第48話 人はよく見ると両目の大きさが違う


 稽古中の沈黙は慣れない。


 新人公演のときから、稽古中はいつも、誰かの演技や演出の声が賑やかに満ちていた。

 けれど今は、誰もが無言で黙りこんでいる。舞台に見立てた空間には、先程まで演技をしていた俺と宮子ちゃんの二人が立っていた。


 俺たちは揃って演出の方を――赤根の方を――向いている。

 ここまでと決められたところまでの演技が終わったにも関わらず、赤根は目を閉じ腕を組み、沈黙を保ったまま。


 数分にも及ぶ沈黙のあと、ついに赤根が口を開く。


「台本が外れれば変わるかなって、思ってたんだけど……」

 また口を閉ざした赤根を十秒ほど待ったあとで、宮子ちゃんが問いかけた。


「台本が外れればというのは、台詞を暗記したらということですか?」

「……うん。そういうことだね。まあそれだって、台詞を自分のものにするための第一歩なわけだけど……」

 赤根はチラリと俺を見たあと、続けた。


「誠くん。なんか、演技が変わった自覚ある?」

「変わったというのは、いつと比べて?」

「そりゃあこの間の公演……って、誠くんが役者として舞台に立ったのは新人公演だけだっけ。ならやっぱり、夏公で演出やっちゃったからなのかな……?」

 今度は一人でぶつぶつと呟く赤根に、少し苛立ちを覚え、「新人公演のときと比べてどう変わったって?」と強い口調で問いかけた。赤根は意を決したように、こちらを見据えて言う。


「独りよがりになった。あるいは自意識過剰になった。要は、観客の視線を意識しすぎ。もっと宮子ちゃん――ほたるのことを見なきゃダメってこと。どう? ここまで言えば分かった?」


 沈黙を返すことしか、できなかった。


 ……思い当たる節が、ないわけではない。

 こういう風に動けば、観客はこう解釈してくれるだろう。こういう風に台詞を口にすれば、観客にはこう聞こえるだろう。そんな考えは、頭の片隅に確かにあった。

 それを宮子ちゃんのことを見ていなかったと言うのならば、そうなのかもしれない。


 険しい表情を浮かべていたであろう俺に対し、けれど、赤根はふわりと微笑みかけた。


「大丈夫。私は知ってるよ、本当は誠くんが一緒の舞台に立ってる人を誰よりも見てくれるってこと」

 だって新人公演で一緒に演じた仲だから、と赤根は言う。


 一転、赤根は真面目な顔で、演出として次の指示を出した。


「とりあえず二人は読み合わせをやっといて」

「動きはなし、台詞だけってこと?」

 今さら何をという思いで問う。


「そうそう。でもね、一つだけ破っちゃいけない条件をつけるよ。その条件というのは、読み合わせの最中に目線を合わせたまま、絶っっ対に逸らしちゃいけないってことね!」

「ずっと見つめ合ったまま、ということですか?」

 と宮子ちゃん。わずかに声が上ずっていたかもしれない。俺も恥ずかしいし。


「そういうこと。台詞を思い出そうとして視線を上に巡らすのも禁止。はい『なんだそれ』って顔をした芦原、昨日の夕飯はなんだったか言ってみて――ほーら上を見たでしょ。あれしちゃだめだよ、二人とも」

「オムライス!」

「えっと……もしもですけど、読み合わせ中に台詞を思い出せなかったら、どうしたらいいですか?」

 芦原を華麗にスルーして問いかける宮子ちゃん。

 たしかに台詞が出てこないまま相手を見つめ続けなければならないというのは、なかなか辛いものがありそうだ。


「うんうん。いい質問だけど、宮子ちゃんはどうしたらいいと思う?」

 聞き返された宮子ちゃんは視線をさ迷わせて何も答えられず、「じゃあ誠くんはどう思う?」と今度は俺に振られた。


「……相手に助けを求める?」

「どうやって?」

「視線で?」

「そう視線で」

 赤根は指を鳴らして同意した。


「もちろん台詞を忘れちゃった方がアドリブで演技を始めてもいいんだけど、それって難しいでしょ。焦っちゃうから。だから、一緒にいる人が助けてあげて。それって、舞台でもちゃんと仲間のことを見てないと――舞台上でも目を合わせられる人でないと無理だから。さっきまでの誰かさんには難しいんじゃないかなぁ。ね、誠くん?」

「……はい。すみませんでした」

 分かっているならよろしかろうと赤根は言って、俺と宮子ちゃんは、別の教室で読み合わせをしていろと部屋を追い出された。



     *  *  *



「予想以上に難しいですね、これ……」

 宮子ちゃんは照れたように、はにかんで言った。そうだねと、俺も読み合わせの反動のように目を合わせられないまま答えた。

 吹奏楽部などを避け、やっと見つけた無人の講義室で、俺と彼女は気まずげに言葉を交わす。


 目線を外さずに行う読み合わせは、率直に言って難しい。しりとりを同じように目を合わせたまま逸らさずに行えば、これに近い難易度になるのではないだろうか。


 気を取り直し、再び読みあわせを行う。さらにもう一度。


 さて、何事も繰り返し繰り返し行えば、たいていのことは次第に慣れるものである。少しずつではあるが、余裕が出てきた。言い換えれば、自分のことで手一杯にならなくなってきた。

 段々と宮子ちゃんが台詞に込めている思いがわかってきた……気がする。少し、だけではあるけれど。


 確かめるように、一つ、問いかけてみる。


「ところで、さっきの台詞ってさ、今までは単なる照れ隠しで怒ってるのかと思ってたけど、ちょっと悲しさも混じってるよね?」


 宮子ちゃんはやっぱり読み合わせ中とは反対に目を逸らし、少し頬を赤くしながらも答えてくれた。


「……はい。館を飛び出したほたるを探しに来てくれたことが、本当に嬉しくて、でもこの子はそれを素直に表現できなくて。それと同時に、この人と一緒になれないんだなって強く意識しちゃった感じ、だと思います」


 それをちゃんと表現できているのかどうか、不安はありますけど、と宮子ちゃんは少し笑ったあとで続けた。


「それより先輩。さっき、私の台詞が出てこなかったとき、自然に繋いでくれましたよね? この練習の成果だと思ったんですど、どうですかね?」

「……あそこってさ、台詞を忘れたというか、台本上の台詞と演じてるときの気持ちにズレがあって、台詞を口に出せなかったのかなって思ったんだけど、どう?」


 そこの台詞について気になったことを指摘すると、宮子ちゃんは黙って目をパチクリとさせた。「的外れなこと言ったかも。ごめん」と謝ると、彼女は「いえ」と静かに首を横に振った。


「ちょっと、本気で驚いてました。実はその点で悩んでたんです。台本と、私の気持ちがズレちゃって……。これって私の役作りが間違ってるんですかね?」


 聞けばズレてしまうと言っても、ニアミスのような感じらしく、それゆえにモヤモヤしたものを抱きつつもここまで来てしまったのだとか。


「そうは言っても、今回の台本は当て書きのはずだし、宮子ちゃんばかりの問題でもないと思うけど……」

 そこまで言って、以前文芸部の柳瀬先輩に言われたことを思い出した。赤根が二人ほど読み違えて台本を書いているという話。


「そういえばさ、ほたるの台詞ってほとんど変更されてないよね」

 他の役の台詞はもう相当に加筆修正がされているが、宮子ちゃんの役はほとんど台詞が弄られていない。


「言われてみればそうですね。よくよく考えると、ほたるの台詞って他の役と比べるとずいぶん修正が少ない気がします」

 文芸部での一幕を伝えるべきかどうか少し迷い、結局口にすることにした。


「文芸部の柳瀬先輩ってわかる? あ、宮子ちゃんは台本会議のとき休んでたっけ?」

「いえ。一応、面識はありますよ。四月頃と二学期が始まったばかりのころに、少し」

「そうなんだ?」

 それまたどうして? と尋ねてみても、宮子ちゃんは笑って誤魔化すばかり。

 その表情を見て、深くは追及せず話を続けた。


「なんでもその先輩が言うには、この台本が当て書きだとしたら赤根は一人か二人読み違えているかもしれないんだって」

「二人、ですか……。すみません、具体的にどのように言われたのか、できるだけ正確に教えてもらえませんか?」


 宮子ちゃんの表情がずいぶんと真剣だった。

 覚えている限りのことを伝えると、けれど、宮子ちゃんは途中で困ったような表情を浮かべ始めた。


「こう言うと偉そうなので、あまり言いたくはないですが……その読み違えられているうちの一人は、私なんだと、思います」

「へえ。どんな風に?」

「それを言うのは恥ずかしいので勘弁してください」


 宮子ちゃんはしばらく足下を眺めたあと、一度息を深く吐き、そして大きく吸い込んだ。

 まるで先程までの練習のように、強く俺の目を見ながら彼女は言う。


「決めました。台本について、アカネさんに相談してみます」

「えっと、なんて?」

「ほたるの台詞を私に下さい、とです」


 強く言い切った後で「とです」と照れくさそうに、はにかみながら言う宮子ちゃんに、弱ったことに俺は瞬きなどを返してしまった。

 宮子ちゃんはそんな俺の様子を見て、軽く噴き出す。


 多少困惑したまま「それってつまり、台詞を宮子ちゃんの好きなように変えさせてくれってこと?」と尋ねると、宮子ちゃんは頷いた。


「それについてですね……先輩に一つ、ご相談と言いますか、お願いといいますか……があるんですけど」

「お願い?」


 今日の宮子ちゃんは、実は珍しいことにコロコロと表情を変えていたけれど、その中でも一番顔を赤くしてそのお願いを口にした。


「しばらく放課後、私と付き合って貰えませんか?」



     *  *  *



 話をまとめるに、部活終了後に更に練習を行いたいらしい。

 

「一旦話を整理させて。宮子ちゃんはほたるの台詞を自分主導で変更したい。赤根に変えて貰うんじゃなくて。で、そのためにもっと練習時間が欲しいから二人で自主練をしたい。――ってことでオケー?」

「はい。例えば今日の練習のようなものなら、公園とかでもできるんじゃないかな、と思ったんですけど……。そう聞くと私すごい我儘ですね。ごめんなさい忘れてください」

「いや何でよ? いいんじゃない別に?」

 第三者の声がして、振り返ると部屋の入り口に赤根の姿があった。いつから聞いていたのか……。


「ひゃかね先輩っ!?」

「次回公演のヒロインがここで噛んじゃだめだよー。どう誠くん、宮子ちゃんにはもっと練習が必要だと思わない?」

 向こうの稽古はどうしたのかと問うと、赤根は呆れたように「もう下校時間でしょが」と返した。

 この高校では日が早くに暮れるようになると、下校時間まで早まってしまう。確かにもう少し練習できるのではないかとは感じるな。


「ちなみに練習するとして、どこでやるつもりなの?」と宮子ちゃんに尋ねると「どこか公園のつもりでした」との返事。

 公園かぁ……。部活後、下校時刻を過ぎてからの練習は、正直危ない気がする。俺は問題ないとして、宮子ちゃんが。


 そんな俺と宮子ちゃんのやり取りを、赤根は色々とお見通しだと言わんばかりに、意地悪く笑いながら眺めている。


「で、どうするの? 誠くん?」

「……明後日からなら。明日自転車通学の許可証貰って、宮子ちゃんのことを家まで送るようにするから。結構遅くなるかもしれないし」

 幸いにも、宮子ちゃん家はおおよそ俺の家と学校の中間ほどにあると聞いている。


「ほら、引き受けてくれるってさ」


 宮子ちゃんは、しばらく呆としたあとで、ようやく理解が追い付いた様子で声を上げる。


「そんな!? 悪いですよ?」

「乗り換えのこと考えると、チャリ通にしたところで大して通学時間は変わらないから平気だよ」

 精々、十分ちょい伸びるくらいで済むと思う。


「いえでも……!」

「じゃあ宮子ちゃんは、その程度の覚悟で私の台本をくれって言ったの?」

 慌てた様子で口をパクパクと開閉する宮子ちゃん。やがて観念したのか、宮子ちゃんは顔を赤く染めて「不束者ですが、よろしくお願いいたします」と呟いた。


 いやいや、その発言は語弊があるといいますか……。

 慌てた俺のことを、赤根は半分面白そうに、もう半分はつまらなそうに眺めていた。


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