夏公演編

第26話 波紋は結ばず疾く消えて


 ある日の放課後、いまだ梅雨は開けず、窓の外ではまるでこの部屋を世界から隔離するかのように、雨が降り続いていた。景色をぼやけさせるその様は、まるで棚引く煙のよう。

 ばらばらと響く雨音が、無音の教室を埋めている。


 この講義室Bには、十名を超える演劇部の部員が集っていた。それにも関わらず、部屋は重々しい雰囲気に包まれている。


「なあ、お前……今なんて言った?」

 俺は、知らず立ち上がりながら、隣に座る芦原一樹あしはらかずきに問いかけていた。コイツとはクラスも同じで席も前後。演劇部の中でも、特に親しい人物だ。


「だからさ、俺はお前のことを――相田誠あいだまこと君を――夏公演の演出に推薦するって言ったんだよ。このままじゃ埒が明かないだろ?」

 飄々とした表情で、何でもないことのようにそう言う芦原。この発言は夏公演の演出がいつまでも決まらないが故に、飛び出したものだった。

 俺は思わず、縋るように部長の上根沙織かみねさおり先輩の方を向いてしまう。


 部長は腕組をして俺たちをしばし眺めたあとで、窓際の方に向かって行った。

 ガラガラと音を立てて窓を開けると、より強い存在感を持って雨音が迫ってくる。

 沙織部長は小さく息を吸うと、窓の外に向かって、まるで大きなホールで舞台に立っているがごとく、通る声で「どこかに通じてゐる大道を僕はあるいてゐるのぢやない」と口にした。

 その姿はまるで、世界に謳いかけているよう。

 ポカンとする部員の前で、さらに「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」と言葉にし、その続きを諳んじてゆく。


 後ろに座っていた赤根絵美あかねえみが小さく「高村光太郎の『道程』だ」と呟いた。その詩はいつかの国語の教科書で知っていたけれど、こんなにも長い詩だっただろうか。


 沙織部長の朗読は、時に美しさや厳しさを交えた不思議な抑揚をつけて進んでいく。その中には「腐るものは腐れ 自然に背いたものはみな腐る」など過激なフレーズもあった。そして最後は「この遠い道程のため」という有名な一節で幕を下ろす。

 数分にも及ぶ朗誦のあとで、部長は小さく舌を出しながら、ばつが悪そうにしている。


「えっと……何ですか、それ?」と、部長を除き唯一立ち上がっていた俺が問いかけた。


「私が一番好きな――いや、なんか妙に胸に引っかかって離れない詩、かな?」

「あー……はい、そうですか」

 先輩は「うん、そうそう」とカラカラ笑っている。


「で、何の話だっけ? ああそっか、誠君を演出にしちゃおうって話だっけ? うん。いいんじゃない? でも、いきなりは大変だろうし補佐役に宮子みやこちゃんをつけてあげよう!」

 呆気にとられるうちに、トントンと話が進められる。どこかで「ひょ!?」という声が上がったけれどおそらくは花咲はなさき宮子ちゃんだろう。


「となるとせっかくだし、音響はバカシでいいとしても、照明責任者も羽里はりちゃんにしよっか! 下級生に頑張ってもらうということで」

 今度は「へ? へ? へ?」という声が聞こえる。


 とどめに「異論ある?」という沙織部長の呼びかけから、俺たちの抗議の声を三年生が「異議なーし!」という声でかき消すという、いつぞやにくらったコンボも炸裂し、あっという間に解散の運びとなった。

 例のごとく、三年生が一瞬で部屋から去っていく。


 俺の眼前の机上には、つい先ほどまで皆で台詞を回し読みをしていた、台本があった。

 そのタイトルは「ゴーストヒーロー」で、作者として記されているのは江見明音えみあかね。どうにも、俺がその演出を務めることになったらしい。



     *  *  *



 その直後、俺は沙織部長にこっそりと呼び出され、久しぶりに屋上に出ていた。とはいえ、変わらず雨は降り続いていたため、階段に続くドアのすぐ前、軒先の下で沙織部長と並んで立っている。


 前方に広がる、そこまで遮るもののない景色は、遠い彼方まで雨が降り注いでいることを教えていた。


「雨の日に屋上来るの、好きなんだよねぇ」と沙織部長が呟く。

「そうなんですか?」

「ここからの景色を見てるとさ『雨は私の上にだけ降ってるわけじゃないんだ』っていう当たり前のことをよく実感できるからね」

 そう言って困ったような笑みを浮かべる先輩は、たぶん自分が変なことを言っている自覚もあるのだろう。

 俺も苦笑して「当たり前ですね」と返した後で「でも当たり前のことって、気づくの大変だと思います」と続けた。

 例えば、健康な体のありがたみに病気になってから初めて気づくなんてことは、よく聞く話であるだろう。


「だから、いいと思いますよ。俺もこの眺め、結構好きです」

 そう言うと沙織部長は少し口を尖らせて「ありがとう」と答えた。


「なんで不服そうなんですか」

「君はもちっと後輩らしくしなさい、ってこと。なんかナマイキ」

「……だったら、先輩はもっと先輩らしく夏公も引っ張ってくださいよ。なんで先輩方の引退公演の演出が俺なんですか」

 そう。次の夏公演で三年生の先輩は引退してしまう。そして先輩は、新人公演の会議の時に「最高の引退公演にするため」と言って早々に赤根に台本を託したはずだった。

 けれどそうまでした結果、演出をずぶの素人の俺に任せるなんて間違っている。最高の公演を目指すなら実績のある人が演出を担当すべきだと思う。


 この考えをひと思いにぶつけると、先輩はとても嬉しそうに微笑んで俺の方を向いた。


「馬鹿にしてるんですか?」

「まっさかー。嬉しいんだよ。誠君がここまで私らのことを想ってくれてることが知れてね」

 ニコニコと微笑まれながら言われて、言葉に詰まる。


「おかけで私達もなんの迷いもなく、誠君に演出を任せられるよ。引き受けて、くれるよね?」

「……そんな言い方をされたら、引き受けないわけには、いかないじゃないですか」

 ふて腐れたように呟くと沙織部長は「あーよかったぁ」と息を漏らした。

 こちらが首を傾げていると「説得のためにいろいろ準備してたけど、それも必要なかったからね」と言われる。


「やっぱり、演出を俺にぶん投げるのは規定路線だったわけですか……」

「うーん、それは五分五分ってところ。上級生うちらの中には無難にアカネちゃんに任せるべきって意見もあったから。けどアカネちゃんはあんまり演出をやりたがらないんだよね。自分の書いた話だと特に」

「そうだとしても、先輩自身でやるという選択肢はなかったんですか?」

 沙織部長、あるいは他の三年生がやるという選択肢も当然あっただろうと思い、問いかけた。

 すると先輩はまるで雨雲の向こうを見やるように、上を向きながら目を細めて答える。


「私にとって最高の引退公演ってのはさ、公演自体が成功するのはもちろんだけど『私たちがいなくなってもきっとこの部は大丈夫だ』と確信できる公演のことなの」

 今の三年生達も先輩からこの部を受け継いで来たのだと言いながら、先輩はこの屋上の鍵を手のひらの上で遊ばせた。


「それも、この部で代々受け継がれてきたものなんですよね」

「そうそう。私ほど活発にこの鍵を使った部長はいないだろうけどねー。さて、私はぼちぼち帰るから、誠君もテキトーなところで帰りなさい」

 先輩はそう言って、扉の向こうへと去っていった。


 俺は「はい」と答えたあと、なんとなくすぐには戻らず、足先の水溜まりに広がる波紋の干渉を眺めていた。

 強め合う山に弱め合う谷、そして動かぬ節。規則的な干渉ではそれらの模様が浮かぶはずだが、無論雨粒による波面などバラバラでそんな一定な幾何学模様は浮かばない。

 それでも何かしらの模様が浮かんでいるように思うのは、それでも雨が織り成すものがあるということか、あるいは俺の主観が幻視しているのだろうか。

 浮かんでは消え、浮かんでは消えていく紋様。


「部の歴史なんか振りかざされたら、ますます引き受けるしかないじゃないですか……」


 俺はそう独り言ち、帰路に着くために階段へと続く扉を開く。「ワッ!!」と脅かす先輩の姿が、そこにはあった。


「……心臓止まるかと思いましたよ」

「馬鹿だなぁ。私が鍵持ってるんだから、先に帰るわけがないじゃない」


 沙織部長は指先で鍵をクルクルと回しながら、ケラケラと笑っていた。




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