第23話 引き抜きにくいは言いにくい……?


 ポン、ポン、ポンと部屋に響く音。

 俺は自室のベットに腰かけながら、ラケットでボールをリフティングをしていた。

 あのとき、なぜすぐに演劇部を辞める気がないと返せなかったのか、考えなければならなかった。


「単純に……楽しかったんだよなぁ……」


 そこだ。あの試合は、単純に楽しかった。


「でもあれは、一度そのスポーツから離れたからこその楽しさだよ、な……」


 ポン、ポン、ポンとボールを跳ねさせる。ボールを印された、製造メーカーのマークがくるくる回る。


 ……こんなことをしていても、考えはまとまらなかった。


「拙者親方と申すは、お立ち会いの中に……」

 何か変化を加えようと、いつかの赤根と同じように「外郎売」を諳んじる。

 思わず苦笑が零れた。いつの間にやら、俺もこの昔は変な呪文としか思えなかった文章も、すっかり覚えてしまっている。


 けれどまだ、足りないと思う。


 俺はスポーツが楽しいだけのものではないと知っている。けれど、演劇にだって当然あるはずの苦しい思いを経験していない。まだ、足りていない。


 ――そうだな。まずは新人公演に向けて、全力を尽くそう。今の俺にできるのは、それだけだ。


 そう結論づけ、リフティングの音を途絶えされることなく、滑舌練習の題材を宙で言い続けた。



     *  *  *



 テストも無事に……命を失っていなければ無事だろうという暴論を掲げれば無事に……テストを乗り越えた演劇部の部員たちは、いよいよ本番までの日数を意識しながら追い込みの練習を行っている。


『ん? どうしたんだ、千佳ちか?』

 制服の袖を引かれて振り返ると、宮子ちゃんが恥ずかしそうに微笑んで『ありがとう。お兄ちゃん』と口にした。


『別に、兄として当然のことをしただけだから……』

『それでも、ありがとう。心配かけるようなことはもう止める。……あと、これは、感謝の気持ちを込めた、あくまで兄妹のスキンシップだからね……?』

 彼女は、そう呟くと両腕を開きこちらに迫ってくる。その腕が俺を抱きしめそうになる瞬間――のところで教室の蛍光灯が消えた。


「とまあこんな感じで本番では、ここで完暗しまーす。そんで後説でお仕舞いね」

 と演出の沙織部長が声をかける。

 ここでの完暗とは、完全に暗くすることを指している。このあたりの用語はその劇団ごとにローカルな呼び方も多いらしい。本来は舞台を暗くした状態で場面転換することを表す「暗転」という言葉を、単に照明を消すことだけを指して使う人も多いのだとか。要は伝わりゃあいい、とは沙織部長の弁。


「よし、まあラストもこんな感じでいいでしょう。千佳ちゃんの爽やかな成長物語としてまとまってると思うナ!」

 という沙織部長の発言の通り、長らく未定のままだったラストシーンは、妹役の千佳を演じる宮子ちゃんのハグ(未遂)で幕を下ろすこととなった。

 どうにも、例のソフトテニスの試合で最後に聞こえた沙織部長の「ハグだ~!」はこの案が浮かんだ故のものだった……らしい。ホントかそれ。


 とまあ、こんな具合に新人公演に向けては極めて順風満帆――という訳ではなかった。劇部の雰囲気は、正直よくない。ちなみに原因は俺ではない。例の勧誘は、あの場に居た人しか知らないはずだ。


「……それで、よ。ねぇアカネちゃん、貴女は今のシーンを見てヒカリ役としてどう思った? ヒカリは何を感じると思う?」

 つまるところ重い空気は、赤根が発生源だった。

 沙織部長の問いかけは、かなり厳しい声色だったが、赤根はボソボソとした答えを返す。


「ヒカリは……敵に塩をおくちゃったかな、とか……負けてられない、とか……思うと、思います」

「で、それは貴女の感情として落とし込めそう?」

 赤根は唇を噛んで俯いてしまう。


「そこで黙らないでよぉ……。弱ったなぁ……なんでこうなるかなぁ……」

 部長は普段なら声を荒げそうな場面だが、今は頭を抱えるほど困っている。


 部の雰囲気がよくない理由。それは赤根のやつがスランプに陥ってしまったことだった。



 最初は、一緒に演技をしていても「ちょっと噛み合わないな」と感じる程度の話だった。

 これまでに何度か、沙織部長と赤根の変調について話し合っているが、その状態のときに異変に気づいたのは部長と俺だけだったらしい。

 その程度には些細なもので、テスト明けで少しのブランクもあったから、そのせいだろうと軽く考えていたのだが……。


 そして、赤根への期待も大きかった部長は、普段通りにガツガツ指導を続けた。しかしその結果、赤根のスランプは深刻さを増していったのだった。今では、新入生に対する指導より、赤根に対するものが多い始末。



「誠君、今日練習のあと少し残れる?」

 と部長が声をかけてくる。


「誠くん、だけですか……?」

「あのねぇアカネちゃん、別に貴女のことを話すというわけじゃないからね? 思い詰めすぎちゃ駄目だよ?」

 そう言って沙織部長は赤根の頬を両手で挟み、ぐりぐりとしている。女子同士の楽しげなコミュニケーションである……赤根がこの世の終わりのような暗い顔さえしていなければ。



     *  *  *



 練習の後、そのまま講義室に残った俺は、机に腰かける沙織部長と向き合っていた。なんとなく、立ったままで。


「やっぱり原因は、誠君引き抜き事件だと思うのよ」

「俺、いつの間に引き抜かれたんですか?」

「む。じゃあ引き抜き打診事件」

 つい茶々を入れてしまったが、自分でももしかしたらそれが原因なのではないかと考えることはあった。自意識過剰かもしれないが……。


「だってね、この間アカネちゃんに『誠君は引き抜きにくい』って十回言ってみさせたらさー」

「いや何やらせてんですか……」

「滑舌練習よ、滑舌練習。とにかくそしたら、引ききにくいって七回目で噛んじゃって『あ、これはもう駄目ですね……』なんて言うわけなの、悲しそうに。もうスランプの理由なんてこれしかないでしょ!?」

 なぜキラリと瞳を輝かせながら言うのか、この人は。


「そうですか」

「……ねぇ誠君、私はあの話を君に伝えた以上、君がどんな選択をしてもそれを尊重するつもり。……だから、現時点ではどういう考えなのか、教えてはくれないかな?」

 一転して真面目な様子で、問いかけられる。よく見れば沙織部長の瞳に、わずかな怯えの色が浮いているように見えた。


 にわかに静かになった空間を、雨の音が埋めている。窓から外を見ても雨が降っているか判断し難いが、とらえどころのない柔らかな音が雨の存在を教えている。


 俺は、たっぷりとした沈黙の後……「ごめんなさい」と、口を開いた。



     *  *  *



「そっか……。誠君の考え、しかと聞かせていただきました」

 腕を組んだままで、ゆっくりと沙織部長は頷いた。まだ自分でもまとまってはいなかった考えを、この人は最後まで聞き届けてくれたのだった。


「今の話、赤根には――」

「言えるわけがないでしょう」と苦笑いを浮かべて遮られる。

 俺はただ「ありがとうございます」としか言えず、沙織部長は組んだ腕を解き、乾きつつある涙の跡をぬぐっていた。




 ――そして、赤根のスランプも解消することなく、俺たちは新人公演の日を迎えるのだった。

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