第62話 エルシィという半魔蟲種
暗殺者が僕の前から消えた数分後、男が逃げた方角から足音が近づいてくる。亜麻色の髪と緑色の瞳が暗闇にうっすらと輝いていた。デリシラの相棒であるユーリッドが戻ってきたのだ。
「おっす、ユーリッド。戻ってきたかぁ」
「……」
「ほら、レイグが目を覚ましたんだぞ。もっと喜んだらどうだ?」
川辺で横たわる僕の姿を見ても、相変わらず彼の表情は変化しない。
ユーリッドは持っていた布袋を僕へ突き出した。袋の緩んだ口からは数個の果物が入っているのが確認できる。
「食え」
「え?」
「人間の血肉になりやすいものを調達してきた。森の恵みに感謝するんだな」
袋に詰められている果物は周辺に自生する果樹から採集してきたものらしい。大量失血した僕のために、栄養価の高い種類を選んできたようだ。
僕はまだ痛む腕を伸ばし、それを掴み取って口に運ぶ。甘いような苦いような複雑な味がする。正直言ってあまり美味くはないが、贅沢は言っていられない。
早くカミリヤを救出しなければ。そのためにも今はできる限り多くのエネルギーを摂取すべきだ。僕は一つの果物を食べ切ると同時に、別の果物へ手を伸ばした。
「帝国民を助けるのはこれが最初で最後だ」
「ありがとう、ユーリッド」
ユーリッドは帝国の人間を酷く嫌っている。
それでも僕を助けてくれたのは、以前の魔蟲種討伐で共闘した恩があるからだと思う。蝿の王・刈者を倒したことで彼らの刑期は一気に終了した。その借りだけはキッチリ返したいのだろう。
「ところで早く聞かせてくれ。お前がそこに倒れていた理由をな」
「ああ、そうだな。実は――」
そのとき――
「待ってくれ」
デリシラの狼耳がピクピクと動いた。そして鼻で細かく息を吸い、嗅覚を研ぎ澄ます。
何か不審な気配を察知したのだろうか。眉間にしわが寄り、髪が逆立つ。
ユーリッドも
「どうした?」
「何かがこっちに近づいてる」
「さっきの連中の仲間か?」
「いや。アタシも嗅いだことのない臭いだ。少なくとも相手は人間じゃない」
冷たい風に乗って漂う、血のような鉄錆のような臭い。いつの間にか暗い森はその不穏な空気に覆われていた。
僕は以前にもこの臭気に出会ったことがある。
間違いなく、これはアイツの気配だ。
バサバサバサ……!
森の奥から現れたのは大量の蛾だった。星空をびっしりと覆い尽くすほどの数が集結し、こちらへ向かってくる。やがて地表に到達した蛾は体同士を重ね合わせ、何かを形成し始めた。足、腿、腰、胸、腕……それは人間の姿へと成りつつある。
「な、何だよありゃ……!」
そして顔部分が作られていく。蛾が徐々に色付き、その輪郭や表情が細かく分かるようになる。口が完成すると同時に、そいつは僕らに向かって言葉を発した。
「やぁ、レイグ君。また会ったね」
それは間違いなくあの少女の声だった。
幼さが抜けない、甘い声。
「やっぱりお前か……エルシィ!」
そいつはエルシィだった。前回、戦場で出会ったときと同様、甲殻のような漆黒のドレスを纏っている。
蛾の姿になっていたのは彼女が使う魔術だろう。元天界の神であるエルシィは、僕らには理解できないような未知の魔術を多数習得していてもおかしくない。
「レイグ、こいつはお前の知り合いか?」
「知り合いだが、今は険悪の仲だ」
デリシラが鼻を手で軽く塞ぎつつ、エルシィを睨みながら僕に尋ねた。僕の知り合いだと分かっても、エルシィへの警戒心は一切緩まない。デリシラもユーリッドも、目の前にいる少女が自分よりも強く危険なことを本能的に察しているのだろう。黒髪の少女へ襲い掛かる体勢を維持していた。
「この女、人間と魔蟲種、両方の臭いがするぞ」
「そうだねぇ。私、もう人間じゃないの。
死者の魂から作られる魔蟲種だが、エルシィは生きたまま魔蟲種となった。彼女の自我や知識を引き継いだまま魔蟲種の強靭な肉体を入手したと考えると、なかなか厄介な相手だ。
「エルシィ、今度は何をしに来た?」
「レイグ君へ特別にヒントをあげちゃおうと思ってね」
「『ヒント』……だと?」
「知りたいんでしょ? あの宝玉を無効化する方法を」
何を言ってるんだ、こいつは。
あの宝玉を無効化してカミリヤに勇者召喚でもされたら、自分が不利になるんじゃないのか?
「なぜそんなことを僕に教える?」
「まあまあ。話は最後まで聞いてよ」
エルシィはやれやれと手を振った。
デリシラとユーリッドに牙や矢を向けられていても、少女は平然と話し続ける。彼女は完全にこの場の空気を支配していた。
前回の戦闘では魔蟲種を圧倒していたユーリッドも、エルシィを前に冷や汗を垂らす。僕らは何も動けぬまま、彼女の動きを眺めていた。
「あの宝玉はさ、膨大な魔力の結晶なんだよ。それが複雑に絡み合って、女神が勇者召喚するために必要な天界へのアクセスを妨害しているの」
「僕も宝玉のことはそれくらい把握してる。それがどうしたんだよ」
「でもね、もし万が一、その妨害を潜り抜けて勇者召喚に成功してしまったら、あの宝玉の存在は無意味になると思わない? せっかく大量の魔力を費やして作成したのに、それが無駄になっちゃうんだよ」
エルシィはニヤリと笑った。
「だから、そういう場合に備えて宝玉に封じ込まれた魔力を組み換える操作が隠されているの」
「魔力の編成が変われば、妨害する効果が失われる……ということか?」
「そゆこと」
彼女の話が本当だとするならば、その隠し操作をすることで宝玉の妨害は無効化される。そうすればカミリヤは再び勇者召喚できるはずだ。どうにかマグリナから宝玉を奪い返し、それを実行すれば僕らに勝機が巡ってくる。
ただ、問題は――
「それで……その組み換えられた魔力は何に変化するんだ?」
「ふふっ、やっぱり気になるよねぇ」
妨害する効果が失われたとしても、何らかの形で魔力は残る。組み換えた先で、その魔力はどうなるのか。
どう変化するにしても、きっと僕やカミリヤにとって有利なことではないだろう。リスクを把握しなければ、より悲惨な結果を生み出すかもしれない。
「私が操作すれば、単純に自分の魔力へ還ってくるだけだよ」
「お前以外の人間が使うと別のことが起きる、みたいなニュアンスだな」
「そのとおりだよ、レイグ君」
エルシィはそこまで自慢げに語ると、自分の腕に視線を当てた。そこには光沢を放つ甲殻がある。そんな細い腕を見つめたまま、彼女は自分以外の者が行うリスクを口にした。
「その操作を行った人間を、私と同じ
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