第50話 泣き出しそうな、曇り空。
秋の終わる気配を抱いた風が、サラサラと木々を撫でている。
本番前最後の
「月、見えませんねぇ……」
宮子ちゃんが自転車を押しながら呟いた。つられて空を見上げると、縁をわずかに煌めかせた巨大な雲が月を背後へと押しやっていた。
「そろそろ満月のはずなのにね」
「せっかくの文化祭なのに、天気予報は良くなくて残念ですよね……」
「後夜祭のキャンプファイヤー、行えるといいんだけど」
「そうですよねぇ。明後日の夜には多少は良くなるとは聞きましたので、なんとか」
ここしばらく練習していた公園を、自転車で駆け抜けるでもなく、かといって練習するでもなく、二人並んで自転車を押していた。
「先輩、今日はもう電車で帰ってよかったんですよ? 流石に、できることはありませんし」
「そんなこと言って、宮子ちゃんは放っておいたら一人でも練習しそうだからね。ちゃんと帰ったことを見届けるための見張りだよ」
「えー、私そんなに信用ないですか? あれだけゲネで上手くいったんですから、いい気分のまま帰りますよ」
ゲネは確かに納得のいくものだった。赤根が「逆に不安になる」という程度には、大きなミスもなく、練習通りのものが出せたのだった。
「ところで、台詞を変えてみてどうだった?」
ちゃんと追加練習の成果があったのか、聞いてみたくなった。先ほどのゲネが、練習の成果だとしたら、嬉しいし。
「そうですね……。私にとってのほたるがハッキリしたように思います。それで迷いも消えて、声量とか動きとか、自信を持った演技ができるようになったかなあ、と」
朗らかに言った宮子ちゃんは、しかし、続けて「でも」と言葉を発した。
「私にとって演じやすいほたるが、先輩とってやり易いほたるだったのか、この劇にふさわしいほたるだったのか、不安はありますけど」
「大丈夫。そこは自信を持っていいよ」
薄暗くて彼女の顔はよく見えないけど、じっとこちらを見ている気配がした。あれだけ練習したのだ、それくらいはわかる。
そっぽを向いて自転車を押したら危ないだろうと思い、立ち止まる。宮子ちゃんも自然に止まった。まるで、事前にそう演出で決まっていたかのように。
「結局のところ、自分以外の誰かにはなれないからさ。自分にとって、より良いものを目指すしかないと思うんだ。宮子ちゃんなりのより良い演技を、より良い劇を目指したことは誰だって分かってるから」
「……先輩は、役者主体で考えているということですか?」
「そうじゃない考え方っていうのは、物語主体というか『その物語にとって理想的なあるべき姿がある』という考え方ということでいい? うーん……、何というかね? 自分の手に負える範囲とそうじゃない範囲があって、後者については考えるだけ無駄というか……」
そもそも、その物語を過不足なく百パーセント表現するなんて土台無理な話ではないだろうか。仮に今回の台本を書いた赤根が完璧と思う演技や劇ができたとしても、それはその物語にとって本当に完璧なのかという話。
「物語なんてものは――シュレーディンガーの猫じゃないけれど――それこそ無数の正しい姿が重なっているものなんじゃないのかな、とか思うんだよね」
「シュレーディンガーの猫……。受け取り手に届くまで、どんなものが正しいかなんて分からないということですか?」
「いやいや、この思考実験は蓋を開けるところが本質じゃなくて、蓋を開ける前は
うん。俺の例えが悪かった。
「まあ宮子ちゃんが言ってくれたものが近いかな。観客がどう受け取ったとしても、そのどれもが正しいという意味で。物語は、一言で表現すれば、とても自由なものだと思うんだ。特に台詞とト書き、あとちょっとの柱でだけ表現されている台本なんて、役者からすればその言動の理由なんて想像するしかない。それこそ、
宮子ちゃんが微かに笑う気配がした。ちょっと、我に返る。演劇なんてやっていると、恥ずかしいことを言いがちになるのかもしれない。
「敏感だったり鈍感だったり。ぼーっとしてたり考えすぎだったり。優しいのに、突き放してたり。誠先輩は、不思議な方ですね」
「変、かな?」
「ふふ、変じゃないことはないと思いますけど。人間、誰だって変なんじゃないですか?」
自転車を再び押し始めながら、朗らかに、彼女はそう言った。
「なんか宮子ちゃん、変わったね」
「そうですか? きっと先輩のおかげです。ありがとうございます」
なんだか、ちょっと意地悪なことを言ってみたくなった。
「いやいや、変わったとは言ったけど『良くなった』とは言ってない……かもよ?」
言葉尻に「かもよ」などと付け加え、意地悪になり切れない俺のことを彼女はクスクスと楽しそうに笑った。
「私は、私自身の変化を好ましく感じていますので、誰が何と言おうと『良くなった』んです」
「……本当に、変わったね」
「そんなしみじみと言われましても。ホントのところ、まだ先輩の真似っこしてるだけですので……。せ、先輩も何か不安をゲロって下さい!」
宮子ちゃんは三度自転車を止め、わざわざスタンドを下ろしてまで、こちらにグイと近づいて来た。
「突然何事?」
「突然じゃありません。一つ私の不安を聞いていただきましたので、私も先輩の不安を聞きたいんです。至極真っ当な等価交換です!」
いやあ突然でしょうと思いつつも、考えてみる。
不安と言われてもなあ。……あ、強いて言えば一つあるかも。
「この間話した、文芸部の柳瀬先輩の発言がちょっと引っかかってるかも」
宮子ちゃんが首を傾げたので、赤根が台本を当て書きする上で、二人ほど読み違えていると言われた件についてだと、説明をする。宮子ちゃんは「ああ、そのことですか」と頷いたあと、思案気な表情を浮かべた。
「その話は……もう気にしなくて大丈夫だと思います」
「いやあ、もしもそれが自分で、本番にトラブルが起きた時に……とか全く思わないというのも難しくて」
どれだけ万全を期したつもりでも、トラブルは起こり得るし、そういうときほど、潜在的な問題点が露出してしまうものだと思う。
「それこそ、先輩の言うところの『手に負える範囲外の気にするだけ無駄』なことだと思いますよ」
「そこまで言う?」
「言います。少なくとも誠先輩自身は、間違いなくその二人には含まれていませんので」
「そこまで断言できるんだ……」
宮子ちゃんは曖昧に首を振り「先輩は、何があっても先輩らしい演技すればいいんです。他の誰にとっても、それが一番です」と呟いた。
その後は、公園を出る頃には自転車にまたがり、特に話をすることなく時間は過ぎて行った。そしていつも此処で別れる住宅街の十字路にたどり着く。
「それじゃ二日間、頑張ろうね」
「はい。あっ、でも、先輩は頑張り過ぎないようにしてくださいね。体育祭のとき、倒れた前科がありますので」
「あー、うん。善処します……」
「善処、ですか?」とニィッコリ笑う宮子ちゃん。
「全力で気を付けます!」
そう返事をしてみると、宮子ちゃんは今度は自然に笑ってくれたので、及第点ではあったのだと思う。
別れた直後、彼女が公園に戻って練習したりしないかと、こっそり振り返ってみる。
すると宮子ちゃんは、厚い雲に隠れ未だ顔を見せない月を見上げながら「明後日には、綺麗な月が望めればいいんですが」と呟いていた。
* * *
翌朝、つまり文化祭の当日の朝。
俺は壊れかけの机に腰かけて、携帯から電話をかけていた。プルルルという音が、一回、二回、三回…………留守番に切り替わったことを聞き、発信を取り止める。もう一度かけ、また、留守。
空を見上げ、ため息をついた。視界には、一つのため息すら受け入れる余裕のなさそうな、今にも泣き出さんばかりの曇天が広がっている。
そこに、砂利を鳴らしながら駆けてくる音がした。待ち人が来たかとそちらを見てみたが、そこにいたのは後輩の羽里ちゃんで、残念ながら探していたのは彼女ではない。
「やっぱり、クラスの方にもまだ来てませんでした」
と、彼女が言う。
「こっちもダメ。やっぱり繋がらない……」
「宮子に限って遅刻なんてことはないと思うんですが……」
今一度、携帯に視線を落とす。
ディスプレイに表示された発信履歴には「花咲宮子」の名前が連なっている。
「……仕方ない。ひとまず役者組は発声練習を続けて」
腕を組ながら話を聞いていた赤根が、遮って言う。
まだ学校が一般の客に向けて開場する前の午前八時、俺たちはストレッチと軽い発声練習を行っている。他の準備をしている人たちの邪魔にならぬよう、食堂の裏という辺鄙な場所でだ。ここには、壊れた机や椅子が砂ぼこりを被りながら積まれていた。
馬鹿となんとかは高いところに上るというが、ジャングルジムのように積まれた机の上に座る芦原が口を開く。
「そんな大袈裟にとらえなくても、単に寝坊したとかじゃないの?」
「宮子ちゃんは朝練に遅刻したことさえないのに? どこかの遅刻常習犯と違って」
「だって俺音響担当だし、多少はね? それはともかく、彼女だって遅刻することぐらいあるでしょ。猿も木から落ちるって言いますし?」
「そうね。さっさと落ちちまえ、このバカ猿」
赤根は土台となっている机を蹴る振りをした。
口論を続けさせると、そのうち本当に赤根が机を蹴りそうなので、止めることにする。
「確かに寝坊の可能性はゼロじゃないんだし、止めとけって」
「それもそうだね」
「俺も同じこと言ったんですけどねー」
そのとき、俺の手元で携帯が震えた。
皆の視線が俺へと向かう中、緊張しつつ飛びつくように電話に出た。
「もしもしっ!?」
「相田か? 俺だ、俺。お前いま――」
耳に届いたのは、どこかで聞いた覚えのある男の声だった。が、宮子ちゃんではなかったと落胆し、つい、電話を切ってしまった。
「オレオレ詐欺だった」
訝しげな目を向けてくる周囲に、そう言ってみる。
すると再び電話が鳴った。先程の反省でディスプレイに表示された文字列を見てみるが、そこにあったのは未登録の数字の羅列。
「何でいきなり切るんだよ!?」
「……えっと、どちら様ですか?」
「は? 登録しておけって言ったろ。俺だ、金井だよ」
「金井先生?」
声の主は、夏合宿の時くらいしかまともに話したことのない演劇部顧問の先生だった。
「そうだ。で、お前どこにいる?」
「今は、発声練習してまして。食堂の裏です」
「発声練習ってことは、部員はそこに揃ってるな?」
「いえ、花咲さんがまだ……」
「ああ、それはわかってる」
……今、なんて?
「それはどういう――」
「今からそっちに行く。来てる部員だけ集めておけ」
不穏な気配を残したまま、電話は切れてしまうのだった。
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