第53話 【過去編】努力という束縛
そして、エルシィが自分自身の正体に気付く日がやって来る。
彼女が魔神ヘレスに変わるのは、時間の問題だったのかもしれない。
* * *
「ねぇ、レイグ君」
「は……?」
ある真夜中のことだった。
学生寮ではほとんどの生徒が就寝しており、学園全体が静寂に包まれている。
僕は次の魔術試験に備え、自室のベッドに横たわりながら書物を読んでいた。蝋燭の小さな明かりで書かれている文字を追っていく。
そのとき、学生寮の自室と廊下を繋ぐ扉が音もなく開いた。
小柄な少女が入室し、僕の上に四つん這いになる。
「エ、エルシィ!?」
「あんまり大きな声を出さないで。他の生徒に気付かれちゃう」
何の気配もなく現れたので、随分驚いたのを覚えている。最初は幽霊でも出たのかと思い、心臓が止まるかと思った。
しかし、それ以上にエルシィが男子寮に侵入してきたことにビックリした。
基本的に異性の学生寮に入ることは校則違反に当たる。その理由はもちろん不純異性交遊やらを防ぐためだが、まさか優等生を演じている彼女がそんなことをするとは……。
「ど、どうしたんだよ……こんな時間に」
「今日はね、レイグ君にお別れを言いに来たんだ」
お別れ。
その言葉の意味を考える暇を僕に与えず、彼女は言葉を吐き続ける。
「まず、レイグ君に嘘を吐いてたことを謝りたいかな」
「嘘?」
「クアマイア家の当主が魔導書を盗まれて怒っていること。あれは嘘なんだ」
僕が彼女の下僕になった理由でもある、魔導書窃盗事件。当主に僕の犯行を告げ口してほしくなければ、彼女の言いなりになるしかなかったが……。
「本当のところ、魔導書は家に沢山あるからね。どの魔導書を盗られたのかすら把握してなかったみたい」
「そ、そうなのか?」
「偶然それを見たわたしは君を脅迫して、下僕にしちゃったことを謝りたいんだ」
彼女の声が震えている。
仄かな月明かりに反射する彼女の表情は、これまで一度も僕にことがないほど悲しげだった。
「今までごめん。色々と」
そのとき、僕は自分の頬にぽたぽたと温かいものが落ちてくることに気付いた。
涙だ。
エルシィの目から溢れ出た雫が、僕の顔を濡らす。
「いつからか、君とは対等な関係になりたいって思うようになった。下僕じゃなくて、友人とか恋人とか、そういう関係に」
「だったら、なればいいんじゃないのか?」
「ううん。もう今はなれないの」
彼女は涙を袖で拭い、僕の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「わたしには、これからやらなきゃいけないことがある」
決意は固そうだ。
彼女が涙を流すほどなのだから、かなり重大な用件だろうとは察していた。
まさか、それが神々への復讐だとは考えもしなかったが。
「でも、それをやるには
「『やる』って、何を?」
「それを君に言うことはできない。きっと、許してくれないから」
もし、このとき彼女の目的が『人間の魂を魔蟲種に置き換えて神々に復讐する』と知っていたら、僕は彼女を抱き締めて引き留めていただろう。
「それって、辛いことなのか?」
「うん……」
「なら、止めればいいんじゃないのか?」
「それもダメ。わたしはこの目的のために膨大な時間と労力を費やしてきたの。今更止めることなんてできない」
魔神ヘレスは復讐のために色々な手を打ってきた。
魔蟲種を形成する技術を天界から盗み、この世界に自分の肉体を作った。そして転生し、着々と魔蟲種による軍隊を組織している。
ここまでやるには時間も手間もかかっただろう。この復讐計画を止めるということは、その努力を放棄することと同義だ。彼女はそれが怖かったのかもしれない。
「そっか。そういうことなら、僕は止めない」
僕は彼女が遠くへ行くことを許した。
僕自身にも、努力を重ねてきた目的がある。
皇帝のパレードを見た日に決意した、『高い権力を手に入れる』という夢。
僕もそれに向かってひたすら時間と労力を費やし、スラム街のチンピラに過ぎなかった自分が魔術師の名家まで昇格できた。そして今は政府職員や皇帝の側近を目指している。
自分にもそんな夢があるのに、彼女には「目標に向かうのを止めろ」なんて言うことは不公平だと思ったのだ。
もしかすると、僕とエルシィは似ていたのかもしれない。
放棄できないほどの努力を抱え、目標に向けて
そんな生き方が彼女への共感を呼び起こしていた。
「もう学園を出るのか?」
「うん」
「だったら、今だけでも対等な関係にならないか?」
「……フフッ、そうだね」
最初で最後の、一瞬だけの恋人関係。
これから別れる彼女への思い出になればいいと思って。
「レイグ君、大好きだよ」
「僕もお前のことが好きだ」
そうして、僕らはベッドの上で長いキスをした。
やがて唇の柔らかな感触が離れていく。
「レイグ君。バイバイ」
彼女がその言葉を放つと同時に、僕の意識はブツリと途切れた。
睡眠魔術を使われたのだろう。
* * *
翌朝、エルシィは学園から姿を消していた。
教室にも、廊下にも、彼女の姿はない。
あの思い出の図書館にも、彼女はいなかった。
初めて味わう、深い喪失感。
いつも彼女が座っていた図書館の椅子に、自分の指をそっと置いた。
「やっぱり、引き止めるべきだったのか……?」
僕は椅子の上にある虚空へ話しかけた。
自分の周囲から他人が一人いなくなるだけで、こんなに寂しいものなのか。
地位や金、能力、名誉……大きなものを得るばかりだった僕の人生。
そこに今、とても大切なものが失われた気がする。
このとき、僕は薄々気付き始めていた。
幼少期に見た皇帝陛下のパレードで、僕が嫉妬したものは高い権力ではないことを。
僕が本当に欲したものは、もっと別のものだったのかもしれない、と。
でも、僕はそれに気付かないフリを貫いた。
それを認めてしまうと、これまでの努力が無駄になるような気がして怖かったのだ。
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