第1話

7月12日。晴れて夢だった消防士になってからまだ3ヶ月とちょっと。トレーニングを兼ねてのランニングもずっと続けている。が、最近はそれすら無意味に思っている。

内心、というか顔に書いていると言われたが、本当に仕事のやる気が起きない。自分の夢見ていた消防士の仕事とかけ離れていたからだ。毎日毎日朝から晩までトレーニング、出動準備の練習、書類の整理、当番制で食事を作ったり。専門学校には通ったので、消火以外の仕事もすることは分かっていたが、それにしても火事も救急要請もなさすぎる。消防士としてした仕事は、地域の幼稚園に避難訓練の手伝いをしに行っただけだ。なんだか笑えてくる。

なにもないのには仕方ない面もある。自分の就いた職場はいわゆる過疎地にある。元々の家が、人が少ない。そのくせすぐ近くに割と大きな病院がある。そのため自分たちで病院に行ったり、見守り合いができている。

住民同士できちんとコミュニケーションを取れているのは素晴らしいし、立地条件もいい。でも、僕の夢はどうなるのだ。消防士になって、人を助けるという夢は。


ーー人助け?

人を助ける前に、自分が助けられてしまった。

しかも身体を使ってとかじゃなく、声で。そんなことってあるんだ。脳筋の僕を根底から覆された。

いつもなら駆け上がる石段の、その118段を今日はソロリソロリと登る。あのすべてを震わすような声が大きくなる。


「…君のすること 間違ってない♪」


歌詞までいい。素晴らしいシンガーだ。と感嘆の溜息をついた途端。


「そんなことない 周りよく見ろ 考えろ♪」


…透き通った美しい声には似つかない毒々しく刺のある歌詞。曲のチョイスが間違っているのではないかとさっきとはまた違う溜息が出た。

「…誰?」

ふと気付いたら目の前には神社の本殿が。その前には華奢で、綺麗な黒髪ミディアムヘアの少女が。いつのまにか僕は118段を登り切っていたのだ。

「ああ!盗み聴きしてごめんね。」

慌てて言ってしまったが2秒で後悔した。

「…盗み聴き。」彼女が怪訝そうな顔つきになる。色白の綺麗なおでこと眉間にくっきり皺が入る。明らかに嫌だという顔だ。

「たまたますぐそばを走ってたら君の声が聴こえて、その、ここまで来ちゃったんだよ。ごめん…」

「あたしの歌声を聴いて、ここに来たの?」

彼女の顔が綻ぶ。さっきの嫌悪感がまるで嘘のようだ。

「そうだよ、聴いた瞬間身震いしちゃったよ本当…」

言い切らないうちに、僕のところまで駆け寄って、手を握ってきた。白くて細くて柔らかい。

「お兄さん、本当に?!本気?!嬉しい!」

その幼げな笑顔にドキっとする。どう見たって自分より5つは下だぞ、犯罪だぞ、と自分に言い聞かせる。

くるくるとターンをしながら、少女は境内の側に戻る。犯罪者にならないことを心に決めながら、僕も歩みを進めた。

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