雨の中のきみ#45

その雨の日、わたしはいつも通り間宮さんに会うために大学へと急いでいた。そしていつも間宮さんがいる構内の近くにいたのは間宮さんではなく父だった。

「どう、して……?」

「由依、ようやく見つけたぞ。さあ家に帰ってきなさい」

「嫌だ! 絶対に嫌だ!」

「子供のようなことを言うんじゃない!」

父が、わたしを捉えようと迫ってくる。こんなところで捕まるわけにはいかない! 傘を放り出して走り抜ける。途中で莉々を見かけたような気もするが構っている余裕はない。そこかしこの裏路地を回って、大学内をぐるっと一周して元の場所に戻る。そこにはいつも通り間宮さんがいて。

「ま、みや、さん……」

「笹垣さん? どうした、傘もささずに」

「逃げてるの、お願い、助けて……!」

わたしの切羽詰まった表情を見て間宮さんはなにかを察してくれたのか、素早く腕をとると構内へと連れ込まれる。そのまま人気のない空き教室の隅まで走って隠れた。

「笹垣さん、大丈夫か」

「だい、じょぶ。ありがとう」

ぜえぜえと肩で息をしつつ間宮さんにしがみつく。間宮さんはなにも言わず頭を撫でてくれた。こんなときなのに、『間宮さんが喫煙所以外のところにいるのを見るのは初めてだな』なんて益体もないことを考えてしまう。

「なにがあったか聞いてもいいか?」

「そう、ね。いい加減言わないとね。間宮さん。重い話になるけど聞いてくれる?」

「聞く。話してくれ」

「じゃあ話す。あのね、さっき父が大学にいたの。いつも通り間宮さんに会おうと思って構内に入ったらそこには間宮さんじゃなくて父がいた。それで走って逃げてたの」

まずは今あったことを話す。間宮さんはなにも言わずに視線だけで話の先を促す。

「うちね、父が家庭内暴力を振るう人だったの。それで母は共依存になってて自分しか父を支えられないと思っている人だった。それと同時に母は自分のことを家庭内暴力に耐える可哀想な被害者だと思っていた。父は子供、わたしと弟を殴るのが趣味みたいな人で、機嫌が悪くなるといちゃもんをつけてよく殴ったり蹴り飛ばしたりしてた。逆に機嫌がいいときは母にモラルハラスメントのようなことを言っていたかな。そんなんだから、わたしと弟は常に父におびえながら生活をしていた。いつ機嫌が悪くなるかわからないし、いつ殴られるか、蹴られるか、怒鳴られたり壁にたたきつけられたり、首を絞められたり。まあそういうことが常にある家だった。だからわたしは高校在学中からに引越し屋でバイトを始めて、そこのつてで高校を卒業した春休みのうちに実家から逃げ出したの。実家の誰にも住所も教えずに。たまに母親から生存確認のメールが来ていたんだけど、一度返すのを忘れたら警察を呼ばれそうになって、それ以降はちゃんと返信してる。でもなんで今になって父がわたしを探しに来たかはわからない。もう二年半もたってるんだからわたしのことなんて気にしないでいてくれたらいいのに。せめて就職したタイミングとかならわかるんだけど、本当に、なんでかわからないの」

一気にまくし立てた。間宮さんは口を挟むことなく黙って聞いていてくれた。話している途中は間宮さんの顔を見ることができなくて、今もうつむいたままだ。

長い沈黙が続いて、わたしはそれに耐えきれなくて顔を上げると同時に間宮さんが口を開いた。

「ごめん」

「なんで間宮さんが謝るの」

間宮さんは悲しそうな、悔しそうな顔でわたしを見ている。なんで間宮さんがそんな顔するの。やっぱり話すべきことではなかったのだろうか。間宮さんを巻き込んでしまうようなことはすべきではなかったのに。

「全部、知ってた」

「え? どういう、こと?」

「笹垣さんが俺のことを覚えていないようだからずっと黙ってたんだけど、俺は幼いきみと友達だった」

益々訳が分からない。幼いころ? それはどれくらい昔のことだろうか。

「きみが幼稚園児のころに一緒に遊んだ『つっくん』って覚えてない?」

つっくん、つっくん。

「あ、つっくん……?」

思い出した。よく家で一緒に遊んでいた男の子だ。その子は黒い着物で黒い髪と黒い瞳で、いつもわたしや弟と遊んでくれていた子で。

「そう、つっくん。笹垣さんが父親に殴られそうになったとき後ろに転んだり、父親が体勢を崩したりしたこと覚えてる?」

「そういえば何度かそういうことがあったかも。え、あれってつっくんが助けてくれてたの?」

「ああ。きみの父親に俺は見えない。だからそうやってきみを守ろうとした。そう何度も使える手ではなかったし、俺も子供だったからうまく助けられないこともあったけど、それでもきみを守りたくて頑張った」

父に見えない? それはいったいどういうこと? 確か当時のつっくんはわたしとそう身長は変わらなかったはずだ。だから父の視界に入らないなんてことはなかったはずなんだけど。

「笹垣さん。落ち着いて聞いてほしい。俺はね、座敷童なんだよ」

「ざしき、わらし?」

座敷童って東北に伝わる妖怪のことだよね? 間宮さんが、つっくんが妖怪?

「そうだ。人間じゃない。今まで黙っててごめん」

「それはいいけど。でもどうして座敷童が家を出ているの? なんでわたしを助けようとしてくれたの? えっと、なんで」

なんで大学生になって再開したのかとか、なんで座敷童が成長しているのかとか、聞きたいことが多すぎて言葉にならない。

「一気に多くのことは答えられない。でもひとつだけ答えるなら、俺はきみのことが好きだったから守りたかったんだよ。理不尽な暴力に耐えながら、それでも前を向いて生きようとする笹垣さんの姿が俺には眩しかった。憧れた。だから守ろうとした」

それってつまり、間宮さんが以前に言っていた憧れの人はわたしだったってこと?

待ち焦がれていた人とはわたしのことだったということ?

「間宮、さん」

「混乱させてごめん。守れなくてごめん」

「ありがとう」

「え?」

「子供のころ守ってくれてありがとう。今もこうして守ってくれてありがとう。忘れていてごめんなさい」

いろんな感情が噴出して止まらないけど、今言えるのはそれだけだ。子供の頃も、大きくなった今も、間宮さんはわたしを守ってくれている。それがどれほど嬉しいことか彼に伝わるだろうか。

「きみに感謝されるのは申し訳ない。今日だってもう少し早く俺が姿を現していればきみを父親と鉢合わせるなんてことはしないで済んだのに」

「それって……」

「きみの父親はね、何度か大学に来ているんだよ。以前言っただろう。不審な男が大学の中をうろついていると。それはきみの父親のことだったんだ。その度に座敷童の力で追い払っていたのだけれど今日はそれが間に合わなかった」

ああ、やっぱり間宮さんはわたしを守っていてくれたんだ。感情が高ぶってぼろぼろと涙がこぼれる。間宮さんは慌てた顔でわたしの顔を拭う。

「ごめん、怖かっただろう? 今後はもう少し早く現れるようにするから」

「そうじゃないよ。嬉しいの。つっくんが今でもわたしを守ってくれていることが嬉しいの」

「笹垣さん……」

だから、わたしはいつまでも弱いままじゃだめだ。ちゃんと、自分の力で父と向き合わなくてはいけない。そしてきちんと父と、実家と別れることができたら、改めて間宮さんと半紙をしよう。

「間宮さん。わたし父と話をするよ」

「しかし、それは」

「だからお願いがあります。そのとき隣に居てくれますか」

「きみが望むなら。ただし今の俺は大学に憑いている座敷童だから大学の外には出られない」

なら大学の中で話せばいい。どこかいい場所があるだろうか。

「とにかく今日は落ち着いた方がいい。きみの父親は丸め込んで帰させるから、きみも今日は家に帰ってゆっくり休め」

「じゃあお願いします。今週はずっと雨の予報だったから間宮さんは姿を現せるよね? 明日、場所と日時を決めよう」

「了解した。それじゃあ行こうか」

そういえばわたしと間宮さんは教室の隅でくっついたままだった。突然恥ずかしくなって飛びのく。そんなわたしを間宮さんは不思議そうに見ているが、あまり気にしないでほしい。

その後父が大学を出たのを確認して、わたしも大学を出る。莉々には体調を崩したから今日は休むとだけメールをして帰宅した。

しかし間宮さんが座敷童……。以前莉々が言っていた間宮さんお化け説は当たっていたらしい。何故わたしにしか見えないのかの謎も解けたような、解けないような。怖いとは思わない。むしろ今まで守ろうとしていてくれたこと、実際に守っていてくれたことに対する感謝しかない。もちろん多少の疑問はあるわけだけど、それは、今は横に置いておくとしよう。

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