第9章 世界はどこまでも理不尽だ
第68話 調教という拷問
寒い。
背中に当たる冷たい感触に意識が覚醒していく。
それは氷のように硬く、冷たさを通り越して痛みすら感じる。
これは、あのときの感覚だ。
私が儀式で閉じ込められていたときの――。
「う……ぅん……」
「ようやく目を覚ましたか、カミリヤ。私の屋敷へようこそ」
鉛のように重い瞼を開けると、そこにはあの人がいた。
レイグさんを殺した人。マグリナ・クアマイアという名前の政治家だ。
私は冷たい石床の上へ仰向けに『大』の字に横たわっている。服は全て剥がされ、全裸の状態だ。床の冷たさが直に体の奥へ突き刺さった。
暗い部屋に、私とマグリナの二人だけ。
その場所の雰囲気は私が数年間監禁されていた地下室とよく似ていた。壁も天井も石材で構成され、壁に掛かる
「恋人を殺された気分はどうだ?」
「あなたは……!」
私は彼女へ起き上がろうとして、手足に力を込める。
しかし、動かない。
手首と足首が何か硬いもので縛り付けられているようだ。暴れるほど、それは肌に食い込む。
私はレイグさんの敵を討つことも許されないのか。マグリナは拘束を解こうと必死に抵抗する私を見てニヤニヤしていた。
「どうしてあなたはこんなことを……!」
「決まっているだろ。貴様の勇者召喚を帝国のために使わせるためさ」
「そんなこと、絶対にさせません! あれは魔蟲種を倒すため私に与えられた力で――」
「この状況にもなって、まだ貴様はそんなことを言っているのか?」
ドガッ!
マグリナの足が私の腹に落とされた。ハイヒールの尖った踵が柔肌に深く食い込んだ。内臓が引き千切られるような痛みが私を襲う。
「うぐっ!」
「私と共に、貴様の力で帝国による新世界を創るつもりはないか?」
「あなたは国民を守る政治家なのに、どうしてこんな酷いことを……!」
「国を守るためだからこそ、私はこういうことをしているのだ。私の家は代々この帝国の皇帝に仕え、祖父も父も国のために尽力してきた。私は先人を見習って、それを真似しているだけに過ぎない」
痛みと悔しさで涙が出る。
どうして私はこんなことをされるのだろう。
勇者召喚を魔蟲種討伐のためだけに使うことが、そんなに彼女の気に食わないことなのだろうか。
「まあ、簡単には承諾してくれないことは分かっているさ。だから、あのときみたいに、貴様は何も感じなくなればいい」
「ど、どういう意味ですか?」
マグリナは私の言葉を鼻で笑い、地下室の隅に置いてある小さな机へ手を伸ばした。
彼女が左手に握っていたのは、薄汚れた書物。右手には、深い皿に入れられた黒色の液体。
「これはルイゼラが管理していた孤児院の地下室から発見された書物らしい。内容は女神を体に宿すために必要な薬の調合記録だった」
「あ……あぁ……!」
「そしてこれが、かつて貴様が儀式中に飲まされていた薬を再現したものだ」
両方とも私には見覚えがある。
一瞬、マグリナの顔がルイゼラと重なった。あの本と薬は私がいた孤児院でよく見かけたものだ。ルイゼラが何度も自分の前に突き出していた記憶が脳裏に蘇る。
「い、い……や……!」
恐怖で声が出ない。
薬から血液のような、泥のような、酷い悪臭が漂っていた。顔を背けるも、マグリナは皿を近づけてくる。彼女は私をこれに飲ませるつもりなのだ。
「貴様には孤児院に閉じ込められていたときの記憶を思い出してもらう」
「ど、どう、して……!」
「貴様はそのときの苦痛から、感覚を全て殺すことで自分を守ってきたのだろう?」
マグリナは耳元で舐めるように囁いた。
「目で見るのを止め、耳で聞くの止め、鼻で嗅ぐのを止め、舌で味わうのを止め、肌で感じることさえ遮断した。だから貴様には閉じ込められていた当時の記憶がほとんどないはずだ」
「わ、私は……」
「そうやって、これからは人を殺すことに何も感じない、私の言葉に従うだけの人形になってくれればいい」
彼女は私の顔を押さえ付け、強引に開かせた口から黒ずんだ液体を流し込んだ。
ああ、懐かしい苦味と臭いだ。
もう二度とこの薬には出会いたくないと思っていたのに。
口の中がネバネバして、いつまでも臭いと苦味が残り続ける。吐き気を催す悪臭に、体がその液体を激しく拒絶した。
薬から逃れようと暴れても、手足に巻き付けられている麻縄が自分に痛みを与えるだけだった。
「ああっ! ゲホッ! ゴホッ!」
「痛みも、悲しみも、全て感じなくなれば、貴様は楽になれる。かつての私みたいに」
「オェッ……!」
「12歳頃のことだったかな。私もな、尊敬し憧れていた父が裏で汚いことをしていたのを知ったときはショックだったよ。この家を継いだら、一緒にその悪行も継がなければならないことも私を大きく苦しめた。部屋に引き篭もって泣きっ放しだったな」
マグリナは薬を私に飲ませ続ける。
「だから私も全ての感覚を殺し、人を殺めることに何も感じなくなるよう努力した」
「あ……がッ……!」
「貴様もそうだろう、カミリヤ?」
口の中に留まり続ける苦味や辛味に、私は孤児院にいた頃の記憶を思い出していく。
嫌だ。
嫌だ。
思い出したくないのに。
数年前、儀式として私は孤児院で薬を毎日飲まされ、地下室に拘束された。
それだけじゃない。
女神を宿すための生贄として、何人もの人間が私の前で殺されたのだ。
斧で頭を割られ、腹をナイフで裂かれ、眼球を棒で
儀式中、生贄から目を逸らしたり、瞼を閉じたりすることは許されない。
生贄の発する悲鳴から耳を塞ぐことも許されない。
私の肌は他人の血を浴びて、ドロリとした生温かい感触が自分を包む。
だから私は五感を消し、目の前で起こる惨劇から自分を守ったのだ。
今日までせっかく忘れていたのに。
それに比べて、レイグさんと旅をしていたときは自分が充実していた。
彼が作る料理は美味しかった。山菜や肉の匂いが食欲を掻き立てた。
そして毎日色々な景色と、レイグさんの顔を見ることができる。
彼と肌が触れ合ったときは、その温かさに心が安らいだ。
魔蟲種との戦いで命懸けな日々だったけど、その辛さが消えるくらいに楽しかった。
私は彼と一緒にいたことで「もう一度感覚を取り戻したい」と強く思い始めていた。
でも、レイグさんは死んでしまった。
マグリナに斬られ、橋から落ちた。
もう彼とは会えない。
彼が生きていなかったら、自分が感じる全てに意味なんてないのだ。
どうしてこんなことになったのだろう。
私が女神を宿したから?
それとも、勇者召喚できたから?
私はこの力を使って魔蟲種を倒し、みんなを幸せにしたかっただけなのに。
理不尽さと絶望から押し潰されるように、私は全ての感覚を遮断していった。
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