第8話 粘体蛞蝓という魔蟲種

「きゃああああああああああっ!」


 そんなカミリヤの悲鳴が聞こえたのは、夕食を焚き火で作っている最中のことだった。

 どうやら彼女に何か危険なことがあったらしい。正直、彼女には少しでも痛い目に遭ってほしいのだが、仕事で彼女を守らなければならないが辛いところだ。


「はぁ……行くか」


 僕は山菜のスープを調理する作業を中断し、カミリヤが向かった泉へトボトボと足を進めた。


 そのとき――


「たすけてええええええ!」


 暗闇に包まれつつある森林から、白い何かがこちらへ走って来ている。僕は杖を構え、戦闘準備を整えた。何だアレは。

 やがてこちらへ接近するにつれ、徐々にそのフォルムが明らかになってくる。


 青白く月光を反射する肌と髪。

 その表面には水が滴っている。

 ゆさゆさと激しく揺れる胸部。


「レイグううう! だずげでえええええ!」


 こちらへ走っていた白い影の正体は、全裸のカミリヤだった。一糸纏わぬ淫らな姿で僕へと全力疾走している。彼女は号泣しており、大粒の涙を撒き散らしていた。

 本当に何があったんだよ……。


 彼女は僕の元へ辿り着くと同時に、僕へ抱きついて来た。彼女の体が冷たい。体を拭かずに泉から走ったのだろう。びしょびしょな肌が僕の魔術師用ローブを濡らす。


「あのね、レイグぅ!」

「どうしたんだよ、裸で」

「ヤヅが出だの!」

「ヤツって何のことだよ?」

「魔蟲種! わだじをおぞっでぎたのおおおお!」


 彼女は僕の胸元に顔を埋めた。彼女の顔からは涙や鼻水など様々な液体が流れており、滴る水と一緒にそれらもローブに擦り付けられている。汚いんだよ、駄女神騎士。


 しかし、魔蟲種が出たとなれば厄介だ。日が落ちているため周囲の視界は悪く、相手によってはこちらが不利になるかもしれない。僕は再び杖を強く握り、カミリヤが来た方向へと杖の先端を向ける。


「で、その魔蟲種はどんなヤツだった?」

「あのねぇ、気持ぢ悪いヤバいヤヅだっだぁ!」

「もっと具体的に特徴を言え」


 そのとき――


 ガサガサッ!


 藪が不気味に音を立てる。風で動いたわけではなさそうだ。確実に藪の中へ何かが潜んでいる。


「ひぃぃっ!」

「どうやら、その魔蟲種がお前を追ってきたようだな」


 そして――


「出たあああっ!」

「こ、こいつは……!」


 藪から出現した魔蟲種。

 てらてらと光を反射する粘液を纏った表面。

 丸く小さなフォルム。


 今日でまた一つ、カミリヤに呆れてしまった。


「お前、こんな雑魚に驚いていたのか?」

「レイグ、どうにがじでええええ!」


 僕らの前にゆっくりと姿を現したのは粘体蛞蝓スライム・スラッグという魔蟲種なのだが、こいつは現段階で存在が確認されている最弱の種類だ。最大でも20センチほどまでしか成長せず、硬い甲殻や鋭利な爪も皆無。小さな子どもが踏み潰すだけで死ぬくらいに弱々しい。人間の食料庫を荒らすため駆除は必要だが、戦闘においては何の脅威にもならない雑魚中の雑魚。

 目の前の個体はもぞもぞと粘液を垂らしながら僕らへ近づいている。


 そんなヤツにこの女はここまで怯えていたのだ。こんな様子ではもっと強い魔蟲種に出会ったときのことが思いやられる。


「……」


 僕は抱きつくカミリヤを突き放し、その粘体蛞蝓スライム・スラッグへ近づいた。

 足元のそれを見つめ、足を上げる。


 ブチュ!


 僕はヤツを踏み潰した。ネチャネチャと気持ち悪い音が立つ。


「ぐずん……ぐずん……」


 カミリヤは全裸でその場に蹲り、泣き続ける。よく見ると彼女の足元に水溜りができていた。失禁しているらしい。ツンと鼻にくる臭いが広がる。


粘体蛞蝓スライム・スラッグ討伐。1ポイント獲得でちゅ。残り99999ポイント」


 58号がポイントの累計を報告する。

 初めての魔蟲種討伐。それは駄女神騎士の裸体を見るとともにスタートした。

 本当にこんな女を連れたまま任務達成できるのだろうか。僕はその場にうな垂れ、しばらく呆然と立ち尽くしていた。







     * * *


「っへくし!」

「体を冷やし過ぎたな」


 数分後、カミリヤは毛布を体に巻き、焚き火の前でブルブルと震えていた。何度もくしゃみを起こし、鼻水の滝を垂らす。彼女は泉から上がった後、体を拭かずに全力疾走したために体が冷え切ってしまったのだ。『バカは風邪を引かない』とよく言うが、そんなことはないらしい。


「さ、寒いよレイグ……」

「森の空気は冷たいからな。真っ裸で森林を走り回るなんて馬鹿げてる。お前があんな雑魚に慌てなければこんなことにはならなかったんだがな」

「ひ、酷い……」


 カミリヤは僕を睨んでくる。

 しかし、彼女が風邪を引いた状態では戦力ダウンだ。元々戦闘能力に期待はしてないが、適当に僕の周りを逃げてくれればそれでいいと考えていた。だが今はそれすらも難しい。彼女に痛い目を見てほしい僕にとって不本意ではあるが、早く彼女を回復させた方がいいだろう。


「ほら、早く体を温めろ。それと、治癒魔法もかけてやる」

「えっ……」


 僕は羽織っていたローブを彼女の背中に羽織らせる。これで悪寒も少しはマシになるだろう。

 さらに体の免疫力を上昇させる治癒魔法を発動させた。杖を握り、彼女へ念を送る。数分もの間、彼女の背中を擦りながら。

 やがて彼女の震えが止まり、くしゃみが治まっていく。


「ふぁ……温かいよぉ、レイグ」

「これに懲りたら水浴びは安全を確保してからやるんだな」


 僕はカミリヤの回復具合を確認するため、彼女の顔を覗き込んだ。頬が紅潮し、先程と比べて体温も上昇していた。

 だが、どうも様子がおかしい。彼女は僕と目を合わせようとせず、俯き気味に焚き火を見つめている。


「その、レイグ……ありがとう」

「態度が拗ねているように感じるが?」

「だって、さっき私のアレ……見たでしょ」

「は?」

「私の裸を見たでしょ」

「そりゃあ見るだろ」


 僕が彼女の裸体を見たことを気にしているようだ。羞恥心を感じているのか、顔全体が赤い。

 そんなの自業自得だろ、似非女神。あんな状況で逆に見ない方が難しい。


「馬鹿なことを気にしてないで早く寝ろ。明日も戦闘になるかもしれないんだから休んでおけ」

「お、おやすみなさい……」


 カミリヤはその場に横たわり、瞼を閉じた。すやすやと寝息が聞こえる。余程疲れていたらしく、ほんの一瞬で眠りに就いたようだ。

 ギャーギャーと騒がしかった女が就寝し、ようやく一人でゆっくりできる。こいつのペースに合わせていたせいで僕自身も疲労が溜まっているらしい。深いため息が出る。


 そのとき――


「キュイイッ!」


 僕の背後から聞こえる高い声。

 それは、明らかに人間のものではない。


 これは……アイツの声か。

 魔術師養成学校の実戦授業で何度も対峙した魔蟲種。実物を見るのは数年振りになるだろう。


 振り返ると、エメラルド色の眼光が僕たちを囲んでいた。何対もの光る複眼が木々の隙間に確認できる。いつの間にか彼らの群れに遭遇してしまったらしい。軽く20体以上はいる。


「キュィッ!」

「雑魚ども、お前らの戦力はそれだけか?」


 黒い甲殻を身に纏った小人。彼らが木々の陰からゾロゾロと姿を現す。その姿は人の形をした昆虫とも表現できるだろうか。手足の鋭い爪が暗闇の中で月光を反射する。


「キィィッ!」


 高い鳴き声を上げるとともに、彼らは僕に向かって一斉に駆け出した。

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