第61話 ユーリッドという森精霊
「ク、クソッ……」
一人逃げ延びた暗殺者は闇夜の森林を走り続けていた。薮や木の根を飛び越え、帝都の方角へ。ただの死体確認になるはずだった任務が、あんな強敵と出くわすなど誰が想像できただろうか。
彼は灰狼女が追跡してこないことを確認すると、足を止めた。
「マグリナ様に報告しなければ……!」
そのとき――
「……誰に報告するんだって?」
突然、横から発せられた低い声。
そこにいたのは亜麻色の長髪を垂らした若い
「き、貴様は……!」
「精霊解放軍の幹部……と言えば分かるか? 急に森が騒がしくなったと思ったら、まさかマグリナの手下と遭遇するなんてな」
「まさか、あのユーリッドなのか!?」
ユーリッドは逃亡で息を切らしている暗殺者へゆっくりと歩み寄る。
精霊解放軍のユーリッドは帝国の軍事関係者の間では有名人だ。しかしその姿を実際に見た帝国兵はほとんどいない。対峙した多くの兵は彼を認識する前に遠距離から矢で殺害されているからだ。
暗殺者の男もユーリッドの存在自体は知っていたが、こうして姿を確認するのは初めてだ。相手が名の知られた狙撃手であるだけに、男はよろよろと後方へたじろぐ。
「帝国の軍事政策を強引に進める高官の女、マグリナ・クアマイア。その私兵とならば、帝国の機密情報も知っていそうだな」
「お、俺に何をする気だ……?」
「お前には拷問する価値がある、ということだ」
拷問。
その言葉に、彼の背筋は凍り付いた。
表に出ないような仕事を普段から請け負う彼にとって、拷問の痛みや苦しみはよく分かっている。彼は拷問する側として、マグリナの下で他人に屈辱を何度も与えていた。
あの辛さが自分へ回って来るかもしれない。
そうした恐怖に体を支配され、彼はほぼ無意識的に自分の弩弓をユーリッドへ向けていた。
しかし、装填された矢が放たれることはなかった。
彼が矢を放つよりも早く、先にユーリッドが魔力で形成された光の矢を撃っていた。2本の矢が弩弓本体に突き刺さり、その機能を完全に破壊していたのだ。
「ひっ!」
「
ユーリッドの速すぎる射撃に戸惑いながらも、彼は逃げる手段を考える。
もう弩弓は使えない。腰に隠している小さいナイフでユーリッドに挑むものなら、刃が当たるよりも先に敵の矢が自分を貫くだろう。
彼は先程と同様に懐から煙玉を取り出すと、地面へ投げ付けた。小さな爆発とともに白い粉が宙へ広がる。森林は闇の黒と煙の白に包まれ、互いの視界を塞いだ。
自分からユーリッドの姿は捉えられなくなるが、それは相手も同じだ。男はその場から後方に走り出した。
どうにかヤツが自分を見失えば、逃走するチャンスが生まれる。
「フン、目くらましか」
ユーリッドは敵の考え付いた逃走手段を鼻で笑う。もちろん彼にも敵の姿は見えていない。だが
それは
彼は煙に向かって光矢を放つ。矢尻は煙幕を裂き、木々の間を抜け、逃げた男へと真っ直ぐに向かう。
「ぐぁっ!」
男は足に激痛を感じ、盛大に転がる。彼が痛む箇所へ目を向けると、両足の
「あぁ……あ……!」
「この環境下で
暗闇から落ち葉や草を踏む音が近づいてくる。
武器は破壊され、逃げる足も失った。男にユーリッドから逃げる手段は自決用魔法陣による『死』しか残されていない。
「そ、祖国に栄光あれ……!」
男は体の奥が業火に焼かれるような痛みを感じながら、その命を燃やしていった。肉の焦げる臭いが漂い、男の肉体は黒くボロボロと崩れる。
ユーリッドが彼の元に辿り着いたとき、死体は年齢や性別が判別できないほど燃え尽きていた。
「こいつも自決したか」
ユーリッドは男の焼死体を自分の目で確認すると、踵を返してレイグとデリシラを待たせている川辺へ戻り始めた。
帝国の連中は死んででも口を割らない。敵に関する情報の少なさに、ユーリッドは焦りを感じていた。
今回は帝国に捕まり、彼らのために刑罰として魔蟲種討伐のタダ働きをさせられた。これによって何人もの帝国兵の命を救ってしまったことを考えると胸が痛む。本来戦うはずの相手を助けて、自分の所属する
精霊解放軍と農民戦線を主体とする
それ故、ユーリッドには自分が彼らを勝利へと導かなくてはならないというプレッシャーを彼自身も知らないうちに抱え込んでいた。
最近、『
どうにかして帝国の侵略に対する戦略を早急に立てねば。
今の
ユーリッドは森林に広がる暗闇を睨みながら、唇を噛み締めた。
帝国の機密情報を多く知る、大臣の元秘書官。
レイグの正体を彼はまだ知らない。
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