天使の記憶

 戦争五日目の夜が、あと約二時間程度で開けようという夜。

 翔弓子しょうきゅうしは眠れぬまま、一日を終えようとしていた。隣で眠る龍道院りゅうどういんから、逃げるチャンスを得るためである。

 双頭の大蛇の群れから助けてもらったし、腹部の施術もしてもらえた。天使の回復力を持ってすれば、あと半日もあれば完全にくっ付くだろう。

 天使とて、恩くらい感じる。だから彼女に対して、今のところは危害を加えるつもりはない。

 だがこれは戦争。残る人間はたった一人。故にもし勝ち残れば、結局は戦う運命だ。

 故に、今回見逃すことだけを恩返しとして翔弓子は行こうとする。龍道院が寝返りを打って背を向けた瞬間に翼を広げ、出ていこうとした。

 ――の、だが。

「あら、トイレ? 私も行くわ……」

 何故か翔弓子が行こうとする度、龍道院は必ず起きる。その度に何かの用事で出ていくのだと勘違いされて、ついて来られてしまっていた。

 結局この時も用を足すつもりなどなかったため、近くの茂みに隠れてただ座り込む。龍道院は見てはいないのだが、気配が感じ取れる範囲内に必ずいて待っている。

 しかも彼女が指定する場所が森なので飛び上がることもできず、走ったところで捕まることは確実。結局逃げることもできなかったのである。

「終わった?」

「……はい」

 龍道院がしている間に逃げる、という手もなくはない。しかし結局は森の中という地形が不利であり、状況は変わらなかった。

 さらに言えば、移動の際には――

「ホラ、少し汚いけどちゃんと繋いで。夜でも夜行性の魔獣はたくさんいるんだから」

 そう言って、手を繋がされる始末である。

 夜行性の魔獣がいることも知っているし、警戒を怠っているはずもないのだが、龍道院はそんなことも構わず手を繋いでくるのだった。

 恩人であるが故に拒む理由が見つからないのだが、生きている年月の長さでは圧倒的に上回っているが故に子供扱いされるのが不服。

 しかしどれだけそれを言おうとも、肉体年齢ではまだ子供だと言われるのがオチだ。故にここは論理的に、手を繋ぐことによるデメリットを上げるのだが――

「夜行性の魔獣が出た場合、手を繋いでいては行動に遅れが生じます。適度な距離を保ちつつ、魔獣の接近に対応できる態勢を取っておくのが得策だと考えます」

「逃げようとしてるのバレバレよ。それに手が使えなくても、脚があれば平気でしょ?」

 もはや魂胆がバレバレだ。

 どれだけ論理的に説明しても、もう逃げるための言い訳としか思われないだろう。この場では仕方なく、諦めるしかなかった。

 寝床は、翔弓子が一番目イナ・ディフテロと会話していた穴。岩の天井によって雨風が防げるのは確かに利点なのだが、正直その場にいたくなかった。

 故に眠れないのではなく、眠りたくなくて寝ない。無論この場から早く離脱したいと言うのもあるが、一番にあるのはそれだった。

「ホラ、早く寝なさい? さっきから寝れてないんでしょう?」

 まさに筒抜け。しかしそれでは悔しいと謎の対抗心を自分も知らず燃やす翔弓子は、ぷいと愛らしくそっぽを向いた。

「天使は魔力さえあれば、無休でも五日間は行動可能です。先日魔力を溜めるため、数時間の休息を取りました。故に、眠る必要はありま――」

「はいはい。わかったから、とっとと寝なさい」

 そう言われて、腕を引かれて強制的に寝かされる。その頭は龍道院の温かな膝の上に置かれ、頭頂部には細い指先で優しく叩かれる。

「子供はお昼に遊んで、夜は寝るのが仕事よ。夜更かしなんていけないわ」

「あ、あの……だから私は子供ではないと何度――」

「いい加減、あなたも諦めなさい。私からしたらあなたは子供、もう覆り様のない事実よ。いいから寝なさい。起こしてあげるから」

――眠っていいのですよ、***。大丈夫、起こしてあげますから

 過去。

 灼熱を宿す龍道院の膝の温もりと、頭頂部を柔らかく刺激する指先が振動させるリズム。それが緊張状態だった翔弓子の眠気を誘発する。

 その眠気が呼び起こす、脳裏の片隅に焼き付いた記憶の断片。

 それはまだ、翔弓子という名すらも与えられていなかった頃。

 まだ幼く、記憶などほとんど忘れてしまう頃。

 天界による感情や思考回路の抑制が、施されていなかった頃の記憶。

 少女はあの人のことが好きだった。

 自分と同じ、白銀にわずかな青が混じった美しい長髪。女性的に膨らんだ胸に顔をうずめれば、得られるのは大きな安心感。

 さらにその安心感を助長させるのは、あの人の優しい声音と、冷たい肌の感触。とくにあの人の膝の上に頭を乗せれば、その心地よさに一瞬で意識を持っていかれ、熟睡は確実だった。

 あの日の夕暮れ、太陽が窓を通して差し込む場所。あの人は、夕暮れの日差しで温まるのが好きだった。いつも窓の側にロッキングチェアを置いて、そこに座って揺られる人だった。

 あの人の声音と声色と、匂いと冷たい温もりと、あの人の優しくやわらかな笑顔。少女は、あの人が持つそれらすべてが好きだった。

 好きな、はずだったのに。

 何故思い出せなかったのか。何故鮮明に、あの人のことを思い出すことができないのか。

 天使として選ばれたとき、感情も記憶も何もかも、抑制されたことがわからない。故に何故それ以降の記憶がないのか、何故あの人との思い出がそれだけだったのか、何故別れてしまったのか、自分にはわからなかった。

 故に知らない。溢れ出て来た、その涙の意味も。

 龍道院は何も語らず、ただ翔弓子を眠りへといざなう。膝を濡らす冷たいものが涙だと知りつつも、その理由を問わなかった。

 問う必要はなかった。

 泣きたいときに泣けばいい。まだ子供なのだから、それくらいの我儘はまだ許される。我慢することなどないのだから。

 故に問わない、問う必要がない。涙の理由は知らないが、しかし今子供が何かを思い出して泣いている。それが悲哀の類でないことは、見ればわかる。

 だからただ泣かせる。物思いにふけることだって、こどもには必要なのだ。

 自分には、決してなかった時間だから。

「雨……?」

 異空間に閉じ込められた大陸には珍しく、雨が降り始める。草木が生い茂り、さらにはいくつもの川が流れているのだから、降らない方がありえないのだが。

 しかし異空間に雨雲が溜まることは珍しく、さらに言えばこのときのような豪雨になることはまた珍しい。

 屋根の下にいた龍道院と翔弓子は助かったが、同じ時刻、屋根など皆無の山登りをしていた純騎士じゅんきし魔天使まてんしは、その豪雨と吹き荒ぶ強風に晒されていた。

「ああああああ」

「なんで口を開けてるんですか……」

「なんでって水分補給だよ。山越え始めてからろくに取ってねぇだろ? ドブの水飲んだらさすがに腹壊すし、貴重だぜこれ」

「それはわかりますが……行儀が悪いのでやめてください」

「んだよぉ、こんな辺境に来てまで行儀なんて気にしてられるかよ。そりゃ、騎士様にはなんか気品とか華麗さとか、色々なんかあんのはわかるけどな?」

「私の名は純騎士です。尊敬の念もないのにだなんて付けないでください」

「怒んなよ。とりあえず雨宿りする場所探そうぜ」

 そう言った魔天使に従い、二人で雨宿りをできる場所を探した純騎士だったが、山頂に屋根になる部分などあるはずもなく、結局山を越えてしまい、雨宿りをしたのはそれから五時間もあとのこと。

 二人が入ったのは、巨大な獣が居住していた岩壁に空いた穴。その穴に住んでいた獣を魔天使が倒し、無理矢理奪ったのだ。

 そしてその獣は今現在、魔天使の胃袋の中である。魔天使はその獣から取った爪と牙を、炎で炙っていた。

「何をしているのですか?」

「うん? おまえ、あのドラゴンシスターの鎌壊しちまっただろ? あのままじゃ戦いにくいと思ってよ、こしらえてんだ」

「敵に塩を送ってなんの意味が? あなたが不利になるだけではないですか」

「そりゃおめぇ、万全じゃねぇ敵を倒して得られるのは称号と勲章だけだろ? だがこの戦いにそんな煌びやかなもんはねぇ。だったらおめぇ、何を原動力に戦うよ。自分が死んでも、仲間が勝ってくれるわけじゃねぇ。死んだら本当に終わるだけ。だったら、自分の納得いく戦いをするだけだ。今のあのドラゴンシスターを倒しても当然の結果。んなんじゃ、俺が納得できねぇ。それだけさ、結局は」

「……理解に苦しみます」

 そう言って、龍道院のための武器を作る魔天使の側を離れる。焚火から離れるのは肌寒かったが、しかし隣にいるのもイヤだった。

 騎士は、戦いに美学など持ってはいけない。戦いは常に悲惨で残虐で、残酷なもの。人は常に戦いを恐れ、忌み嫌わなくてはならない。それが先代から伝わる、騎士の享受だ。

 故に戦いに美学を持ち、戦いに充足感を得ようとしている魔天使を、理解することはできない。理解してはいけないのだ。

 故に魔天使と距離を取る。元々天界から大罪人として堕天してきた男を、理解するつもりなどない。

「おめぇ、俺が指名手配されてるの知ってたな。何したって聞かされてる?」

「……ただ、大罪としか。団長からは、害がないとされていた国を一機で滅ぼしたからだと、聞かされましたが」

 理解するつもりはないのだが、しかい会話に応じてしまうのは、純騎士の人の良さだろう。そんな人の良い純騎士の返答を、魔天使は笑い飛ばした。

「国を一機たぁ、そりゃあ小国でも飢餓になってねぇと無理だな。天使の時の俺じゃあ」

「今も天使なのでしょう?」

「いんや? 天界から堕ちた時点で、俺はもう天使じゃねぇ。翼をがれた上、天使時代の武器も取り上げられた。おまけに頭の拘束も完全に解きやがった。まぁこれは不幸中の幸いって奴だが?」

「頭の……拘束?」

「んだよおめぇ、天使のことなんも知らねぇのかよ。まぁ地上の人間なんてみんなそうか」

 諦められた様子で言われ、少し腹が立つ。状況の理解が追いつけていないのは確かにこちらの不手際だろうが、しかしそんな態度を取らなくてもと思い、純騎士は内心頬を膨らませた。

「俺達天使は、天界の操り人形なのさ。脳には興奮や暴走がないように絶えず抑制が働き、思考回路は九分九厘閉鎖。記憶すらもできねぇ。何も思わず何も感じず、ただ命令だけ受けて生きる種族。それが天使なのさ。だからそんな奴が、単独犯罪なんてできやしねぇんだよ」

「頭の拘束とはそういうことですか……ですが、それならなぜあなたは堕とされたというのですか?」

「あぁぁ……俺が勝手にその拘束を解いたからだ」

 信じられないと言いたげな純騎士。しかしその顔を見ていない魔天使は、自身の過去へと話を伸ばす。

「多分、どっかとの戦争の帰りだったと思う。俺は怪我のせいで天界に帰れなくてな。当然俺を助けろなんて命令もねぇから、全員に置いてかれたんだろ。記憶は、どこかもわからねぇ森の中。俺は生涯で初めての空腹感に襲われて、死ぬと思ってた」

――お腹空いてるの? よかったら……食べる?

「そいつと会ったのは、今思えば運命だった。俺はそいつのお陰で助かって、生涯で初めての充足感と、満腹感と、恋心を知った。俺はそいつを抱き、そいつを天界に連れて行くって約束して、天界に戻った。が、それが罪だった」

「地上の人間を、愛してしまったことが……ですか?」

「そうだ。なんで地上の女とまぐわったんだと、卑下された。俺はそんな国に反発して暴れ、何百って元同胞を皆殺しにした結果、堕とされた。俺に標的を向けなきゃ、俺が抱いたそいつが危なかったからな、だから俺が堕ちたのはよかった」

 魔天使の語る表情がずっと真剣みを帯びていたことに、純騎士はなんの違和感も感じられなかった。

 今している話がすべて嘘で、自分を正当化するためのただの虚構だという可能性もあるというのに、しかし彼の話す表情を見て、純騎士は嘘だと思えなかった。

 つい先日まで、まったく嘘をついているように見えなかった永書記えいしょきに簡単に騙されていたと言うのに。

 しかしこれは、純騎士が学習していないのではない。語る魔天使の熱が言の葉に乗って、純騎士に伝わっていたからである。

 人の心に漬け込むのではなく、人の心に響かせる言葉。知ってか知らずか、魔天使は後者の言葉で語っていた。故に最近騙された純騎士ですら、素直に聞いてしまう力がある。

「だが、戻って来た俺を待ってたのは、病魔に侵されたそいつの苦しそうな姿。当時じゃ不治の病、今でも相当難しい病気だ。治す術はなかったが……死ぬのを遅らせる手段はあった」

 そう言った魔天使は、そのときを思い出しているのだろう。歯を強く食いしばって、ずっと牙を焼いていた手が止まっていた。

「俺はそいつに溜まってた菌を、そいつの左腕ごと食った」

「食っ……た……? 腕を?」

「わかってるさ。ひでぇよな。生き永らえても、そいつは片腕になっちまう。今までできたことが、できなくなる。しかもそれで完全に治るわけじゃねぇ。いつか必ず、病魔に喰われて死ぬ。ひでぇ話だ」


「だが生きてて欲しかったんだよ。生きて、俺の隣にいて欲しかった。側で、ずっと笑ってて欲しかった。俺の我儘なのは、充分承知さ。でもさ、楽しかったんだ。何百年と生きて来た人生で、初めて……俺は、満たされたんだ」

 ここで初めて、魔天使は自分を擁護する言葉を使った。それが正しいと、初めて自分を護る。

 だが同時、魔天使が守っているのは自分だけでなく、彼が愛した女性をも守っているのだと察する。

 きっと彼と彼女は、幸せな時間を共に過ごしたのだ。それを自らの言葉で否定するのは、彼女と共に過ごした時間への侮辱に繋がる。そんなことを、したいわけがない。

 純騎士は理解した。

 魔天使は確かに、称号や勲章などに欲求が傾く人間ではない。それこそ、どうすれば自分が納得できるのか、満足できるのかを行動理念に動く人間だ。

 もしこの話が、嘘でなければだが。

「忘れないで欲しいのですが」

「あ?」

「あなたは地上では大罪人として名を轟かせ、そしてそれに見合うだけのことをしている方です。生きるためとはいえ罪は罪。そんな方の同情を引く話など、信用できるものではありません」

「あぁぁ……だから?」

「私はあなたを信じはしない。あなたが私をどう利用するつもりかは知りませんが、いずれは殺し合う運命。あなたの罪を許し、心まで許すことは、できません。それだけ憶えていてください」

 純騎士はまだ、雨が降る外へ。そして魔天使に隠れたところで、空に向かって大きく口を開け、降り注がれる雨を飲んだ。

 しかしうまくいかず、途中でむせる。

「私は……絶対に、もう……もう……」

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