第8章 憎悪に囚われた先に

第59話 デリシラという灰狼女

「……おっす、生きてるかぁ」


 誰かが僕の頬をベチベチ叩いている。

 力加減を知らないのか、かなり痛い。


 意識が朦朧とする。

 体が冷たい。全身が濡れているみたいだった。


「うぅ……」

「おぉ、生き返った!」


 僕は痛みに耐え切れず、目を開けた。

 薄暗く霞んだ視界に映るのは、獣人の女。

 灰色の髪の上に、狼のような耳が立っている。


 こいつは誰だっただろうか。

 以前に見た記憶があるのだが、頭が重く、よく思い出せない。


「ぐふぅ! ゲホッゲホッ!」

「おーおー。たくさん飲んでたな。吐け吐け」


 咳とともに口から水を一気に吐き出す。

 僕は水を大量に飲み込んでいたらしい。

 吐き出しを促すよう、獣人の女も僕の背中を擦って手助けしてくれる。


「大丈夫かぁ? アンタ、そこの川辺に倒れてたんだぞぉ」

「ゲホッ……僕が?」

「帝都で釈放手続きをようやく終えて故郷くにに帰ろうとしたらさ、野道でアンタの匂いがしたんだよ。血の臭いもしたからさ、これはタダ事じゃねーなって探したら川辺で死にかけてるアンタを見つけた、ってところかな」


 一通り水を吐き終えると、女は水の流れる音がする方向を指差した。そこには高い木々に囲まれた渓流がある。


 どうして僕はあんな場所に?

 記憶が混濁している。

 あちこちが痛い。体を動かそうとすると、激痛に拘束される。

 自分の体に目を向けると、上半身の服が脱がされ、毛布が掛けられていた。そして、胸元から腹にかけて刀傷が確認できる。簡易的だが治療魔術が施された痕があり、それが流血を止めていた。


「とりあえず腹と腕の切創と、背中の打撲はユーリッドが応急措置をしてくれたからさ、今は休んでおけよ。致死量ギリギリの血液が流出してるかもしれないんだからな」

「待ってくれ。切創? 背中の打撲? ユーリッド?」

「ああ、お前、ショックで記憶が飛んでるのか」


 彼女は僕に顔を近づけ、瞳をジロジロと覗き込む。

 近くの焚き火のゆらゆらとした光が、彼女の顔をオレンジ色に照らしていた。


「じゃあ、アタシのことは分かる?」

「いや……」

「デリシラだよ。覚えてない?」


 デリシラ。

 ああ、そうだ。こいつは以前一緒に魔蟲種討伐をしたデリシラ・ガーグワンだ。

 ユーリッドという森精霊エルフも一緒だった。彼がこの傷を治療してくれたらしい。


「アンタはどうしてこの場所に倒れてたんだ?」

「そうだ……僕は……!」


 最初に思い出したのは、苦悶を浮かべるカミリヤの表情。

 僕に助けを求めていた。


 そして僕は急速に記憶を取り戻していった。


 アルビナスにカミリヤが連れ去られたこと。

 マグリナに斬られたこと。

 橋から落ちたこと。

 谷川の水面に叩き付けられたこと。


「ああっ……クソっ!」


 思い出すと同時に、焦燥感が湧いた。

 震える手で拳を作り、地面へ叩き付ける。


 カミリヤがマグリナに捕らえられた。

 宝玉も彼女の手に渡っている。

 これではマグリナの思うがまま。ただの女の子に過ぎないカミリヤが、虐殺のための兵器として扱われてしまう。


 樹上に見える星の位置からして、日没から数時間は経過している。四足歩行戦車ランドウォーカーの移動速度を考えると、マグリナはもうすぐ帝都に到着する頃だ。

 帝都周辺は兵士の警備が厳重であり、カミリヤを帝都内に連れ去られてしまうと奪還手段が限られてしまう。政府内で高い地位にいるマグリナなら、僕への殺害命令など簡単に軍内部へ通達できる。大臣の秘書を務めてきた僕だが、帝都の門をくぐれるかは怪しい。


「アイツを……カミリヤを……助けないと!」

「おい、そんな体で動こうとするなよ!」


 立ち上がろうとすると、体がさらなる激痛に襲われる。下手に動こうとすれば再び傷口が開いてしまうだろう。

 デリシラも僕を地面へ押さえ付けた。


「だけど、行くしかないんだよ。じゃないと、カミリヤは……!」


 マグリナは「カミリヤを自分に従順になるよう調教する」と言っていた。

 具体的に何をするのかは不明だが、あまりいいことでないのは容易に想像できる。薬品や魔術を使った拷問でもするつもりだろうか。様々な不安が僕の頭に浮かんでくる。


 そのとき――


 バシュッ!


 僕らを囲む木々の間から聞こえた物音。

 これは弩弓から矢を放つ音だ。


 音がした方向へ振り向いた瞬間、矢が目の前に迫っていた。

 誰が、なぜ僕へ放ったのか。

 何も考える暇もない。


 その矢が僕に当たろうとしていたとき――


「よっ!」


 突如、視界の横から伸びる腕が矢を掴んだ。


 僕の前で、矢が静止している。

 脳天に直撃するギリギリだった。


「誰だよ、危ねーな」


 矢が当たる直前で掴み、僕を救ってくれたのはデリシラだ。彼女が持つ化け物じみた怪力は、豪速の矢さえも軽々とキャッチする。


「さっきから見てないで出て来いよ。臭いで位置くらい分かるぞ」


 デリシラは矢の飛んできた方角へ声を送る。僕からは暗闇で何も見えないが、彼女は敵の姿をハッキリと捉えているのだろう。


 彼女の掛け声で、暗夜の森から黒い軍用コートを着た連中がゾロゾロと現れる。数は4人。各々が弩弓や剣で武装しており、こちらへ敵意を向けていた。

 彼らには見覚えがある。橋の上でマグリナと一緒にいた男たちだ。僕の死体を確認しに来たのだろう。マグリナも随分と用心深い女だ。


「誰だ、こいつら」

「マグリナの私兵だ。目的は僕の殺害ってところだな」

「へえ……じゃあ、ヤツらにアンタを引き渡せば帰ってくれる?」

「それはどうかな。目撃者は全員消すのが暗殺者のやり方だと思うが」


 その瞬間、僕らを囲む敵が一斉にこちらへ走り出したのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る