ヘヴンズ・インヴェーダー

 異修羅いしゅらは立ち尽くしていた。

 右方には虫の息の天使。後方にもまた、虫の息のシスター。

 そして前方には、たった今吹き飛ばした女騎士。

 どれもこれも、自分に向かってきて返り討ちにあった戦士ばかり。異修羅の生きた人生で見れば、当たり前の光景だ。

 だがその光景の中に一か所だけ、たった一つだけ違うところがあった。

 痛い。

 痒いくらいの微弱なものだが、しかし痛い。

 見下ろせば、自分の体が血で濡れていた。今までだって他人の血で濡れて、自らの熱で蒸発させていたことは多々あった。むしろそればかりだった。

 だが今、自身を濡らす赤褐色は自らの体から溢れ出ており、そこは熱を持っている。

 それを、世では傷と呼ぶことすら知らない異修羅だったが、傷の概念だけは理解していた。

 だが初めて実感する。傷を負うこと、ダメージを負うこと。それによる熱と痛み。

 自分は初めて、ダメージを負った。その自覚。

 歯を剥いて静かに唸る。その目が真っすぐ見つめているのは、うつ伏せで倒れている女騎士一人。

 かすかに首を動かして、こちらを見ている眼差しは、生死で語れば死んでいない。だが希望か絶望かで語れば、もう半死半生といった具合だ。

 何に関してわずかに希望を感じているのか、異修羅は理解していない。故にそれを叩き潰そうなどとは、微塵も思っていない。

 だが結果的に、騎士の希望を打ち砕くのであろう。異修羅はほんのわずかの警戒をしながら、ゆっくりと女騎士に歩み寄り始めた。

 そしてその女騎士――純騎士じゅんきしはおもむろに迫る異修羅を見つめながら、歯を食いしばって悔んでいた。

 悔んでいるのは二点。

 突きの瞬間、異修羅の攻撃を回避するために最後の一歩を踏み出せず、力不足になってしまったこと。

 そしてもう一つ。前回の異修羅との戦いで負った肩の傷の処置を、ちゃんとしておくべきだったということの二点。

 一歩踏み出せなかったことと、肩の傷を適当に処置したまま放置していたこととが重なり、突きの充分な威力を発揮できなかった。

 攻撃はなんとか回避したが、吹き飛ばされた。しかも背中から落下し、脊髄が電気信号を誤ったか、全身が麻痺して動かない。

 事実敗北だった。

 異修羅はどんどん近付いてくる。純騎士との攻撃の錯綜によって砕けた斧と剣を捨て、新たな斧と剣を召喚して迫る。

 純騎士は瞳を動かし、レイピアを探す。

 見つけた――が、腕を伸ばして届くか否かという距離。さらに言えば今、腕も動かない。傷は痛み、神経は痺れている。

 だがそれでも、動けと命令する。

 今の攻撃で、自分は傷など負っていない。ただ衝撃を受けた脊髄が、一時的に過剰の電気信号を送り続けて体が混乱しているだけだ。

 だから脊髄よりも上位にある頭が――脳が強く連続で、同じ命令を出し続ければ、動く。今までにも何度か、こういった経験はした。

 だから動く。あとは時間の問題だ。レイピアさえ取れれば、立ち上がる勢いを乗せてゼロ距離で突ける。

 だから動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け!

「っぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああ!!!!!」

 声すらも原動力に、脳からの命令に変えて体を動かそうと必死にもがく。

 そして、異修羅の斧が大きく振りかぶられたその瞬間、純騎士の脳が繰り返し出していた命令がついに脊髄の命令の嵐を掻い潜り、腕に届いた。

 腕が伸ばされ、レイピアを掴む――

 ――はずだった。

「っ――?!」

 届かなかった。

 レイピアは純騎士のうんと伸ばされた指の先から、さらにあと少し遠いところに落ちていた。

 目測を誤った。

 一瞥しただけの純騎士の目は、レイピアまでの距離を自分の腕の距離と同じくらいだと見ていた。だがそれが間違いだった。

 さらに指一本。それだけ遠くにあったのだ。届かない。全身はまだ麻痺している。無理矢理動かしたとしても間に合わない。だって斧は――

 ――もう、振られているのだから。

 怪しく光る刃が迫る。鎧を身に着けているとはいえ、あのパワーだ。この体は鎧ごと、亀に喰われる蟹のように粉砕され、中身を散らすだろう。

 これが純騎士の最期か。

 世界最強の騎士団の副団長の末路か。

 なんとも呆気ない。呆気なさ過ぎる。こんなにも容易く、エタリアの純騎士が負けるのか。

 この戦いだけで述べれば、彼はたった一度の剣圧を吹きつけたのみ。そして今、とどめの一撃を振っている。

 圧倒的。

 実力の差は、まさに歴然。

 勝てるはずもなかったと、諦めざるを得ない。

 だがそれでも、やはり悔しい。

 それはここで呆気ない最期を迎えることに関してでも、レイピアが届かなかったことに関してでもない。

 純粋に、エタリアの純騎士として勝利できなかったことにある。

 世界最強の騎士団、その副団長であった自分がまさか、こんなにも無力に敗北するとは。

 たった一つだが、切り札と呼べる魔術を会得した。エタリアの国境を、敵に渡らせなかった。一度たりとも、命の駆け引きにおいて負けたことなどなかった。

 たゆむことなく続けて来た鍛錬によって得た、数々の成果。それが霞に消えていくような、無様な敗北。

 剣の鍛錬は怠らなかった。魔力を磨くことも、精一杯やって来た。副団長として騎士団を引っ張れるよう、たくさん勉強して経験を積んで、そして、ここまで来た。

 その功績が、実績が、すべて崩壊するこの敗北。許せない。

 自分がここまで弱いことが。自分がここまで無力なことが。自分がここまで、無様なことが。

 悔しいのだ。

 死は恐ろしい。今この体を両断する斧が振られていることには、恐怖を感じている。

 しかしそれを上回って、悔しさが込み上げる。自身の無力が、この怪物の強力に呆気なく敗北したことが悔しくて、情けなくて、泣きそうで――

 ――許せなかった。

「っぅぅぁぁぁぁああああ!!!」

 嗚咽を咆哮に変えて、湧き上がって来たものを嘔吐する。騎士としての本懐を遂げることも、実力を示すこともできずに死に逝く自分が、最後に挙げる威勢だった。

 そしてその虚弱な威勢ごと、異修羅の斧が純騎士の体を両断する――覚悟を、純騎士自身していたのだが。

 次の瞬間だった。三メートル近い異修羅の鉄塊じみた巨躯が軽く吹き飛び、純騎士のすぐ側に斧が滑り落ちて消えたのは。

「おいてめぇ、生きてるか? 生きてるよな、俺が助けたんだからよ」

 見上げると、そこには右腕を燃やして立つ魔天使まてんしの姿。その拳はたった今異修羅を殴りつけて浴びた血を燃やし、鉄の臭いを漂わせていた。

「よぉてめぇ、エタリアの純騎士か? そうだよな、どう見ても騎士っぽいもんな。俺のこと知ってるし、大国の騎士団にいるのはわかるぜ」

 立ち上がる異修羅。その眼力は再び狂気で満たされ、高き空に浮かぶ天界目掛けて咆哮する。

 そして六本の腕に新たな武器を持ち、自身を吹き飛ばした明確な敵意に向けて突進しようというところで、魔天使は異修羅に向けて拳を突き出した。

 突き出した拳と同時に炎弾が飛び、異修羅を焼く。

 龍道院りゅうどういんのゼロ距離噴炎でも動じなかった異修羅が、魔天使の炎を熱がった。すべての武器を落とし、六本の腕全部を使って全身をはたく。

 だが魔天使はかなり不満そうに舌を打った。

「やっぱり威力がねぇな……天使の頃なら、あいつくらい吹き飛ばせたんだが……ったく、今更武器が惜しくなってきた。銃天使じゅうてんしの野郎の言う通り、武器は隠し持っとくんだったぜ」

 さて、と、魔天使は向き直る。落ちていた純騎士のレイピアを持ち上げると純騎士の目の前に突き立て、そしてその柄に体重を乗せるように軽く寄り掛かった。

「大陸から一つ、参加者だろう人間の魔力が消えたことは知ってる。そこにてめぇと、もう一人別の魔力があったことも。どっちが殺した」

 純騎士は口を結ぶ。レイピアさえ渡されれば少しでも警戒心を解いたのだろうが、それを目の前に刺しながら渡さない魔天使に警戒を解けなかった。

 それを察した魔天使は、少し前に体重をかけてわざとレイピアを倒す。純騎士の顔のすぐ前に柄の先を落とすと、異修羅の方を一瞥してから続けた。

「その別の奴とてめぇが別行動を取ったことは解せねぇが……どっちかが殺したはずなんだ。でなきゃてめぇもそいつも、わざわざ俺達てきのいる方角に行くわけがねぇ。さて、改めて訊くが……どっちが殺した?」

「……私です」

「そうか」

 異修羅が炎を消しきった。声高らかに咆哮し、迫ってくる。そして力強く腕を引き、魔天使を殴り飛ばすために拳を振るった。

 だが魔天使はそれを紙一重で躱すと懐に入り込み、両の拳を異修羅の腹部に叩き込む。そして光り輝く煌炎を爆発させた。

 身長三メートル一三センチ。体重一一七七キロ。異形の中でも最長最重量のクラスに入る異修羅。その体が、先ほどの純騎士のように軽く吹き飛ぶ。

 空高く舞い上がった異修羅に跳躍で追いついた魔天使は、さらに肘から炎を噴き出してブーストし、異修羅の顔面に鉄拳を叩き込んだ。

 叩きつけられた草原を掘りながら転げ、地中に埋まっていた巨石にぶつかって停止する。

 それを確認した魔天使は純騎士の側に着地すると、今の攻撃がまるでなかったかのように話を戻した。

「さて、そんなてめぇにいい話がある。俺がとりあえずこいつをぶっ飛ばしててめぇを守ってやるよ。その代わり、てめぇは玉座いすの場所を教えな」

「あなたが、座ると……?」

「そうさ、いい話だろ?」

 確かに悪い話というわけでもない。

 自分は異修羅には敵わない。だが今のを見れば、魔天使ならば勝算は大きい。玉座と引き換えに命を乞えるのなら、いい取引だろう。

 だが――

「あなたに……? あなたが天界に戻れば、世界に混乱が訪れるのは必至ではないですか……! ここで私が生き残っても、あなたが勝てば世界が混乱する! それを救命を代わりに許せる私じゃないんですよ!」

 そうだ。相手は世界に名だたる大悪党、魔天使。

 天使の頃も数々の戦争で猛威を振るい、そして堕天してからも多くの国を焼き払った。その罪は充分に重い。

 そんな悪党に天界の玉座なんて渡したら、世界は混乱するに決まってる。

 例えここから生き延びたとしても、帰る世界が混沌としていては意味がない。今までもより激化した戦場に身を投じるなど、望むところではないのだ。

 だから譲れない。自分の命欲しさで、世界を危機に晒すことなどできない。

「あなたは……あなたはここで討ちます! 魔天使! あなたに……あなたに世界を託すことなど――」

「あぁわかったわかった。てめぇの言いたいことは充分わかった。がな?」

 遠くで起き上がっている異修羅を、魔天使は視線で差す。三度の攻撃を受けて完全に魔天使を殺しの対象として見た異修羅の眼光は血走り、赤く光っていた。

「あれはもうこの戦争ゲームの仕組みもわかってねぇ。敵を見つければ虐殺するだけの怪物だ。説得はもちろん、命乞いだって通用しねぇ。例え玉座いすを見つけても、座ることはねぇ。そんな奴をこの戦争ゲームに参加させた、天界の意図はらがてめぇにわかるか?」

「意図……?」

「あいつに俺達を始末させたあとで、あいつを始末しようって考えだろうさ。要は今回の戦争ゲーム、最悪勝者が出なくても問題ねぇとしてやがる」

「?! そ、そんな何故……あなたはともかく、彼女達は……私達が何故!」

「確かにてめぇはわからねぇが、俺は言うなりゃ天界の汚点。天界やつらが消したがってるのは当然だろう」


「んでもってそこのドラゴンシスターは世界最強の龍、炎帝の血を持つ女。脅威になるまえに消そうってことだろうな」


「そこの天使……翔弓子しょうきゅうしって言うんだが、そいつは生贄だな。最悪俺が死にそうになければ、そいつが始末する形だろう。俺さえ始末できれば、そいつの安否なんざどうでもいいんだろうぜ」


「で、目の前のあいつは俺達を殺す役。俺達さえ消せればあとは用済み。あんな魔術防壁も張れねぇ獣、空から光を落とせば充分だろうからな。消すのは楽なんだろうぜ」

「……つまりあなたは、この戦争は今までのものとは違うものだと?」

「いいや? 。天界にとって脅威になる奴、なりそうな奴、そいつらを殺せそうな奴、そしてそれらを駆逐する天界の戦士。それが配置されて始まるのは、次の玉座いすに座る人間を決める戦争なんかじゃねぇ」


「天界にとって都合の悪い人間を消す、ただの掃除だ」

「掃、除……?」

 全身の痺れは取れていた。立とうと思えば、今まで通り普通に立つことはできる。

 しかしそれでも純騎士は立てなかった。体を貫いた衝撃が、全身から力を奪っていたからである。

「てめぇが選ばれた理由は知らねぇ。ひょっとしたら、てめぇはこの戦争に参加してるどいつかを殺せる可能性を持ってるって点で、選ばれただけなのかもな」

「そん、な……そんな、勝手な都合で――」

「今頃気付いたのか? あいつらは昔から勝手だぜ? だってそうだろ? てめぇの国のトップの一人が死んだからって勝手に選んだ人間を勝手に参加させて勝手に殺し合いさせるんだ。これ以上ないくらい勝手だろ?」

「それは……」

 戦争の実態を初めて知って、初めて勝手だと思う。それもまた、個人の勝手ということなのだろう。この戦争の敗者が一人も帰ってきていない理由を知って、初めて思った。

 だがこれが、支配の力だ。

 天界はいつからこの地上の実権を握っていたか、いつから天界の法律が世界の法律となったのか、それは歴史を遡っても定かではない――永書記えいしょきならば知っていたかもしれないが――。

 しかし長年にわたって地上を支配してきた天界の命令は、絶対だ。来いと呼ばれれば来させることができ、殺し合えと言えば殺し合いさせられる。

 誰もそれを拒みたいと思っても、しかし結局は従う選択をする。これが天界の力だ。

 その力に、今更気付き、今更違和感を抱き、今更足掻きたくなってしまう。今まで当然だと思っていたのに。今の今まで仕方ないと思っていたのに。

 これは個人の勝手な妄想であり、事実は異なるだろうが、しかし当時、天界が最初に現れたとき、地上の人々は思ったはずだ。

 神を語る不届き者ながら、絶大な力を持つ天界。差し詰め、天からの侵略者ヘヴンズ・インヴェーダーとでも言ったところか。

 そして名の通り、彼らは地上を侵略したわけだが。

「まぁ、そんなわけだ。衝撃的だったかもしれねぇが? 今はそんな場合じゃねぇ。あいつをどうにかしねぇとな」

 魔天使を睨む異修羅が六本の腕を翼のように大きく広げ、その手に雷光を宿す。そして握りしめた武器は雷轟をまとった黄金の武装だった。

 斧に剣、盾、鎌、槍、そして銃。六つの武器はそれぞれ、神話において神殺しと呼ばれた武装をモデルに作られた最終兵器。不死身の皇帝に対抗すべく、国が用意した力だ。

 その名を、異修羅はこの場で初めて言葉として発する。

鞘に収まるときはなしクオリス・コッポッシ……!!!」

「そぉら来やがるぜ。戦わねぇなら邪魔だ。さっさと玉座いすの方に走りな。追いかけてやるよ。さっさとこいつを片付けてなぁ……!!!」

 魔天使の両腕を炎が走り、背中からも炎が噴き出す。背中のそれはまるで燃え盛る両翼で、高く跳躍したその姿はまさしく天使だった。

「さてやろうぜ、怪物。生憎と俺も、本気を出すと怪物って言われる姿しててなぁ! 仲良くやろうや兄弟!!!」

 異修羅の咆哮と武装の雷鳴が轟き、魔天使の灼熱と光が焼く。

 凄まじい大戦のその中で、純騎士はただ魔天使の言ったことが信じ切れずに固まっていた。

 悪党の言うことなど、いちいち真に受けていては損をするだけだ。そう言う奴は基本、自分を庇護するために嘘を重ねるから。

 なのになぜか、魔天使の言うことには嘘を感じられない。だがそれでも信じ切れる気はせず、半信半疑と言ったところ。

 しかし真実か虚偽か、それを決めつけることは、目の前の戦いを傍観する――いな、することしかできない今の彼女には、とても難しかった。

 

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