第49話 ばみって、ゲネって
小学生のころ、光る消しゴムが流行ったことがあった。
暗幕のカーテンが閉じられた体育館で、舞台と袖の境界に貼られたマスキングテープの上に蓄光テープを貼りながら、そんなことを思い出す。
蓄光テープというのは、暗闇で光るテープのことである。仕組みとしては、光を吸収することによって励起状態になった電子が、光の吸収が途絶えるとともに徐々に基底状態へと戻り、その際余分なエネルギーを放出することによって光を発するのだ。――と、先ほど赤根に蘊蓄をたれたところ「ふーん」で済まされてしまったが……。
とはいえ、日常でも蓄光素材は例えば腕時計の文字盤や避難誘導標識に使われていたりするし、こうして演劇でも使うのだ。具体的には暗転――舞台を真っ暗にしての場面転換――中の目印として用いたりする。
ちなみにこのような目印となるテープをばみりといい、普段は客席から目立たないように気を遣わなければならない。けれど、体育館のステージは客席より高いところにあるため、床に貼る分にはあまり気にしなくてよいから今回は多少は楽だった。
体育館後方を見やると、赤根が見守る中、今舞台に貼っているものより高輝度の蓄光テープが巻かれた黒い紐がゆっくりと動いていた。体育館の後方半分の照明を落としているため、光の粒が揺らめいているように見える。
舞台の横幅以上に長いその紐を両端で動かしているのは、裏方の羽里ちゃんと今回役者としての出番が少ない恵ちゃんの二人だ。彼女達には、公演中も舞台袖で控えてもらうことになる。教室での公演と異なり、舞台袖に十分なスペースがあるためできることだ。
「誠くーん! ちょっといーい? そっちからこれ見えるー?」
体育館の向こう端から、赤根が呼びかけてきた。思わず苦笑してしまうのは、赤根は今回舞台に立たないにも関わらず、ずいぶんと大きな声だったから。さすがは稽古が本格化してからも、毎日朝練開始時間より早くに来て発声練習を続けていただけのことはある。その姿を知っているのは、同じように早く朝練に来ていた俺と宮子ちゃんだけなのだけど。
頭上で大きく丸を作り返事をするも、「えー? 聞こえなーい!」と返された。そりゃ口で言ってねえもん……。
「だいじょーぶ! 見えてるー!」
「もっと自然に話せー! こっちに聞こえるくらいの声量で日常会話しろー! どれだけ練習したと思ってるの。出来るでしょ」
やはり体育館での発声についてが本題だったらしい。後半の言葉は、自然かつ大きな、お手本を見せてやると言わんばかりの発声だった。そういえば、現在の演劇部員の中で体育館で演技をした経験があるのは赤根だけになるのか。芦原は、去年の文化祭時にはもう裏方に専念していたようだし。
「明日が本番だなんて、ちょっと、信じられませんね……」
赤根とのやりとりをひとしきり終えたころ、宮子ちゃんの呟きが聞こえた。彼女はなぜか舞台袖に体を隠し、顔だけを覗かせていた。
「まだ何日ある! とか思っていたらいつの間にか本番が来ちゃった感じだよね」
「それですよねぇ」
なんて話をしていると、急にまるで突き飛ばされるように宮子ちゃんが舞台上に出てきた。
「ちょっと! 沙織先輩!?」
「いやいや、明日はたくさーんの人にその衣装を見て貰うのに、誠君一人に恥ずかしがってちゃダメでしょ」
「……お久しぶりです。先輩」
宮子ちゃんに続いて出てきた沙織先輩に挨拶をする。どうにも、宮子ちゃんは突き飛ばされたように出てきたのではなく、実際に突き飛ばされたらしい。
「で、なんで居るんですか?」
「ん? これからゲネでしょ? 関係者なんだから特等席で観ますよそりゃあ。そんなことより! 宮子ちゃんに言うべきことがあるでしょうが!」
話題逸らしだと感じたけれど、宮子ちゃんが顔を赤らめながら顔を背けているのを見てしまい、沙織先輩を問い詰める気が失せてしまった。ちなみに「ゲネ」とはゲネプロのことであり、照明や音響に衣装など、本番と同じ条件で行う最後の通し稽古のことだ。
さて、宮子ちゃんは既にゲネに向けて着替えを済ましており、言うべきこととなるとその衣装のことだろう。
その衣装を一言で表現すれば、ファンタジー物のアニメや漫画で出てくるなんちゃって和服のよう。上はレースなどの意匠が施されたショート丈の薄い黄緑色の着物で、下は長めのスカートをはいている。家庭科部渾身の力作で、ストレッチパンツと着物を組み合わせた、よさこいソーランの女性用衣装から着想を得たらしい。別段初めて見たわけではないのだけれど、率直に言って、よく似合っていてかわいいと思う。
「あー、うん。その衣装――」
「この衣装凄く手が込んでァイタッ!」
意を決して伝えようとした言葉は宮子ちゃんに遮られ、その遮った宮子ちゃんは沙織先輩にデコピンをされていた。で、先輩は「オマエ分かってるだろうな」みたいな目でこっちを見ている。
「その衣装凄く似合ってる」
「あ、ありがとうございます」
宮子ちゃんは観念したように呟いた。
こんな俺たちの様子を見つつ、沙織先輩は宮子ちゃんの衣装をなぜか摘まんで、しみじみと呟いた。
「いやー、夏公のときも正直思ってたけどさー、
「変わった、とは?」
先輩は腕を組み、低く唸りながらも、言葉にし始めた。
「去年までは、一匹狼の集まりと表現したらいいのかなぁ、協力し合いながら頑張るというより『
ちょっと反応に困っている俺たちを見た先輩は、ケラケラ笑いつつも続けた。
「それが今年はさ――その衣装だってそうだけど――どれだけ周りを巻き込むのよっ、てね。今年の体育館の使用順なんて、夏公の時から文化祭実行委員を巻き込んだ成果かめちゃくちゃ優遇されてるじゃん。二日間に渡って体育館最後の出し物って凄いよ! しかも二日目なんてミスコン・ミスターコンの直後って控えめに言って最高では?」
「いえ。その方々に力を貸していただけたのは、沙織先輩を含めて、これまでの先輩方が信用に足る実績を残してくださったからですよ」
「優等生かよキミィ――腹立つ!」
先輩のデコピンが飛んできた。甘んじて受け入れるも、相当に痛かった。
「ま、私は前座として精々場を盛り上げるつもりだからよろしくね」
「前座、ですか……?」
と首を傾げる宮子ちゃん。
「二日目の話。私と楓がミスターコン、隆明君はミスコンに出るから」
「あれ? 男女あべこべではないですか?」
と宮子ちゃん。
「女子校時代の名残ってヤツですよね、きっと」
俺は去年まで通っていた高校を思い返しながらそう言った。
前の
「うん。
「楓先輩も出るとなると、ミスターコンの一位は決まったようなものじゃないですか?」
演劇部で男よりも男らしい演技をしていた楓先輩だ。そんじゃそこらの男装とは年季が違う。けれど沙織先輩は、自信ありげに否定した。
「いやいやいやいや、楓には悪いけど私が勝つよ。彼女には弱点があるからね」
「弱点ですか?」
「そう。別にね、観客が見たいのは本物の男みたいな女子じゃあないのです。女子が理想とするような紳士なボーイが見たいのです。そこに! 私は! 勝負をかける!」
「すごい真剣ですね……」
と宮子ちゃん。先輩の熱意にやや引き気味である。
「そりゃね、卒公の配役をかけてるからね、ウチら」
「もう卒業公演の話ですか?」
「甘い甘い。週一でだけど、もうとっくに動いてるのよん」
先輩は、構想だけなら新人公演のころからあったと言い出した。
「受験は大丈夫なんですか……?」
「そりゃもうバッチシよ! 少なくとも私は。正直、古典と日本史ならば誠君にも勝てると思う」
「二年と張り合わないで下さいよ」
というか、俺は日本史さっぱりだし。
にやりと笑った先輩は、けれど今は多くは語らないとばかりに舞台から飛び降りた。まあ、精々一メートルとちょっとの段差ではあるけれど。
「さて、じゃあ私は客席に座ってゲネ待ってましょうかね。これ以上邪魔するのもなんだし。誠君も早く着替えた方がいいんじゃない? 本番よりいい劇をするくらいの心持ちで頼むよ?」
俺の横にすいと歩み寄った宮子ちゃんが、小さく確かに、頷いた。
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