第52話 虹待つ雨。
一人になれる場所を探し、朝と同じ食堂裏にたどり着く。屋上も考えたけれど、人目につかず忍び込める気はしなかった。
壊れかけの机に腰かけて、空を見上げる。
さほど間を置かず、雲が雨をこぼし始めた。これ幸いと、雨に打たれる。
けれどほどなくして、頭上に傘が広げられた。もうしばらく上を向いたままでいた後、言い訳するように小さく答えた。
「……雨だよ。雨」
「別に何も言ってないけど?」
そこにいたのは、赤根だった。彼女の目が俺の頬を捉えていることに気づき、慌てて目尻を拭う。
何も言わずに待っていてくれた赤根は、傘を両手に、計二本差していた。一本は彼女自身の上に広がり、もう一本は俺へと差し出されていた。
しばらく沈黙が続いたあと、ふいに赤根が口を開いた。
「不良が捨て猫に傘を差してる場面って、あるじゃない?」
話題に困惑しつつも「……そうだな」と頷く。
「あれってさ、思うんだけど、自分が雨に打たれてるから意味があるのよね」
「……そうだな」
「でも今の私って、濡れてる誠くんに傘を差し出しながらもしっかり自分用の傘も差してるわけよ」
「……そうだな」
「端から見ると、すっごいシュールじゃない?」
「……そうだな」
「つまりね。さっさと傘受け取ってくれない?」
「……そうだな痛い」
頭を傘の柄でコツンと叩かれた。渋々受け取り、改めて見上げる。鮮やかな赤い傘。
「赤、好きなの?」
「別に。というかこれ、部室にあった傘だから。昔の小道具。劇で使うなら、赤いほうが映えるってさ。……で、ガチャガチャと何してるの?」
「劇の小道具なら、仕込み刀の一つや二つくらいないかなと思って」
「ないから。そんな男子小学生が喜びそうな仕掛け――私のにはあったああああ!?」
「マジで!?」
「嘘よ」
「なんだよ」
「べっつにー?」
赤根はケラケラと笑いだし、俺もつられて頬がにやけた。
それを見た赤根は「どう? 少しは落ち着いた?」と聞いてくる。
「何のことやら」
「はいはい。大丈夫そうね」
「……で、何の用だよ? 雨に打たれてる様な変人には関わらない方がいいぞ。一般論として」
赤根は「それはそうだけどね」と口にすると、傘をクルクルと回し始めた。水滴が飛んで来るので止めろと言うと、水滴が届かないところまで離れて行った。傘を回したままで、テクテクと。そして、傘が止まり、振り返る。
「私の役者に、風邪をひかれるわけにはいかなかったから、さ」
薄く笑いながら赤根は言う。
ずいぶんと、含むところのありそうな言い方だった。
「さっきの話を蒸し返すけど、沙織さんが代役出来ない理由は『受験生で、たった一日で台詞と動きを覚えなくちゃいけなくて、宮子ちゃん用の衣装を着れないから』というのが誠くんの主張だったっけ? なるほどなるほど、納得納得」
「……前言撤回はしないぞ?」
「前言ってどれのこと? 沙織さんには代役が無理って話? それとも……公演中止の話?」
傘の立てる雨音が、ザアザアと強くなる。
文化祭の喧騒からは切り離されて、世界に二人きりのように錯覚をした。
「……何が言いたいんだよ?」
「宮子ちゃんの代わりは、私が出る。台詞も動きも知っているし、私なら宮子ちゃんの衣装も着れるでしょ」
強い決意が込められているわけじゃない。当たり前のことを、当たり前に告げるような口振りだった。
「部の責任者として、部長として、誠くんは正しいよ。でもね、この劇の演出も、脚本も、私だから。たとえリスクがあろうが――極端な話大きな失敗をして文化祭全体が滅茶苦茶になるかもしれなかろうが、公演を行う手段があるなら、使う。それが、作・演出としての私の責任」
「……台本会議で代役するのとは、わけが違うだろ」
「そりゃ違うよ。違うからこそだよ。本番は、物語を形にするということは、大事なの。物語を誰かに届けるということは、大事なの。それまでの全部より、これからの可能性よりも大事なの。私には物語を、殺せない」
真剣な眼差しが、俺を射すくめる。
俺は物語を殺そうとしているのだろうか。昨夜俺は、宮子ちゃん相手に物語は無数の可能性が重なったものと評した。公演を中止にすることがその全てを閉じることになるのなら、なるほど確かに俺は物語を殺そうとしていると言えるのだろう。
何を言おうというのか、わからぬままに口を開く。
しかしその時、誰もいないはずの赤根のさらに向こうの物陰から悪態が聞こえた。「くそっ! こんな話、僕が黙っていられるわけないじゃないか!!」と。
「ちょっ、黒木さん!? 駄目ですって!」
劇部の後輩に制止を振り切り現れたのは、台本を赤根と争った、文芸部の黒木文哉だった。
というか、劇部のメンバーも勢ぞろいしてるな……。とはいえ、今は黒木の件か。
「何を悩む必要があるのか、僕にはさっぱりわからないねぇ。誰かにその物語を確実に届けられる手段があるのなら、使わない手はないだろう。君は知っているかい? 投稿した小説が一次審査すら通らず誰かに読まれた痕跡すら残らない虚しさを。ネットに流した小説が誰の目にも止まらずデータの海に埋もれていく寂しさを。そして何より、部室に置かれたPCの中で悔しいくらい面白い小説が日の目を見ずに埃を被っているのを見つけたときの苛立ちを!」
という黒木の演説はしかし、「そもそもなんでアンタまでここにいるの?」と赤根にぶった切られた。
「ハァ、馬鹿め! 取材だよ、しゅ・ざ・い! 散々振り回しといて、あげくの果てに公演中止だぁ? なら、せめてこれくらいはしないと骨折り損どころが粉砕骨折だ!」
「部外者は出てってくれないかしら? というかそもそも、半分は自業自得でしょ」
「そうかいそうかい。精々下らないことで揉めてろよ!」
そして最後に小学生みたいな悪態を残しながら、本当に黒木は去って行った。なんというか、嵐のようだった。赤根は赤根で、苦笑というか、微笑というか、なんともいえない表情を浮かべているし。
他の劇部メンバーも、黒木が去って行った方を見たまま、ポカンとした顔をしていた。一人、俺の方を向いている後輩を除けばの話だが。その後輩と――宮子ちゃんと――目が合った。
彼女は赤い目をしたままで、けれど小さく頷いた。俺も観念し、力の抜けた笑みを返した。
「……分かったよ。精一杯足掻いてみよう」
赤根は「そうこなくっちゃ」と不敵に微笑んだ。
* * *
「で、まだ隠れた人が居たわけですか……」
もう全員出てきたのだろうと思っていた食堂の角の向こうには、先輩が二人いた。先代の副部長の明日香先輩と、その先輩に傘を差してもらいながら焼きそばを食べている元部長の沙織さんだった。
「いはー、はまはまみはへてひになっへ。ほほーへ、へんふーはしょふぁほーすっほ?」
「……食べてからにしてください」
「ふぁい」
沙織さんがズザザザザと焼きそばを食べ終えて、腕にかけたビニール袋にゴミをしまうまでの流れを見守った。そして先輩は、明日香さんから傘を受け取ると、何事もなかったかのようにこちらを向く。
「で、練習場所の当てはあるのかな?」
唇に青のりがついている。
「この雨じゃあ、どっか適当な公園でというのは難しいんじゃない? だからといって、文化祭中の学校に練習できる場所もなし」
歯にも青のりがついている。
「聞けや」
「痛い」
先輩お得意のデコピンが飛んで来た。
横で赤根が代わりに答えた。
「正直、だいぶ困ってます。誰かの家で、台詞だけというのが限界かもしれません」
「だよねー。ふっふっふ、明日香クン、例のものを」
「はいはい。誠君、はいこれ」
明日香さんから手渡されたのは、どこかの鍵だった。
「これは……?」
「駅前にある公民館の、貸し会議室の鍵よ。夏公のとき何度か練習に使ったことあるでしょう?」
「え? なんで会議室なんて取ってるんです?」
これには沙織さんが答えた。
「昨日も誠君には言ったけど、ウチらもう卒公に向けて動いてるのよ。で、実は毎週土曜にここらの公民館やら交流館やらでこっそり練習してたんだけど……文化祭の日まで予約取ってるなんておっかしいよねー。頼れる
「ボケちゃいないわよ! 後輩の劇見たら、あんたはきっと練習したいって言うだろうと思って場所を確保しといたのよ!」
口論を始める先輩方は放っておいて、鍵はありがたく受け取った。いや本当に、ありがたい。
そして役割を分担していく、各所への連絡は芦原と羽里ちゃんに任せて、俺と赤根と宮子ちゃんの三人は先に公民館に向かい稽古を始めることとなった。一分一秒でも長く赤根の練習時間を取りたいし、ほたる役については宮子ちゃんが見てくれた方がいいということで、このような形をとった。他の皆はそれぞれのクラスの出し物などの兼ね合いもあり、適宜来るという具合。
「あの、沙織さん、一つ質問いいですか?」
宮子ちゃんが、先輩にそう聞いているのが耳に入った。
「なーに?」
「文芸部の柳瀬先輩ってお知り合いですか?」
「ヤナとは一年のときからずっと同じクラスの腐れ縁だよ。ま、劇部以外じゃ一番仲いいかな」
沙織さんは目を細めながら、そう答えていた。
宮子ちゃんは「そうですか」と頷くだけで、沙織さんも特にその問いの理由を尋ね返したりもしなかった。
「それじゃ早速練習に行こうか! 誠くんは宮子ちゃんを傘に入れてあげて、誠くんに渡した傘の方がデカイから」
テキパキと赤根が指示を出す。
俺は先輩方へと向き直り、改めてお礼を言った。明日香さんは「いいってことよ」と微笑んで、沙織さんはニカッと笑いながら親指を立てた。
その歯には、やはり青のりがついていた。
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