第8話 新入生歓迎公演「葛藤に勝っとお!~チョコレートを添えて~/キツネツキ」



 芦原のやつから携帯に来た、公演の案内を改めて見返す。

 どうやら本番もあの講義室Bで行うらしい。講義室はどこも、普段の教室と変わらない程度の広さで、正直演劇になんて向いてないんじゃないかと思う。てっきり、体育館とかで行うものだと思っていたのだが。


 教室の前にたどり着くと、受付が準備してあった。だいぶ余裕を持って来たのだが、すでに開場しているらしく、一人もうそこに控えている。

 途端に帰りたくなってきた。しかし、先に向こうに発見されてしまう。


「観劇ですかー?」

「あ、はい」

「新入生さんですか?」

「いや、二年です」

「あー、それでしたら。会場の席の二列目の奥から座って頂いてもいいですか? すみません、前列は一年生優先にしたいので」

「はい。もちろん大丈夫です。すみません、二年が場所とっちゃって。なんなら立ち見でも――」

「あ! ちょっと待ってください。ひょっとして相田さんですか?」

「え。そうです、けど?」

「でしたら、相田さんはぜひぜひ前列に座ってください。特別ですよー、このこのー」


 な、何なんだ……。てか、携帯の画面を確認して俺のことを相田だと判断したっぽかったけど、ひょっとして……。



     *  *  *



 先ほどまで、講義室で公演なんかできるのかと訝しんでいたけれど、どうやら余計な心配のようだった。

 教室の中に、ほとんど教室そのものと大きさが変わらない、もう一つ箱ができていた。黒の塩ビパイプで組み立てられた箱だ。イメージとしては、ジャングルジムの一番外側だけ作られたもの、と言えば近いだろうか。


 教室の奥に作られた舞台を見れば、パイプを利用して照明の道具が天井に吊るされている。他にもあちこちに照明の道具があり、またカーテンは暗幕に換えられていて、薄暗い教室に外の明かりは入らない。そのくせファンタジックな調べのピアノ曲が流れていて、なかなか雰囲気が出ているように感じた。


 普段の学校とは既に別世界だ。


「お客様、前列の奥から順にお座りください」

「ありがとうござ――って芦原か」

「よかった。ちゃんと来てくれたのな。もし来てくれなかったら、後で赤根のやつが落ち込むだろうから助かったよ」

「来るって約束したからな。で、この曲お前のチョイス? なんかいい感じじゃん」

「サンキュ。まあ、流石に客入れの曲は適当だよ。本番に使う曲は結構悩んだけどな。演出とも揉めたりして――っと、ほらほらお客様、さっさと座ってくださいな。俺、今日はオペもするから、また後で」


 そう言うと、芦原は舞台袖の方に消えていった。なんだかんだ、アイツもきっちり演劇部の一員なのだと実感させられる。もし入部したら部活においてはアイツが一年先輩になるのか……うーん。

 気を取り直し席に向かうと、一人先客がいた。奥の方から座れって言われたから、隣に座らなきゃだよな、きっと……。


「すみません。となりいいですか?」

「は、はい。どド、どうぞ!」


 なんか随分と緊張した様子の女の子だった。かなり小さくて、まさに女の子といった感じ。公演をする側の芦原なんかより、よほど張り詰めているように見える。

 ともかくも、椅子の上に置かれたパンフレットを取って、そこに座る。


「ずっと一人で、か、かなり、緊張してました」

「あー、自分しか居ないのって不安だよね。けどまだ、開演まで二十分強あるみたいだし、しかたないのかな」

「そうですよね。ご、ごめんなさい」

「いやいや、謝られても。ごめん俺も否定するような口調になっちゃってたかもしれないけど、そんなつもりないからさ」

「ご、ごめんな――」

「謝らなくていいって」

「ご……ありがとう、ございます」

「オッケー、オッケー、ユーアーウェルカム!」


 途端、沈黙が訪れた。少しでも場を柔らかくしたくて明るい感じの受け答えをしたのだが、それが馬鹿にしているように聞こえてしまったのだろうか……?


「あー、ごめん。ふざけた訳じゃなくて……」

「いえ……大丈夫です。緊張を、ほぐしてくれようとしているのは、伝わったので。すみません、私、緊張しいで。特に、男の人といると、どうしても……」

「そうなの? じゃあ、他に女子来たら、俺場所換わろっか?」


 彼女はフルフルと首を横に振って答えた。


「大丈夫、です。とても優しい方だと分かったので」

「そ、そう? いやそんなことないと思うけど」


 照れる。お世辞だとしても、とても照れる。


「あの、お名前聞いてもいいですか? 私、一組の花咲宮子はなさきみやこといいます」

「あー……俺、二年なんだよね。相田誠っていうんだけど」

「そうなんですか。ごめんなさい、私、きっと粗相を……」

「いやいやいや、んなことないから。それにもし入部したとしたら俺たち同期になるわけだし。タメ口の方が自然だよ」


 そう答えると、彼女は少し意外そうな顔をした。


「今年から、入部、されるんですか?」

「……まだ考え中だけどね。二年から? って思うだろうけど、俺、転入生だからさ、どこにしても最初からになるんだよ」

「なるほど、転入ですか。でも、すごいです。私だときっと、途中から部活に加わろうとするなんて、考えることすらしないと思います。相田先輩は、すごいです」


 花咲さんはしみじみとそう言う。それは、本心からの呟きのようで、先ほどのよりも照れてしまった。もしもここが明るかったら、赤くなった顔が見られてしまったかもしれない。


 気を紛らわそうとパンフレットを開いてみることにした。

 この公演は、どうやら二本立てで、合計一時間ほどであるらしい。良かった。いきなり二時間クラスの大作なんて見せられても、集中して見られる気がしなかったから。

 題目は、次の二つ。


   ・葛藤に勝っとお! ~チョコレートを添えて~

     脚本:新谷昌治・江見明音

     演出:上根沙織 原案:新谷昌治


   ・キツネツキ

     脚本・演出:江見明音


 上根沙織という名前が目に付いた。あの部長さんの名前だ。たしか演出ってあれだよな、役者に偉そうにあーしろこーしろ言う人。へえ、前半の劇の演出はあの人なのか。そりゃサボられたら探しに来るわけだ。

 役の担当も載っていて、赤根のやつは「葛藤に~」に出演するらしく、部長さんは「キツネツキ」に出るらしい。音響は両方まとめて芦原だ。

 このパンフレットも結構ちゃんとした感じで、どうやって作っているのだろうか。俺が全く知らないことを、ここの人たちは、当然の様にやっている。



 次第に観客が増えてきた。

 結構人は来ているが、誰々が出てるとか出てないとかお喋りしている人も多く、演劇部と知り合いの上級生もたくさん居そう。


 ――部屋がなだらかに暗くなる。BGМも一度大きくなったあと、次第に小さくなった。やがて訪れる、完全な闇。布が擦れる音すら響く無音。

 

 舞台に明かりがついた。一人の女生徒の姿。受付をやっていた人だ。


「本日は、新入生歓迎公演にお越しいただき、誠にありがとうございます。まだ始まりませんヨー。これは前説まえせつといって、観客の皆様にちょっとしたお願いをする仕事です。入部してくれたらやることもあるかもね。

 えー、お願いといっても、大したことではなくて『お手洗いは済ませましたかー?』とか『公演中は携帯が鳴らないようにして下さい』だとか『飲食と私語は控えて、でも面白かったら是非笑ってね』とかそんなものです。

 大丈夫ですかー? 大丈夫ですねー?

 それでは! まもなく開演いたします。どうぞごゆっくり、お楽しみください」


 その人が礼をすると会場は再び闇に包まれる。


 ――そして、バスの開く音がした。



     *  *  *



 人波に乗って、バスから赤根が降りてくる。いや、違う。もちろん赤根には違いないのだが、あの舞台において、彼女は俺の知る赤根絵美ではない。

 たった数歩を歩くだけで、それを突き付けられた。

 沢山の人が彼女を追い抜いて行く。けれど舞台にいるのは彼女一人。照明に映す人型の影と、ただの音で、それを表現している。

 通り過ぎる人に「ドッ」と音を立ててぶつかられ、地面に倒れる彼女。


「キャッ! イタタタタ。……って何、これ? 受験票?」


 転んだ拍子に、地面に落ちたそれに気づくと、彼女は困ったように辺りを見渡した。けれど、周りの人は、彼女に目もくれずに去っていく。


「どうしよ、コレ……。落とした人、絶対困ってるよね……」


 舞台袖から声が響いた。


「ほっとけ! ほっとけ! いっそのこと捨てちまえ! ソイツが試験に落ちれば合格の枠が一個増えるんだぜぇ!?」

「ダメよ! 情けは人の為ならず! 持ち主を探してあげなきゃ!!」


 舞台を照らす光が、真っ黄色に切り替わる。

 そして、大音量で流れるBGM、誰もが知る運動会の大定番曲「剣の舞」

 現れるは全身黒タイツの男と、頭に黄色のサイリュームを乗っけた白いワンピースの女子。

 舞台中央で、少女はうなだれ叫ぶ。


「ああ、現れてしまったわ! 私の心の天使と悪魔――!!!!」



     *  *  *



 ――結論。スッゲェ、コメディだった。


 あの手この手で自分の意見に従わせようとする天使と悪魔。現実パートと葛藤パートの切り替えは照明と音響で表現され、三回目の葛藤パートにもなると「剣の舞」が流れるだけで観客席から笑いが飛んだ。芦原のやろう、何が皆知らない曲を使うだ。アイツは誰もが知るほど有名なことを逆手に取って、音楽だけで一笑いとってみせたのだ。

 最終的に受験票を落とした人物は見つかって(受験票を渡すかどうかで天使と悪魔にひと悶着あったが)、無事にそれを届けることができた。


 最後のシーンは、テストの合間の休み時間。

 受験票を落とした少年が「これ、あげる」と少女に、受験シーズンに定番の赤い包みの某チョコレート菓子を手渡す。

 天使に「メッセージがあるみたいよ」と言われた少女は、袋を裏返し、何かを読んでほほ笑むと、


「どういたしまして」


 その言葉で劇は終わる。


 最後に役者たちが列になって礼をしていったが、その時の音楽はピアノバージョンの「剣の舞」という一貫性。最後までコミカルだった。



 こうして一つ目の劇「葛藤に勝っとお! ~チョコレートを添えて~」は皆が笑顔になるなか幕を下ろし、次いで後半「キツネツキ」の劇が始まった。



     *  *  *



 一転して、とてもシリアスな劇だ。


 物語は昔の日本、未だ読み書きが全く定着していない農村部が舞台。そこに住む一人の青年。彼は天才的ストーリーテラーだった。

 青年は仕事である農作業を毎日のようにサボり、村の片隅に子供たちを集め、時に動物たちの物語を、時に都の豪華な暮らしとその複雑な人間模様とを語っていた。


 例えば彼は、山の隼となり語る。空と草原と山脈と、またその向こうの鏡が如き湖の、雄大な眺望について。そしてまた、彼の一生――その最後を。


「――けれどワタシは、矢に翼を穿たれ地に落つる時も、空の覇者たる誇りを忘れなかった……! 幾たびも経験した、蒼天からの天を切り裂くが如き急降下。近づく大地。平時であれば、いとも容易くあの大空に帰ることができるというのに、今のワタシには、それが、叶わない……。ああ、嘴の先が地面に触れる。……ワタシの記憶はそこで途絶えている」


 次第に増えていく彼の観客。けれど、村の長老は渋い顔をしていた。村の者の尽くが彼の物語に夢中となり、仕事をしない者が増えていたのだ。

 そして彼は、山の牢獄に閉じ込められることとなる。彼のあの、経験しようのない話の数々は、彼が妖怪に憑りつかれた狐憑きであるからこそ叶うのだと、主張して。

 ちょうどその時にスランプに陥ってしまい、似たような話を繰り返すようになった彼を擁護する者はいなかった。


 ……ただ一人を除いては。


 彼の幼馴染の娘は、最後まで長老に反対していたのだ。

 彼女は、彼が牢に閉じ込められた後も、足繁くそこに通い、食べ物を差し入れる。


「はい、今日の分」

「ああ、悪いな……」

「だから言ったでしょ、ちょっとは仕事しないとジジイに目ぇつけられるって」

「だって……、お前が聞いてくれなく、なったから……」

「は? どういうことよ?」

「昔は――まだ下らねえ話しかできなかったころも――お前は一番近くで、目を輝かせて聞いてくれてただろ? 馬鹿みたいな顔でさ」

「馬鹿みたいは余計じゃない!?」

「いーや、あれはそうとう馬鹿な顔だった。脳裏に焼き付いちまうぐらいにはな。……でもいつからか、お前は聞いてくれなくなっちまって、ついムキになっちった」

「それは――! それは……アンタの分も仕事して、アンタが文句言われないようにって、思って……。まあ、今更言っても仕方ないわね。だったらさ、今聞かせてよ、お話。私だけが独占って、すごい贅沢じゃない? ほーら、早く!」


 せがまれた青年が、長いこと躊躇った後でようやく語ったのは、とある男の恋物語。囚われの身となり、もはやこの恋は叶えてはいけなくなったと語る、男の話。

 彼女は、涙に頬を濡らしながら、それに聞き入っていた。……長老が、ほくそ笑みながら、それを見ていたとは知らずに。



 青年は死罪となると決まってしまった。

 手に斧を持った男を侍らせながら、長老は語る。


「見るがいい! 一切の食事を断たれたにも関わらず、こうして今も生きているこの化物を! これこそがこの者が妖怪に憑かれたという動かぬ証拠である!」

「違う! それは、私が!」


 しかし、抗議の声を上げる幼馴染の娘は捕らえられてしまう。


「昨今の凶作はこの化物の祟りである! さあ皆の者よ! 退治に賛成の者は手を叩け! 共に、人の力を示すのだ!」


 一つ、パチと手が鳴った。それを皮切りに次第に盛大な拍手のうねりが生まれていく。「待って!」と叫ぶ娘の声は、もはや誰にも届かない。


「ようし! れーー!!」


 舞台は闇に包まれ、斧が振り下ろされる音が鳴り響いた。




 そしてこの劇は、雨が降る中、あの幼馴染が川への入水自殺を図るシーンで幕を下ろす。村の人間への恨みを叫んだ彼女だが、最後には失われた物語への悲しみを語る。


「でも私は、何よりも、彼が残してくれた数々の物語が失われてしまったことが悲しい。

 もう誰も、彼の語る、あの心躍る物語を聞くことができない。宙に放たれた言葉たちは、形をとることなく消え失せて、彼自身に等しい言葉たちも、彼と一緒に……死んでしまった。

 何かに言葉を焼き付けて、失われないようにできれば良かった……!

 せめて言葉を一字一句記憶して、語り残すことができれば良かった……!!

 でも、村の誰も、私すら、もはや彼の物語を覚えてはいない。彼の生きた証は、全部、消えてしまった。

 それだけが、私には……とても、悲しい」


 彼女が一歩、二歩と踏み出すたびに舞台は暗くなっていく。

 そして最後には、ただ雨の音と川の音だけが、ずっとずっと鳴り響く……。



     *  *  *



「ハーイ後説あとせつだよー。皆、今日は新歓公演に来てくれてありがとー!」


 幼馴染の娘役だった上根部長が、カーテンコールにて元気一杯に手を振っている。殺された青年役の男子生徒は横で苦笑い。

 客席からは盛大な拍手が沸き起こり、後方に座る生徒からは「沙織ー! カッコ良かったよー!」と声が飛ぶ。それを聞いた上根先輩はボディビルダーの真似なんかをしている。なんでさ。

 結局、後説とかいう仕事は男子生徒が奪い取り、本日はご来場頂きありがとうございますとか、できればアンケートにご協力してくださいだとかを話した。


「あとは、この後部員がぞろぞろと席の方に出ていくんで、部についての質問だとか、気軽に聞いてみてください。それじゃ部長さん、締めの挨拶を頼みます」

「えーもう終わりー? はいはい、睨まないでよ。さて、月曜からは体験練習もあるので、ちょっとでも興味を持ってくれた方はぜひ来てください。新入生はもちろんだけど、二年も三年も大歓迎! それでは――本日はご来場いただきまして、まことにありがとうございました!」

「「「ありがとうございました!」」」


 部屋は大きな拍手の音に包まれた。



     *  *  *



 客が大体アンケートを書き終わった頃を見計らって、演劇部の人たちが客席にやってくる。

 最初に来たのは上根部長だった。


「今日はありがとねー、相田君。どうだった? ウチの自慢の劇団は」

「正直、予想以上でした。先輩の演技も凄かったです」

「そっか、ありがとう。いやー照っれるなー。別に私なんか全然凄くないよ? 部のみんなが凄いんだから!」

「でも、部長さんの演技も本当に凄かったです!」と隣に座る花咲さんも言う。

「おっ! なんか可愛い生き物がいるー! ありがとー! お名前何て言うの?」


 そう言うと部長さんは花咲さんにハグをし、そのままで話し始めた。


 さて、俺もアンケートは書き終わったしどうしようかと思っていると、舞台袖から顔の半分だけ覗かして、こちらを窺う赤根のやつと目が合った。

 思わず苦笑いをすると、トコトコとこっちにやって来る。


「おつかれ」

「うん。今日は来てくれてありがと」


 彼女は微笑んだけれど、どこか元気がないように感じた。


「どうかしたか?」

「え、いや、うーん……。あのさ、正直に答えて欲しいんだけど、私の演技どう思った? というより、?」

「え? そりゃ良か――」


 しまった。後半の劇、とくに部長さんの演技が凄すぎて、前半の劇の記憶が薄い。しかも、俺のこんな様子を見て彼女は察してしまった様子。


「やっぱりかー……。どうせなら、自分で良いところ見せたかったんだけどなあ」


 フォローしようと口を開くが、ダサいことに何も浮かばなかった。


「あの、一つ、質問いいですか?」と花咲さんが、おずおずと手を上げる。上根部長は後ろで同級生と思しい生徒と話していて、ハグからは解放されていた模様。


「もちろんもちろん! 何かな?」

「あの、先輩は赤根絵美あかねえみさんですよね?」

「うん、パンフの配役通りだよ?」

「あの、そのパンフに書いてあることなんですけど……この脚本と演出の所に書いてある『江見明音えみあかね』さんってひょっとして、先輩のことですか?」


 慌ててパンフを見直す。


   ・葛藤に勝っとお! ~チョコレートを添えて~

     脚本:新谷昌治・

     演出:上根沙織 原案:新谷昌治


   ・キツネツキ

     脚本・演出:


 前半の脚本と、後半に至っては脚本と演出に、共に名前が記されている「江見明音えみ・あかね」、そして目の前のコイツの名前は「赤根絵美あかね・えみ」。

 いつか言っていた「ほら、私の名前って『アカネ』にしても『エミ』にしても、どっちで呼んでも名前っぽいでしょ?」という言葉を思い出す。


「だーから言ったでしょ。私はお飾り部長で、アカネちゃんが凄いんだって!」


 いつの間にか部長さんが後ろにいて、俺の頭に手を置いている。ちょ、ポコスカ叩かないで下さい。


 当の赤根本人は、顔を耳まで真っ赤にして蹲り、ちょっとコミュニケーションを図るのが困難な状況になっていた。



     *  *  *



 芦原や羽鳥先輩にも挨拶をして、講義室を後にする。ちなみに羽鳥先輩は、前半の劇では天使役を、後半の劇では斧をもった村人役を演じていた。

 あの後、ダンゴムシ状態の赤根から辛うじて聞けたのは、役者として舞台に立つことよりも、その物語を書いたのが自分であると知られる方が、万倍恥ずかしいらしいということだけだった。

 あの後、何度も凄かった、面白かったと伝えたのだが、言えば言うほど縮こまってしまったのだ。


 部屋を出るとき受付の人に、前半の劇にも登場したチョコレート菓子を手渡される。

 ここですぐ食べるのも躊躇われ、ポケットに仕舞おうとしたとき、ちょうど後ろにいた花咲さんが声をあげる。


「あ、先輩! このチョコ、メッセージが書かれてますよ! 私は部長さんからでした」


 言われて小袋を裏返すと、


  ――今日は来てくれて、本当に本当にありがとう!

           葛藤娘役・赤根絵美


 そう、書かれていた。


 俺は「こちらこそ」と呟いて、今度こそ帰路についたのだった。

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