第83話 平和という夢

 ようやく脳内で繰り返されていたあの光景が止まった。

 砲撃された教会に、並べられた死体。


 あの日から何年の時が流れたのだろう。

 私は夫が牧師の仕事で使っていたスータンを着用し、あらゆるものを犠牲にしながら復讐へ人生を注いだ。教徒を指揮し、女神を手に入れ、やっと今日帝国のトップである男を葬ることができた。


 意識が朦朧とする。

 霞んでいく視界の中には金髪の少女がいた。私が女神を宿す儀式を施したカミリヤという実験体だ。

 彼女が私を導き、ここまで辿り着かせてくれたのだろう。

 復讐は成し遂げた。私のしてきたことは無駄ではなかったのだ。

 女神様へ感謝しなければ。


「あぁ、女神様ぁ……」


 今のルイゼラの体は召喚された勇者によって首元から体を左右に切断され、残り僅かな命を保つのがやっとの状態だった。

 それでも女神に感謝の意を伝えるため、徐々に消えゆく力を振り絞って体を前に進めていく。


「あなたが私に与えて下さった力で、憎かった帝国の敵を討つことができました。愛する夫と、息子の仇をようやく討てたのです。何年も待ち望んだことでした。ありがとうございます……」

「あなたを狂わせていたのは、愛する者を奪われた悲しみだったのですね」


 カミリヤは死にゆく蛇女百足ラミアピードに駆け寄り、黒い甲殻の頬を撫でた。


 カミリヤにも最愛の人が殺されてしまう辛さはよく分かっている。

 両親とレイグ、彼らを目の前で失ったとき、自分の胸が張り裂けそうになった。あのときの悲しみをルイゼラも体験したのだろう。とても他人とは思えない、自分と似た境遇を抱えていたのだ。


 しかし、自分が深い憎しみを抱えているからといって、何の関係もない人間を復讐に巻き込むなど許されるはずがない。

 ルイゼラの抱える悲しみを終わらせなければ、これからも彼女自身まで苦しむことになる。


 カミリヤは手でルイゼラの頬に触れた手をそこに止めた。ひんやりとした甲殻に彼女の温もりが伝っていく。その心地よさに、ルイゼラはゆっくりと目を閉じた。


「ここまで尽くしてくれたあなたに、私から最後の祝福を与えます」

「はい……」

「あなたの活躍に私は助けられました。だから、もう安らかに眠りなさい」

「ありがとうございます、女神様ぁ……」


 それはロゼッタからではなく、カミリヤ自身から発せられた言葉だった。

 憎しみに閉じ込められていたルイゼラには、どうか穏やかなまま眠って欲しい。それを促すことができるのは、彼女が縋った女神である自分の言葉だけなのだ。


 半魔蟲種ハーフアラクニドの顔から湧水のように冷たい涙が流れる。


『ねぇママ、早く夕食にしようよ』


 ルイゼラの視界に、もう女神は映っていない。

 そこにあったのは、あの平和なときを過ごしていた我が家だった。夫も息子も椅子に腰掛け、テーブルに料理が並べられるのを笑顔で待っている。


「あなた、坊や……ご飯の時間よ。今日はね、庭で採れた野菜を調理してみたの。一緒に……育てた……あの野菜を……スープに入れたから……好き嫌いせず……食べて……ね」


 そこでルイゼラの言葉は途切れた。


 最期は夫と息子と平和に暮らしている夢を見ていたのだろう。彼女は息子に触れようとしたのか、体に残された唯一の腕を前方に伸ばしたまま事切れていた。


 漆黒の甲殻に覆われた体は白い蝶々へと変わり、夜空に昇っていく。これが半魔蟲種から放たれる蟲魂の形なのだろう。パタパタと羽を動かし、大群の蝶々は消えていった。


「さようなら、ルイゼラ」







 そのとき――


「あーあ、やっぱり勇者には敵わなかったかぁ」


 この場の雰囲気に似合わない陽気な声が背後から届いた。


「ヘレス……いや、今はエルシィと呼んだ方がいいかしらね」

「そっちこそ、ロゼッタと呼んだ方がいい? それともカミリヤちゃん?」


 そこに立っていたのは、骸鬼ヘカトロン

 そして、その肩に座るエルシィだ。彼女は高い位置からカミリヤを見下ろしながら不気味に微笑んでいた。


「どうしてルイゼラにあんなことを……!」

「勘違いしないで欲しいなぁ。私はあの人の復讐をお手伝いしてあげたんだよ」

「あなたのしていることは、憎しみの中に人を閉じ込めているだけです! あんなの、絶対に苦しかったに決まっています!」

「人間が復讐をしたがるのは、そういう生き物だからなんだよ? 遺伝子に刻まれた本能に従うことが悪だとでも言うの?」

「例えそうだとしても、私はあなたのしてきたことと、これからすることを許すことはできません! 私は、あなたをここで終わらせます!」

「へぇ。それは厄介だね。潰さなきゃ」


 エルシィが魔蟲種をこの世界に持ち込まなければ、私の両親は無事だったのかもしれない。

 もしかすると、私が彼女へ抱いている感情は復讐心なのかもしれない。

 彼女の言うとおり、復讐が人間の本能なのかもしれない。

 私がこれからしようとしていることは、彼女への復讐なのかもしれない。


 確かに、私もレイグさんがマグリナに斬られたとき、彼女へ復讐したいと思った。マグリナにも同じ目に遭わせたいと思った。

 復讐したいという気持ちを認めなければ、今の私を否定することになってしまう。


 それでも、私はエルシィがやろうとしている復讐計画を許すことができない。

 私は魔蟲種にされた人の魂、魔蟲種に殺された人の魂……色々な人の無念を見てきた。みんな、救ってあげたかったのに、私は彼らを天へ見送ることしかできなかった。彼らの苦しそうな表情が脳裏に過る。

 自分の復讐心は認めるのに、エルシィの復讐心は認めないなんて身勝手かもしれない。

 でも、このままでは私とレイグさんが過ごした世界が壊されてしまう。この戦いには多くの人の命が懸かっている。どうしても退く訳にはいかなかった。


骸鬼ヘカトロン、あの勇者の相手は頼んだよ。私はあの女を黙らせる」

「勇者さん、骸鬼ヘカトロンの相手をお願いします」


 少女たちの命令に、巨人同士は剣先を互いに向けた。


闘神蟻兵アヌビスアント骸鬼ヘカトロン――」

戦乙女蟻兵ヴァルキュリアアント勇者ブレイブ――」


 骸鬼ヘカトロンの紅い瞳が、勇者ブレイブの青い瞳が、同時に煌く。


「――行っちゃって!」

「――行きなさい!」


 その言葉が少女たちの口から出た瞬間、夜空に紅い流星と青い流星が衝突した。

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