は知らないが…確かに、こうしてタバコの先端に火をつけて煙を吐き出す行為は悪い気はしない。その場から離脱したいときにタバコを理由に席を外すことができるのはかなり助かっているし。

 ふぅ、と夜の中に煙を吐き出す。

 タバコのぼんやりとした赤はジリジリと私の指へ迫っては、灰となってポロリと落下し、風に吹かれてどこかへと消えていく。

 私が二本目のタバコを取り出したところで、背後の扉が開く音がした。人の出す靴音も。一人分だ。言ったとおり、一人で来たらしい。


片桐かたぎり。なんだ話って。こんな時間にこんな場所で」


 仏頂面を声にしたらきっとこんなふうなのだろうと思う不機嫌そうな声。

 二本目のタバコに火をつけて振り返る。

 私が呼び出した同期の吉岡よしおかまことは真面目な奴だ。

 規則からはみ出すことのない服装と髪型。与えられた仕事をしっかりすべてこなし、そのことに疑問を抱かない。仕事と私事をしっかり区別する。命令するだけの人間にとっては吉岡ほど使いやすい男はいないだろう。それだけに彼のこの先が危ぶまれる。

 お前は気付いていないかもしれないが、この研究所は、我々は、かなりマズい立ち位置になっているんだよ。


「君は私の友人と呼べる唯一の人間だから、お別れを。先に言っておこうと思ってね」

「はぁ? 何言ってるんだ、お前」


 私の言葉に吉岡はわかりやすく顔を顰めてみせる。それから私のタバコに手を振って拒否を示した。「やめろよ、受動喫煙になるだろう」と言われて肩を竦めてタバコを落とし、靴の底でもみ消した。吸い殻はちゃんと拾って携帯灰皿の銀の容器の中に押し込む。

 タバコともこれでお別れだろう。付き合いのために始めたものだったが、まぁ、悪くはなかった。

 腕時計で時刻を確認する。午前二時十分。「悪いな、吉岡」ぼやいた私に吉岡はどんな顔をしたろうか。「……なんだよ。どうかしたのか。研究で失敗でもしたか?」気遣うように不機嫌さの抜けた声で、その表情が思い浮かぶ。

 ああ、そういう奴だ。知っている。純粋培養されたみたいに無駄なことをしてこなかった吉岡という男は、この研究が『人類のためである』といううたい文句をまだ信じている。


「失敗か。そうだな、そうかもしれない。私は、失敗したんだ」


 失敗。そう言われれば確かにそうだ。私は失敗した。それは明らかだ。

 自分の非を認めた私に吉岡の声から棘がさらに抜ける。


「…お前さ、稀に見ぬ天才だって、チヤホヤされてるだろ。おまけに見目麗しいときてる。ちょっとの失敗くらい誰かがカバーしてくれるさ。

 お前は自覚しちゃいないみたいだが、かなり人気あるよ。男にも女にも。カバーしてくれた奴にちょっと色目使えばそれで解決だよ。そこまで心配することはない」


 くっ、と笑みをこぼした私に吉岡は眉をつり上げた。

 あいつは真面目に私を慰めようとしているんだろうが、なんだかな。おかしいな。

 …おかしいな。

 こんなことになるなんて、いつから道を間違ったかな。私は。私達は。

 ふう、と息を吐いて白衣のポケットに手を突っ込み、空を見上げた。くらい。ここは人目につかない山奥で、本来なら降るような星のきらめきに恵まれているはずなのに、一つの光も見えない。月もない。曇っているんだろうか。それとも、これは私の疑問に応えているんだろうか。人類の歩む道を示しているんだろうか。



 近年になって確認された、食物連鎖の頂点に君臨する生物『ドラゴン』。物語やゲームの域を出ることのなかったその生物が確認され始めて何年かが経過した。

 そう、カモノハシだ。

 ドラゴンという空想上の生物が現実のものとなったとき、私は一番にカモノハシを思い出した。くちばしを持っているのに哺乳類であるというその生物も、発見された当初はなかなかその存在を信じてもらえなかったものだ。

 ドラゴンもそうだ。

 発見され始めた当初はよくできたCG映像だとかドッキリ動画だとかさんざんに扱われ、今でこそ世界は『ドラゴンは実在しているらしい』という認識の仕方をしているが、これまで人間と接触しないよう隠れて暮らしてきたドラゴンのことだ。そう簡単に人前に姿を現すことなどない。

 だが、世界のドラゴンについての記録を紐解けば、すべては明らかだ。

 今や食物連鎖の頂点に君臨するのは人間ではなくドラゴンだ。

 人類は、そのことに

 個体としての能力に優れ、人より寿命も長く、噂によれば人語を理解し話すドラゴンもいるという。

 炎を吐き、ときには天候を操り、自然を味方につけることもできる…本当か嘘か判断のつかないような情報もくっつき、人間の想像力により肥大化したドラゴン像に、各国の政府は密かに対策に乗り出した。彼らは自分達より優れている種族を素直に認めることなどできなかったのだ。

 私や吉岡はそんな日本のドラゴン研究機関に所属し、密かに『対ドラゴン策』を練ってきた。

 被害妄想のたくましい人間が声高に叫んだ、『ドラゴンが人を害した場合』の制裁方法を、彼らと友好関係を結ぼうとする前に、考えた。

 …人間は残酷だ。そういう生き物だ。『人類のため』という大義さえあれば戦場での大量の殺人や殺戮は『英雄』という言葉に書き換えられ、新薬のテストをマウスで行うのは当たり前。それでマウスが死のうが生きようが苦しもうが、どうでもいい。結果的に人類の貢献に繋がれば、過程で苦しんだもののことなど、どうでもいいのだ。

 

 人類のためなら。自分達のためなら。ドラゴンという生物が苦しもうが死のうが、どうでもいい。だからこんな非道なことができたのだ。



「私は、この研究が人類のためであると思っていたんだ。彼らと対立せず、ともに生きていく道を模索するものだと思っていた」


 ぼやいた私に吉岡は眉間に皺を寄せた。私の表情を探るように視線が向けられる。

 やがて私の言葉が理解不能だと思ったのか、彼は私から顔を逸らした。


「考えてみろよ、片桐。あいつらには言葉なんて通じないじゃないか。

 海外では実害も出てる。ライオンより質の悪い獣だよ。日本だっていつまでも対岸の火事で傍観してばかりいられない。対策を練るのは当然だろ」

「……と、お前は本気で思っているのか? ドラゴンを切り刻み、生物として禁忌とされたすべてを施すことが、当たり前だと。お前は本気で思っているのか」


 吉岡は私からさらに顔を背けるようにした。彼は言葉を探していたようだが、結局見つからず、私達の間には春の夜風が吹き抜けていく。

 私は別に吉岡を責めたいわけではない。ただ、気付いてほしかった。自分がしていることの大きさに。

 彼は純粋に研究に没頭していた。自分のしていることをデータとしてしか見れていない。それがどういう現実なのかが見えていない。

 スモークガラスの向こうでは声なき声で苦しむドラゴンの姿があるのに、ガラスの向こうから機械のアームを動かしその体を切り開く彼には見えていない。苦痛に歪むドラゴンの顔も、溢れる血の赤も。

 たとえ苦しむことになろうとも、私は彼に気付いてほしいと思っている。自分のしていることの重さを。

 私は時刻を確認する。午前二時十五分。

 長く言葉を探していた吉岡は、やっと何かを見つけたらしく、顔を上げて私を見た。


「この研究ももう終わりだ。政府は対ドラゴン策よりも瘴気しょうきの方が重要だと判断した。この研究所の予算は大幅カット。これ以上新しいことは始まらない。お前が気にしてるようなことは起こらないさ」


 …吉岡は、逃げることを選んでいた。これ以上考えないですむように。

 私はそれが悲しかった。

 過去はなかったことにはならない。決して。

 我々が我々のために身勝手にドラゴンを切り刻み非人道的な行為をしてきた事実はなくならない。新たな犠牲は生まれなくなるが、それは言い訳でしかない。我々の手はドラゴンの血で汚れた。たとえ物理的にそんな事実はないとしても、我々は確かにドラゴンの命を刻み、苦しめ、その存在をあるべき姿から貶めたのだ。


「吉岡」

「なんだ」

「逃げないでくれ。どうか。現実を見てくれ。頼むから。これは私からお前への最後の頼みだよ」

「……なんなんだ片桐、さっきから。別れを言っておきたかっただとか、最後だとか、意味がわからないぞ」

「…すぐわかるさ」


 私が笑うと吉岡は逆に仏頂面で不機嫌になった。私のこういう思わせぶりな態度が嫌いだと言っていた気もする。

 最後まで私は私以外にはなれなかったが、お前は、きっと、変わってくれよ。




 そして、午前二時二十二分。

 私が設定した時間ときが訪れた。




 耳をつんざくような警告音が研究所にあるスピーカーというスピーカーから発せられ、吉岡はその暴力のような音に表情を変えて身構え、私はただ凪いだ気持ちで空を眺めていた。

 二時二十二分。語呂がいいからと選んだ時間に警報はきっちりと鳴ってくれた。今頃アイツは研究所という檻の外に飛び出している。

 別に、三時三十三分でも構わなかったが、私は奇数より偶数が好きでね。深夜で偶数の時間帯なら二時が濃厚。理由はそれだけだ。

 吉岡は緊急事態を知らせる警報に研究所内で使えるPHSを白衣のポケットからひっぱり出した。どこかに電話をかけて確認を始める。その間も警報はうるさく鳴り続けている。

 吉岡はわざわざ通話をスピーカー仕様で私にも聞こえるように変更した。「何があったんです!?」警告音に負けないようPHSに向かって噛み付く吉岡を眺める。

 頭が堅いというか、真面目な奴だったが、どうかこの現実に、折れず、逃げず、向き合ってくれることを願う。


『緊急事態発生! No.014が研究所内より脱走っ!』


 PHSで繋がっている場所もかなり騒がしい。モニタールームだろうが、青い顔をした研究員が忙しなくキーを叩いていることだろう。『現在地はどこだ』『それが、反応が日本各地からあります。東京、愛媛、石川、沖縄、北海道…どんどん増えています』『何? どうなっている…』困惑したような声に唇の端をつり上げて笑う私に、吉岡はすっと無表情になった。奴はようやく理解したのだ。私がしたことを。

 私が半年かけて作ったダミープログラムだ。いかに優秀な研究員の揃う場所とはいえ、そう簡単には破壊もできないし、どれが本物かなど見抜くことはできないだろう。

 私はずっと片手に持っていた本を吉岡へと放り投げた。弧を描いて宙を待った本を吉岡が片手でキャッチする。『ドラゴン学』そう題されたあの本は、ドラゴンと交流し、友好を深めるべきだ、と書いている本だ。

 私はあの道をいきたかった。

 吉岡は無言で通話を切った。やりきれなさを示すようにPHSを屋上の床へと叩きつける。


「お前が、やったのか。片桐」


 怒りを殺した静かな問いかけに、私は笑みを浮かべることで答えとした。

 No.014。

 名前を与えられることのなかったそのドラゴンは、雷竜らいりゅうの子供だった。まだ未熟故に本来の生息域から外れて地上に落ち、人に捕らえられた、かわいそうなドラゴンの子供。

 黒い鱗はガラスのように艷やかで、もともとは爬虫類色であった瞳は今は虹色の虹彩を放つ人工的な瞳となった。

 体を切り開かれ、脳を掻き回され、人工知能を植えつけられたかわいそうな子供は、人に従う命令をうまく処理することができなかった。それはドラゴンが子供であったためかもしれないし、精一杯の抵抗かもしれない。

 人工知能を植えつけられ人の制御下に置かれたドラゴン。しかし、No.14は度々命令を無視し制御下を外れた。度々メンテナンスが入り、頭を灼かれる痛みにドラゴンは苦しんだ。そして、今回の予算カットに伴い、微調整で金をかけている暇などないと、上の連中はこのドラゴンの『処分』を決定した。

 たとえば、肉体が欠けても再生可能な体。

 たとえば、周囲の環境に応じて自身の姿を変化させる擬態化能力。

 たとえば、強化した重力制御の力。

 野に放つには危険な能力をいくつも保有したこの子供ドラゴンは、いつの日か、人間がドラゴンを駆逐するための生物兵器として密かに開発され、そして、処分が決定された。

 ……あまりにも身勝手だと。私は人間に怒りを憶えた。

 今も、私の中ではふつふつとした怒りが腹の底辺りで煮えている。


「なぜNo.014を逃した」

「なぜ? それなら問おう、吉岡。お前はなぜNo.014の処分を受け入れた?」

「それが上の命令だからだ」


 一秒の迷いもない答えは吉岡らしく、私は肩を竦めて返した。

 もはや是非もない。

 これが私の出した答えで、それがお前の示した答えだ。

 荒々しい足音が階段を駆け上っている。

 私がやったのだということはカメラの記録を辿ればすぐにわかることだ。No.14に接触できた人間はそう多くはない。権限があり、そして反抗意思があったのは私のみなのだから。

 研究所に寝泊まりしている警備員が拳銃を片手に屋上に飛び込んできた。最初から抵抗する気のなかった私は静かに両手を頭の上に上げ、黙って拘束され、両の手首に手錠をかけられた。

 鈍い色の拘束具を眺めて自嘲気味に笑う。

 これでいいさ。どんな尋問をされようが、私に言えることはすでに起こった結果のみ。逃げたお前の居場所など、私だって知るはずがない。

 研究所は血眼になってお前のことを捜すだろうが、お前だって、こんなところは嫌いだろう。逃げたはずだ。外へ出られたんだから、できるだけ遠くへ逃げたはず。

 警備員に背中を押され、黙って一歩踏み出したときだった。それまで唇を噛んで拳を握っていた吉岡がぽかんと間の抜けた顔をした。そしてその口から「No.0614…」という言葉がこぼれて、まさか、と振り返って、私は目を見開いた。

 夜の中に浮かんでいる虹色の虹彩の瞳が二つ。

 月の光のない今夜、その黒い体は闇に紛れ、まるで瞳だけが浮いているようだった。

 だが、私には見えていた。首を伸ばしてこちらを見ているあの子供の顔が。撫でてやれば目を閉じ、喉を鳴らす、子供の顔が。

 No.014。名付けられないままに処分の道を言い渡され、その道から私が少なくない覚悟を持って救い出したのに、子供のドラゴンは逃げることなく私の背後に浮かんでいた。



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