第3話 brillante~華やかに~

 着任式の翌日、今日から通常授業が再開となる。朝のホームルームが終わった途端に各練習室へ移動を始める生徒たち。

「今日は1日ピアノの実習ばかり…」

 そう言いながら項垂れる美穂に私は呆れるしかなかった。

「ピアノ専攻なんだから当たり前」

「でもさ、たまには違う楽器やりたい」

「他の楽器やるくらいならピアノやりたい」

「侑は真面目過ぎる」

「そうじゃない、練習しないとやばいから」

「なにがやばいの? 練習でも完璧な演奏してるじゃん」

「完璧なんてないから…」

「それ、嫌味にしか聞こえない」

「そんなつもりはない」

「もうやだ、この優等生」

「…置いて行くよ?」

「えっ、待ってよ!」


ピアノがもっと上手くなりたい

音大を目指している

将来はプロになりたい

音楽に関わる仕事がしたい

 音楽学科だけでなく、芸術学科、スポーツ学科に進学してきた殆どの生徒がある程度の『夢』を持っている。だから、その夢を叶えるための努力をするのは当たり前。

サボりたい

休みたい

辞めたい

そんな事を思う奴はレベルが低いとさえ思う。

「だったら辞めちゃばいいのに…」

「えっ? 何か言った?」

「ううん、何でもない」


+++


 1限目は演奏実習。机の代わりの1人1台のピアノ。でも、さすがにグランドピアノではなく、アップライトピアノを使用する。

「あっ、椿先生だ!」

「えっ」

 どうして椿先生がここに? この授業は森先生が担当のはずなのに…

「皆さん、おはようございます」

「おはようございます」

「この授業は本来、森先生の担当ですが今日から暫く授業見学をさせて頂きます」

 今はなるべく椿先生に会いたくないのに、まったく運が悪い。少し経ってから森先生がやってきてさっき椿先生が話した事をもう1度説明した。

「では、そう言うことなので皆さん宜しくお願いしますね」

「はい」

「はい、では本日の課題曲を配ります」


「うわぁなにこれ難しそう」

「美穂?」

「侑、これはやばい」

「いいから早く楽譜ちょうだい」

「はーい」

 ショパンの練習曲 第9番『蝶々』 変ト長調

「…難しそう」

「だよね…」

「曲自体は短いけど……大変」

「侑がそんな感じなら私には無理だ」

「そんなことないよ、とりあえず練習しよ?」

「成瀬さんの言う通りだよ」

「…っ!」

「そんなに驚いてどうしたの侑?」

「なんでもない」

「急に声掛けちゃったから、ごめんね?」

「…いえ」

「美穂さん、さっき成瀬さんも言ってたけど、無理なんてことはないよ?練習すればきっと上手く弾けるから。頑張ってね」

「椿先生優しいー、頑張ります」

「うん、頑張って」


 美穂と椿先生の会話には入らず、もう1度楽譜に目を通す。この曲はまだ練習したことないけど、やってみたいとは思ってたから授業でやれるなら丁度良い。初見でどこまで弾けるか試してみよう。

「凄い…侑もう弾けてる」

「やっぱり成瀬さんは別格だよね」

「うん、私たちとは違う」

「さすが天才」

「練習したことあるんじゃない?」

「あー、確かにそうかも」

「でも、それにしても凄過ぎるよ」


 いろんなところから聞こえてくる声。天才なんかじゃない、別格でもない、さすがでもない。ただ人よりも練習してるだけ。失望されないようにプレッシャーに負けない様に、ただひたすらに練習してるだけなのに。

「さすが、成瀬さんもう弾けるのね。この曲やったことあるの?」

森先生の一言でクラス全員の視線を浴びる。余計な事を…

「…いいえ」

「あら、じゃもしかして初見?」

「はい」

「さすがだわ! 皆さんも成瀬さんくらい弾けるように。課題曲発表は1週間後ですからね」


「えっ、この曲を1週間ですか?」

「1週間で仕上げるなんて無理です!」

「コンテストの練習もあるのに…」

「できないと言ってる間に少しでも練習しなさい」

「…はい」

 周りから向けられる視線にはとても暗い感情が含まれていて、どうして私が悪者みたいにならないといけないんだと寂しくなる。それに、課題曲は家で練習すればなんとか形にはできるだろうから放課後はコンテスト練習に専念しよう。

「本当に上手なんだね」

「えっ…」

「あ、ごめんなさい。また急に話し掛けちゃって」

「いえ…」

「ピアノいつからやってるの?」

「覚えてません、物心ついた時にはもうやってました」

「そうなんだ、じゃ歴はかなり長いんだね」

「…はい」

「…練習の邪魔しちゃってごめんね」

「いえ、大丈夫です」


 椿先生は会話中ずっと相手の瞳を見て話す人だ。目が合うと優しく微笑みかけてくれる。大きくクリッとした綺麗な瞳。あの瞳に見つめられ続けたらいつか引き込まれてしまいそうな気がする。

「瞳…綺麗」

「えっ…」

「えっ? あっ…」

「嬉しい、ありがとう成瀬さん」

「あっ…いえ、すみません」

頭の中で考えていた事がまさか声に出てたなんて。無意識だった。恥ずかしすぎる。

「成瀬さんも綺麗な瞳してるよ?」

「えっ…」

「瞳だけじゃないよ、着任式の時に初めてあなたを見て綺麗な子だなって思ったの」

 熱い。顔も体も全身の温度が一気に上がっていく気がする。痛い…胸が痛い。本当にこの人に心臓を掴まれてる感じがする。違うこれはそんなんじゃない。変に意識し過ぎてるだけだ

 絶対『好き』とは違う…違うんだ!


「成瀬さん? 大丈夫?」

「…はい」

「顔、赤いよ? 体調悪いんじゃない?」

「いえ、大大丈夫です」

「本当に?」

「はい」

「そっか、でももし本当に体調悪くなったら教えてね」

「はい、すみません」

 純粋に心配してくれているであろう椿先生の表情は切なそうで寂しそうで…。そんな顔しないでください。私まで苦しくなるから。ぎゅーっと胸が苦しくなる。他の生徒の練習を見て回る先生の後ろ姿に行ってしまったと言う寂しさを感じる。これじゃ会いたくないと授業前に抱いていた気持ちに反する。

 いくら違うと否定しようが胸の痛みは変わらず、もう自分自身で諦めるしかなかった。この気持ちを認めるしかない…


好きです、椿先生

 

 認めた途端、気持ちがスーッと楽になった気がする。でも、認めたからと言ってどうするつもりもない。私は生徒会副会長としてこれからも生徒の見本となり、コンテスト組として結果を残さないといけない。

 がっかりさせてはいけないし幻滅させてはいけない、裏切ってはいけない。

だから、この想いは誰にも知られてはいけない。


 たった1人の秘密ゲーム。

 恋愛に興味の無かった私は、ここからどんどん愛に溺れていくのです。


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