第77話 書斎という部屋

「誰かいるか!」


 僕は玄関の扉を蹴破ると、廊下に向かって叫んだ。しかし反応はなく、ひたすら静けさが続くだけだった。家の使用人すら出てこない。この騒ぎでどこかに逃げたのだろうか。

 窓から入る微かな光を頼りに廊下をゆっくりと進んでいくと、その突き当たりに壁へ不自然な隙間が開いている箇所を発見した。隠し部屋というヤツだろう。奥には地下へと続く階段があり、その終点に設置された鉄扉は開いていた。


「誰かいるなら出て来い!」


 扉へ声を掛けるも、やはり返事はない。

 その地下室は酷い臭いが充満している。部屋の隅には拷問器具が並べられ、床には人間の排泄物らしき液体とヘドロのような悪臭を放つ薬品が散らばっていた。

 この部屋はクアマイア家が闇家業で使っている拷問部屋なのだろう。しかも排泄物の乾き具合からして、つい先程まで誰かが拷問されていたようだ。


「カミリヤ……?」


 彼女の姿が思い浮かんだ。


 そのとき、松明の光に床で何かがキラリと反射する。拾い上げて正体を確かめてみると、それは金色の髪の毛だった。長さからして女性のものだろう。

 状況からして、カミリヤがここにいたのは間違いない。だが彼女の姿は屋敷のどこにもなかった。魔蟲種アラクニドに殺されたのなら死体は放置されているはず。この騒ぎでマグリナたちがどこかに彼女を移送したのだろうか。


「どこにいるんだよ、カミリヤ」


 ここに彼女はいない。マグリナの邸宅を探すという目的は達成されてしまった。

 他に彼女が閉じ込められていそうな場所の心当たりはない。それならば早くデリシラたちと合流するべきだろう。


「クソッ!」


 彼女を見つけられない焦りで僕は部屋の角に置いてあった机を蹴飛ばした。あと一歩早ければカミリヤを発見できたのに。今頃彼女は何をしているのだろうか。まだ生きて魔蟲種から逃げているのだろうか。それともどこかで死んでいるのだろうか。

 結局、僕は頭を掻きながら地下室を後にした。廊下を歩き、玄関へ戻っていく。


 そして、書斎の前を通ったとき――


「やぁ、レイグ君。君もここを探しに来てたんだね」


 書斎の扉がゆっくりと開き、壁一面の本棚の前から若い女の声が聞こえた。

 聞き覚えのある声だ。自分のことを『レイグ君』と呼ぶヤツはアイツしかいない。


「どういうつもりだ、エルシィ」

「何のことぉ?」


 黒い甲殻のようなデザインのドレスを纏った少女。手には魔導書を持ち、僕に向かって微笑んでいた。


とぼけるな。カミリヤはどこだ?」

「ふふっ、私も探しているとこだよ。まぁ、蝿の王ベルゼブブを八体も動員しているから、すぐに見つかると思うけどね」


 蝿の王ベルゼブブ系の魔蟲種はエルシィと感覚を共有することができる。彼らがカミリヤを視界に捉えれば、その情報はすぐにエルシィへ届くはずだ。

 エルシィの背後にある窓の外には蝿の王ベルゼブブ刈者リーパーらしき紫の光が街の上空を右往左往しているのが確認できる。おそらく、彼らもまだカミリヤを発見できていないのだろう。


「それよりもさぁ、レイグ君。この場所、懐かしいと思わない?」

「……」

「ほら、ここで私たちは最初に出会ったんだよ?」


 あの出会いは今でも鮮明に覚えている。

 当時の僕はどうしても魔導書が欲しくて、今いるこの書斎に潜入した。そして本棚から目的のブツを抜き取ったとき、エルシィと遭遇した。


「なぁ、エルシィ」

「どうしたの?」

「これが本当にお前がしたかったことなのか?」

「私のしたかったこと?」

「お前は表にある死体の山を見て何も思わないのかよ! 幼い子どもまで殺されていたぞ!」

「そうだね。彼らは人間を無差別に殺すから」

他人事ひとごとみたいに……」

「レイグ君は変わったね。昔は他人の命に無関心だったのにさ。私の暗殺計画まで立てたくせに」

「それはこっちの台詞だ。僕の知ってるエルシィは人付き合いが苦手なだけの普通の女の子だったはずだ」


 あれからお互い随分と変わった気がする。僕は権力へ執着する心が徐々に薄まり、彼女は天界にいる神々への復讐心を強めていった。


 いつから僕は人が命を失うことが恐くなっただろうか。

 カミリヤが僕にとって大切な存在になってから、彼女がいなくなることが恐怖に感じるようになった。デリシラやユーリッドととも一緒に戦って、他人の存在に強く有り難味を強く認識できた気がする。


「もうこんなことは止めろ。このまま続けても、きっとお前が望むものは手に入らない」

「何を言ってるの? もうすぐ魔蟲種の大部隊が完成するんだよ? それを使って憎い連中を皆殺しにすれば、私の願いは達成され……」

「いいや違う。お前の本当の願いは、それじゃない」


 僕とエルシィは似ていると思う。

 僕はスラム街で虐げられ、エルシィは天界の神々に虐げられた。過去に受けた暴力が世界への憎しみとなり、復讐として力を入手することへ執着し始めた。

 でも、僕らが本当に望んだものはその先に存在しない。復讐を達成すれば自動的にを入手できると思っていたが、その考えは間違っていることにカミリヤとの出会いを通して自覚させられてしまった。


「僕らが恋人同士になった瞬間を覚えているか?」

「学生寮のときでしょ?」

「あのとき、お前は泣いていた。心の底から欲しいものを手放さなければならないとき以外、あんな涙は出ない」


 昔の僕は薄々分かっていたのに、気付かないフリをした。幼少期、大通りでのパレードにいた皇帝陛下を見て、嫉妬したのは彼の権力などではないことを。


「僕は気付いたよ。自分が本当に欲しかったものに」

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