第51話 空はまだ泣かない。
「先ほど花咲の親御さんから連絡があった。単刀直入に言うとな、花咲は交通事故にあったらしい」
演劇部しかいない食堂の裏、集まった部員を前に金井先生はそう言った。途端、先ほどまで聞こえていた文化祭開催直前の喧騒が消え去った。少なくとも、そう錯覚するほどに俺たちは言葉を失っていた。
「……すまん、言い方が悪かった。別にそんな大きな事故じゃない。簡単に言えば、左折する車との巻き込まれ事故だな」
頭を掻きながら、先生が言葉を続け、事故の詳細を語り始めた。
事故が起きたのは、歩道のないやや狭い道路であるらしい。そのとき、宮子ちゃんは自転車に乗り、進行方向に対して左側の路側帯を通行していたという。
「で、すぐ側を走っていた車が、ウインカーも出さず急に左折してきて、避けようとした花咲は転倒してしまった――ということらしい。狭い道ということもあって車もそこまでの速度は出してなかったそうだし、車の下敷きになったということもなく、軽症で済んだらしい。怪我した箇所は地面に擦った左腕と……転倒時の左足首捻挫。二週間ほどは松葉杖が必要な程度だそうだ」
沸き上がったざわめきは、最悪の想像よりも大分軽い怪我である安堵から生まれたものが半分、それでも二週間松葉杖が必要ということが意味することを理解したが故のものが半分といったところだろうか。
そう周囲の状況を判断できる程度には、俺は冷静だった。冷静であったと、思いたい。
金井先生が「相田」と言いづらそうに短く呼び掛けてきた。
「……大きな怪我じゃなくてよかったです。さて皆、そういう訳だから、今回の公演は中止だ。俺は実行委員会に連絡してくる。皆は一旦、クラスの方に合流しておくように。文化祭がなくなる訳じゃ、ないから」
また静かになったな、なんてことを思いながら、歩き始めた。
ええと、何処に行けばいいんだっけ? ああ、文化祭実行委員の所か。本部って、どこにあったっけ? 遠い記憶を辿ると、校門の前にあったような気がする。まあ、どこでもいいか。
「……悪かったな」
話しかけられて初めて、金井先生が後ろについて来ていたことに気がついた。
「先生のせいで、事故が起きたわけじゃないでしょう」
「お前が言った方が、すんなり聞くと思ったんだが……やっぱり俺が言うべきだったかもしれん」
「せんせー、会話のキャッチボールしてくださいよー」
先生は何も返さず、かぶりを振って、立ち去った。
「俺が部長としてできるのは、この位ですから……」
誰もいない空間にポツリと呟いて、祭りの前の騒がしい気配に向けて、懸命に足を動かした。
* * *
「そうですか……。でも大きな怪我はなくてよかったです。……あの、無理を承知で伺うのですが、何とか代役を立てるとかはできないのですか? 明日だけでも」
文化祭実行委員長に、宮子ちゃんの事故があったため今回公演を行うことが難しい旨を伝えると、そんな返事が来た。実行委員にしても、文化祭のトリに当たる時間帯の出し物の中止は困ってしまうらしい。
彼女たちには夏公演の時から世話になっているため、迷惑をかけるのは忍びないのだが、無理なものは無理だ。
「ごめんなさい、相田さんの気持ちも考えずに……。お力になれることがありましたら、何でもお声かけ下さい」
「いえ、こちらこそ本当に申し訳ございません。それでは失礼します」
次は、クラスにも伝えないと。うちのクラスは輪投げやストライクアウト等で遊ぶ出し物だった。受付と説明のため数人が教室にいればよいお茶を濁すような簡単な出し物だが、部活の出し物がある人間にとっては楽でよかった。とはいえ、こうなってしまっては手伝い位はすべきであろう。
そんな風に各所に事情を説明していると、いつの間にか辺りが騒がしくなっていた。
周囲に居たのは、中学生と思しい学生たちや、他校の制服を着た人々、あるいは誰かの親であろう大人など。
「そっか、もう開場してたのか……」
忙しいはずの文化祭が、途端に時間を持て余すものとなってしまった。一通りの説明は終えたため、この後どうしようかと考えていると携帯が鳴った。
「あっ、誠先輩ですか!? 金子です。今大丈夫ですか?」
「羽里ちゃん? どうしたの?」
「たった今、宮子から連絡があって、もう少しで学校に着くそうです」
今は病院からタクシーで学校に向かっているらしい。もう学校に来れるのなら、確かにそこまで大きな怪我ではないのだろう。本当によかった。
「それで宮子に頼まれたんです。先輩を裏門のところに呼んでおいて、と」
「……裏門に行けばいいの?」
「はい! お願いします!」
裏門では、部員が全員集まっていた。ちょうどよいと、文化祭実行委員に報告してきた件などについて共有する。
「……体育館の空いた時間はすぐ埋まりそうだった?」と赤根が言う。
「いや。結構、頭を悩ませている感じだった。最悪このまま空きになるのかもしれない」
「そう……」
何か言いたげな赤根だったが、その前に、車の停まる音がした。
不意に訪れた静寂の中、タクシーのドアが開き、閉じる。カツカツと両脇に挟んだ松葉杖の音を響かせて、左足をギプスで固定した宮子ちゃんが降りてきた。まだ松葉杖に慣れていないのだろう、歩き方がぎこちない。
誰かを探すような彼女と、目が合った。一年生の部員が我先にと言わんばかりの勢いで駆け寄るが、彼女は一瞥すらせず、真っすぐ俺の方へとやって来る。
「出れます」
「駄目だ」
睨むように見上げてくる彼女を真っ向から見下ろす。
「たかが捻挫です」
「捻挫は癖になる。無理はさせられない」
「無理じゃないです」
「そんな状態で、よく言うよ」
心を凍らせて、冷たく、冷たく、言い放つ。
彼女の目に、怯えの色が浮かんだ。ここぞとばかりに、畳みかけた。
「駄目なものは駄目だ。宮子ちゃんだって、その状態じゃ舞台に立てないってわかるだろ? 怪我が悪化するだけならまだしも、他の役者に、果ては観客にさえ、迷惑を押しつけることになる」
宮子ちゃんを説得するのなら、公演が中止になることより、無理に公演を行うことの方が迷惑なのだと思わせるしかないだろう。残酷だろうか? それで構わない。悪者には、俺一人がなればいい。
それでも、彼女は唇を噛んで、俺から目を逸らさなかった。
見つめ合うこと、たぶん数十秒。宮子ちゃんはようやく口を開く。
「せめて……、せめて代役を立てて……。そうですよ、代役です。沙織さんに頼めば、今日一日あれば明日の公演だけでも……!」
それも駄目だ。あまりに現実的ではない。
「受験生の先輩に? たった一日で台詞と最低限の動きを覚えて下さいって? それに衣装は? 体育祭の三人四脚で身長差にあんなに苦労したこと忘れたの? 先輩が宮子ちゃん用の衣装を着れるはずないでしょ。これら全部を踏まえた上でそんな無茶を言ってるの?」
「でも……!」
埒が明かない。何も話し合いの余地はないのだと、背を向ける。去ろうと足を進めかけ、鳴り響いたカランカランという音に振り返る。同時に覚えた、腕を引かれるような感覚。
宮子ちゃんが俺の腕を掴んでいた。松葉杖の一本は、彼女の背後に転がっている。
睨むようなその目に、自分の身を顧みないその行動に、防御反応のような怒りを覚えた。
「俺が辛くないとでも思うのかよっ!?」
言ってすぐ、後悔が、胸に飛来した。感情のまま怒鳴りつけるなんて、宮子ちゃんに対して最もやってはいけないことだ。
「……ごめん」
俺なんかより、宮子ちゃんの方がよっぽど辛いはずなのに……。
俺を掴んでいた彼女の腕が、離れていく。
「あ、謝らないで下さいよっ……! 先輩に謝られたら、わたっ……私が、折れなきゃ……。私が悪いのに、皆、あんなに頑張ったのに……!!」
宮子ちゃんの足下に、ボロボロと涙が落ちていく。いつも一歩引いたところで淡く微笑んでいる印象の強い彼女が、こんなにも声を荒げ、感情を顕にするのは初めて見た。
彼女の頑張りを知っているからこそ、この場に居る人間で、この言葉に、この涙に、胸を打たれない者などいない。でも、だからこそ、俺は、ちゃんと彼女を諦めさせてあげないといけない。宮子ちゃんは、何も悪くなどないのだから。
無理に言い負かすのではなく、俺が言ってあげたいことを言うだけでよいのだと、ようやく行き着いた。
一歩彼女に近づく。未だ俯いたままの頭に手を伸ばす。一回、二回、ぽんぽんと頭をなでる。
「宮子ちゃんが悪いわけない。厳しい言い方をするなら、それは思い上がりだよ」
「なんで……なんで、責めて、くれないんですか……? お前のせいだって、なじって、くれないんですか……?」
「誰もそんなこと、思ってないからね。強いて言うなら、運が悪かった。間が悪かった。ほら、宮子ちゃんは悪くない」
手のひらの下で、首が横に振られる。
その強情さに、つい笑みがこぼれた。
「どうしても悪者が必要だと、誰かが責任を負わないといけないと言うのなら、それは部長である俺のものだよ。一介の役者に横取りされるわけにはいかないかな」
こっそり悪者と責任者をすり替える。ちょっと狡いけど、まあ一般に女の子の泣き顔の方が狡いだろうし、許して欲しい。
宮子ちゃんは黙ってしまったけれど、頑なな雰囲気は失せたように感じる。近くにいた一年生に「宮子ちゃんのこと、よろしくね」と頼み、今度こそ、その場を後にした。
……流石にちょっともう、限界だった。
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