雨の中のきみ#35
「笹垣さん、なんだか元気がないようだがなにかあったのか?」
「あー、ちょっと夢見が悪くて」
間宮さんに行動心理学の本を貸すとそんなことを言われた。昨日頭がもやもやしたまま眠ったら碌な夢を見なくて、逆に疲れてしまったのだ。起きてても寝ても逃げられないってどういうことよ。
「そうだな。なにか辛いことがあったときは、一度布団をかぶって目をつむり、嫌なことをたくさん思い返してから『は、夢か』と言って飛び起きるといいぞ。多少気がまぎれる。もちろん何の解決にもなりはしないが」
「面白い事言うね、間宮さん。でもありがとう。今度試してみるわ」
本当に何の解決にもならなさそうだけど、それでも気はまぎれるだろうし、頭を切り替えることはできるのかもしれない。
「で? どんな夢を見たんだ。話したくなければ構わないが、話すことで落ち着いて対処できるようになるかもしれないぞ」
「そうだね。昔の夢を見た。まだ実家にいたころの夢。わたしの実家ってさ、家族仲があまりよくなかったから、あまりいい思い出がないんだよね」
「そうか。だから一人暮らしをしているのか」
「そうだよ。もう戻りたくないし関わりたくないから」
これ以上のことは言いたくない。言ったら引かれてしまうかもしれないし、許すように言われるかもしれない。間宮さんにそんなことは言われたくないけれど、世の中には家族というだけで無条件で仲良くあるべきだ、と思う人々がいるのだ。わたしはそれを既に嫌というほど知っている。
「それならそれでいいんじゃないか」
「え?」
「笹垣さんは一人で生活できている。なら、今更関わりたくもない連中に関わる必要なんてないさ」
そう、間宮さんは言う。それはわたしが欲しかった言葉で。何故だろう、ちょっと目の前が滲む。
「俺は家族だからといって無理に仲良くする必要はないと思っている。家族だからこそ一定の距離が必要な場合もある。笹垣さんもきっとそうなんだろう。だから無理に考えることも、接触する必要もない。それでも一人に耐えきれなくなったらここにこい。雨の日であれば俺がいるから」
「あり、がとう」
「できれば泣かないでほしいが、泣きたいのであればそうしてもいい。ハンカチ貸そうか?」
「じゃあ借りる」
差し出されたハンカチで目元を抑える。どうしよう。嬉しいな。わたいはあの人たちのことを気に病まなくていいんだ。だって間宮さんがいる。たまにどうしようもなく気持ちが落ち込むことはあっても、誰かが必ず背中をたたいてくれるということはすごく幸せなことだ。
そとはざあざあと強い雨が降っていて、わたしの漏れてしまいそうな嗚咽をかき消す。やっぱり雨の日はいい。不要な物音がかき消されて、間宮さんの優しい声だけがこの耳に届くのだから。
「でもわたし、迷惑じゃない? 間宮さんに依存してしまっていない?」
「いいんだよ、依存しても。誰かが誰かに頼ることは当然だ。それが多少いき過ぎてしまったとしても、まだ大丈夫だ。笹垣さんは若いんだからすぐに一人で立てるようになるさ」
「若いって。間宮さんもそう年は変わらないでしょ」
「そう見えるか? ならそういうことにしておいてくれ」
そう笑って、間宮さんは言った。またなにかをはぐらかされてしまったが、それはそれで良しとしよう。いつまで間宮さんと一緒に居られるかはわからない。それでもできるだけ傍に居よう。わたしが依存してもいいと言ってくれたのなら、逆に間宮さんがわたしに依存してくれても構わない。そうやって人間、寄り添いながら生きていくのだろう。
「間宮さんも家族とは離れて生活してるんだっけ」
「ああ。もうだいぶ長いこと会っていないな。訃報は聞かないから生きているのだろうけど」
「会いたいと思う?」
「いや、どっちでもいい。会ったら会ったで近況報告をしたり、それなりに話すことはあるだろうけど、こちらから会う機会を作ろうとは思わないな」
そうなのか。わたしみたいに不仲というわけではなさそうだ。ただなんとなく疎遠なだけなのであろう。それが間宮さんにとってちょうどいい距離感であるならわたしから言うことはなにもない。間宮さんには間宮さんの家庭事情があるのだから。
「笹垣さん、この後の授業は?」
「今日は午後から統計学の授業があるかな。だから午前中はずっと間宮さんと一緒にいるよ」
「そうか。立ちっぱなしは辛くないか?」
「大丈夫。足腰は丈夫な方だから。間宮さんは平気?」
「平気だ」
お互いなにもなかったかのように会話を続ける。不思議と間宮さんと会話をしていて途切れることはない。それは会って間もないからネタが尽きないだけなのか、気が合うからどこまででも話していられるのか、どちらだろう。
ちなみに莉々と一緒の場合は話し続けていることもあれば、一緒に居るにもかかわらず互いに別のことをしていることもある。それが気づまりでないのは付き合いが長いからだろう。互いに無理に会話を続ける必要はないとわかっているのだ。
「今日は土砂降りだね」
「明日はもっと降るそうだ」
「そうなの? 梅雨の雨ってもっとしとしとと降るイメージだったんだけどなあ」
「そうでもないんだろう。そういえばバス停からここまで来る途中にアジサイが咲いていたが、気がついたか?」
「気づかなかった。帰りに見てみる」
「なかなかに綺麗だったからそうするといい。カラフルでよかったぞ」
間宮さんは花を気にしたりするのか。それはそれで意外な発見だ。できれば間宮さんと一緒に見に行きたいけど、きっと無理だろうからそれは諦めようか。今日は散々困らせてしまっているから、これ以上の迷惑はかけたくない。
「あ、ハンカチ洗って返すね」
「そのままで構わないが」
「わたしが嫌の。かわりに私のハンカチ貸しておくよ。まだ使ってないからきれいだし。間宮さんもハンカチないと不便でしょ」
「ではそうしようか。へえ、笹垣さんも女の子らしいハンカチを使うんだな」
わたしが差し出したピンクの水玉模様のハンカチを見て間宮さんが笑う。持っているすべてのハンカチがそうかわいらしいわけではないので、今日はたまたまだ。服を買った時にノベルティとしてもらったものだった気がする。
「わたしも一応女の子だったってことだよ。でもこれだと間宮さんが持ち歩くには恥ずかしいかな」
「そう人に見せて回るものではないし問題ない。ありがたく借りるよ」
ゆるゆると会話をしながら雨空を見上げる。雲には切れ目がなくて、まだまだ当分雨は降り続きそうだ。でもそれは嫌じゃない。その分こうして穏やかな時を過ごせるのだから。
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