雨の中のきみ#39

夕方、江藤教授の部屋でゼミが開かれる。今日のテーマは認知行動療法について。簡単に言ってしまえば人間がなにかを認知したとき、その認知に従って行動が決定されたり変更されたりするということだ。よくある例だと、うつ病に対する抗うつ薬の臨床試験の場合、偽薬(有効成分が入っていない)の投与群でも、症状がある程度改善するため、薬剤を服用しているという希望や期待によって否定的な思考が改善していることが、示唆されている、といった話が有名だろうか。

それを自分に置き換えて考えてみる。わたしは間宮さんが存在していると思って行動している。本当はいないのかもしれないのに、そう認知してその上で行動している。でもそう思い込んでいるのはわたしだけで、わたし以外の人には間宮さんは認知できないからそのように振舞う。そしてわたしの行動と、それ以外の人々の行動の間にはずれが生じる。

怖いなそれ。

でもそうじゃない。だって莉々にも江藤教授にも間宮さんは認知できている。わたしが一緒に居る時だけという限られた状況ではあるけれど、それでもちゃんと存在を認識している。だから間宮さんの存在はわたしの気のせいなんかじゃない。

江藤教授は認知行動療法の実験の話や、有効性、研究結果の話などをしている。人間の思い込みってすごいなと思う。わかりやすくいうとプラシーボ効果なんかがその代表例だ。

人は自分が認知したいものだけを認知する。そしてそれが物質、つまり体に働きかける。ということはわたしにとって間宮さんは認知したい人だけど、他の人にとってはそうじゃないということだろうか。

いやまさか。

そもそも他の人は間宮さんのことをよく知らないのだから、好きも嫌いもないはずだ。でもそうだなあ。興味がわかないから認知の枠から外れているという可能性はあるかもしれない。電車の中で一緒になる他人のように。それは認知しているけれど認知していないのと同じだ。気づいていないわけじゃないけど認識はしていない。その辺の風景や天気と一緒。いつもの普通の普遍的の中に紛れ込んでしまっているのだろう。

じゃあどうしてわたしだけが気付くことができたのだろうか。偶然か、たまたまか、それとも違う何かによるものか。わたしが引かれるだけの何かが間宮さんにはあったのだ。それが何であるかはわからないけど。

ゼミ終了後、江藤教授の部屋で友達と雑談する。以前間宮さんと会話し損ねた彼女はもう間宮さんの話は出さなかった。興味が薄れたのか、嫌われたのだと思って諦めたか。わたしとしては大勢がいる中で間宮さんの話はしたくないからそれでいい。

わたしは嫌だったのだ。間宮さんが他の誰かのものになってしまうことが。幼稚な我儘かもしれないけれど、嫌なものは嫌だから仕方ない。独占欲とか嫉妬とかそういう感じなのだろう。なんだ、わたしにも女っぽいところあるじゃん。悪い意味で。もうちょっといい意味で女らしいといいんだけど、今更どうこうしてもね。今度からもう少し丁寧にしゃべるようにしてみようか。もしくはゆっくり話すようにしてみようか。そういうことを意識的に行っていくことが、認知行動療法の一環ともいえるかもしれない。

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