第45話 角運動量の時間微分をなめるな、の意


 明くる日。

 頬をなでる風は少し冷たく、夏が終わったことを感じさせた。けれど天気予報によると、昼には暑さを感じるほどに気温が上がるのだとか。つまるところ、今はまだずいぶんと朝早い。

 駅から学校へと向かう道にも、同じ制服を着た学生の姿は見えないほどだ。


 なぜこんな時間に登校しているのかというと、文化祭までの日にちも少なく、今日からさっそく朝練が始まるためであった。部長である俺が、練習に遅れるわけにはいかないと気合いをいれて早起きをしてきたのだ。……とはいえ、


「さすがに早く来すぎたかなぁ……」


 昇降口まで来ても人の気配がない。下駄箱から半ば放るように床に落とした上履きが、パタと大きな音を立てる。この音だって、普段の喧騒の中では、ここまで大きくは聞こえないもののはずだった。


 あまりに静かだから、瞼を閉じて耳を澄ましても何も――――ちょっと待った、何か聞こえる、ような……?


 微かに耳に届いたのは、覚えのある言葉と、耳馴染んだ声。

 自然と歩を速めながら、その声のする方へと向かう。

 たどり着いたのは、いつもの講義室B。

 まだ電気のついていない薄暗い室内。窓際には朝日が射しこみ、そこに赤根が立っていた。


「……何やってんの?」

「発声練習。見ればわかるでしょ」

 赤根は何もおかしなことはないと言いたげな、極めて普通な表情をしていた。

 あまりに早く来すぎだろうとか、何で舞台に立たない演出なのに発声練習をしているのか等々、疑問がたくさん浮かぶ。


「あー、色々と言いたいことはあるけど……おはよう」

「うん、おはよう。色々の中からまず挨拶をしてくれるのが誠くんの良いところだよね。それじゃ、残りの色々も言ってみようか」

 聞いてあげる、と赤根は笑って言う。朝から元気だな……。


「……なんで発声練習なんてやってるんだ? 台本弄って役を足すことにでもしたの?」

「いやさあ、ずっと基礎練に出てなかったせいで、昨日の読み合わせで全然声出てなくて焦っちゃって。それに演出の声が小さいと稽古も締まらないし」

 赤根の言う読み合わせとは、もちろん昨日の台本会議でのものだ。


 赤根が上げた台本の読み合わせは、配役を定めた状態で行われた。彼女が口にしていたお願いとは、このことだったのだ。男女すら関係なく順繰りに回した黒木の台本と比べれば、確かにフェアとは言えなかったかもしれない。

 とはいえ、あくまで採用すべき台本はウチの部、ウチの役者にあっているかどうかである。どちらの台本の方がよくできているかではない。

 まあ、黒木も柳瀬先輩もいいって言ってたし。


「まあ、宮子ちゃんが居てくれたらよかったんだけどね」

 と赤根が言う。昨日は宮子ちゃんは欠席だったため、彼女が演じる予定の役は赤根が代わりに読んでいたのだ。演出予定の赤根が読み合わせに参加することになったのは、そのためだった。

 結果として、昨日の読み合わせではほとんどの場面で、俺か赤根の少なくとも片方は演技をしている形となっていた。


「風邪だったみたいだし仕方ないだろ。それに――」

「おはようございます」

 とちょうど遮るようなタイミングで挨拶をして講義室に入って来たのは、当の宮子ちゃんだった。こんな時間に三人も朝練に来るとか、部長冥利に尽きるなあ……じゃなくて、なぜ彼女がここに居るのか。


「おはよう。今日も練習休むように言わなかったっけ?」

 口から出る言葉は、自然と厳しい口調になってしまう。体調が悪いならしっかり休むよう伝えていたのに、こんなに早くにやって来たからだ。

 宮子ちゃんは首を大きく横に振る。


「いえ、おかげさまですっかりよくなりました。むしろ昨日は大切な台本会議を欠席してしまい、本当にごめんなさい……!」

 そう言って今度は勢いよく頭を下げ、結局押し切られる形でそれぞれ練習の準備を始めることになった。


 その後も折に触れ大丈夫なのかと念を押す俺に対し赤根が「誠くん、なんか心配性なお爺ちゃんみたい」と言い放ったころ、宮子ちゃんに一枚のA4の用紙を差し出される。そこには、みっちりと文字が書かれていた。


「ん? これは?」

「文芸部の方たちの台本についての感想です。私は昨日出ていないので、台本を読んだだけの感想にはなってしまうのですが……」

 そうだった。彼らに対して、せめてものお礼として感想を届けることにしていたのだった。感想や意見のありがたさは、俺たちも分かっているつもりだから。

 横では、赤根が「あっ……!」と間の抜けた声を上げていた。


「もしかしてアカネ先輩、忘れてたんですか? 昨日、誠先輩から連絡ありましたよね?」

「や、忘れてたわけじゃないんだけど……。後回しにしてたというかなんというか……」

「それを忘れてたと言います」

「はい、ごめんなさい」

「私に謝らなくていいので、ちゃんと書いてくださいね」

 おお。宮子ちゃんがさらりと赤根をやり込めた。組んだ腕が様になっている。

 肩をすぼめた赤根を見て、宮子ちゃんは申し訳なさげに腕を解く。そしてにっこりと微笑んで、こう言った。


「順番がおかしくなっちゃいましたけど、アカネ先輩、台本の採用おめでとうございます」


 赤根は得意げな顔で、ブイサインを突き出した。



     *  *  *



 というわけで放課後、部員から集めた感想文を携えて文芸の部室までやってきた。土曜の授業は午前中だけだから、放課後と言ってもまだ日は高いけれど。

 ちなみに赤根の感想はルーズリーフに書きたてほやほやだったりする。黒木にわざわざ書いてやる言葉などないとぐずっていたが、最後にはちゃんと書いた。宮子ちゃん様様である。


 一つ息を吐く。台本案を二つも出してもらっておいて、結局どちらも使わないという結果に終わったため非常に気まずい。いくら向こうから、というか黒木から言い出したこととはいえ。

 けれどいつまでもここで時間を潰すわけにはいかない。既にウチの練習だって始まっているはずだ。


 意を決して、扉をノックする。

 戸惑ったような「どうぞ?」という声のあとに扉を開く。


 部室の中には、ちょうど昨日の三人が居た。

 椅子に座ってこちらをキョトンと見ているのは、たしか一年生の佐藤さん。その向かいにはノートパソコンをじっと睨み続ける黒木の姿がある。柳瀬先輩はというと、どういうわけか本棚の前に立ったままで本を読んでいた。それも大きなハードカバーの本だ。すぐそこに椅子も机もあるのに、なにゆえ部屋の中で立ち読みなんてしているのか。集中しているのかこちらに気がついていないし。


 ……なんだろう、この不思議な空気は。事前に連絡はしたはずなんだけど。

 俺も困惑したままで立っていると、黒木が舌打ちを一つ。


「えっと、昨日の感想を届けにきたのですが……」

「えっ!? 感想を頂けるんですか!?」

 紙の束を見せると、佐藤さんが食いついて来た。


「一応、そう連絡してから来たんですけども……」

「あー……。ちょっとヤナセンパーイ! 演劇部の相田先輩が来ましたよー!」

「……ん? ああ、ごめんなさい。相田君、来てたの――ギャ」

 ようやく気がついた先輩が、眼鏡をクイと上げながら答えた。ちなみに最後の「ギャ」は持っていた本を落としてしまったためだ。たぶん足の指先に当たったのではないだろうか。あれは痛い。


「来てたのギャ、じゃなくてちゃんと前もって私にも知らせておいてください!」

「少しは私の足の心配をして欲しかったのだけれど……」

「どうせヤナセンパイはぼんやりしてるし、この時間じゃ黒木さんはテコカンモードなんですから。相田先輩、どうぞお座りください。お茶をチャチャっと入れちゃいますね! お茶だけに!」

 そう言って手を引いてくる佐藤さんは、昨日の印象とは違いなかなかパワフルだ。俺なんて「ど、どうぞお構いなく」と答えるのがやっとというありさま。


「ところで、テコカンモードとは?」

 気になったので尋ねてみると、本当にお茶の準備を始めてしまった佐藤さんに代わって柳瀬先輩が答えてくれた。


「それはね『梃子でも動かんモード』の略なのよ。ほら、前に少し話したでしょう?」

 と目線で黒木を示しながら言う。黒木は仏頂面でノートパソコンの画面を睨んでいる。

「ああ、なるほどこれが――」

 そうなんですね、と言い切る前にずっと口を噤んでいた黒木がキレた。


「梃子でも動かないわけないだろう! 梃子なめんなっ!」


 よく分からない理由で。


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